Evergreen 〜比翼の鳥〜
2
「きゃわっ!?」
宿を求めてトワルの街を散策し始めて間もなく。リーフの背後でアディの奇声が上がった。次いでドサリ、と何か物が落ちるような音が重なる。
「…アディ?」
また躓(つまづ)いたか、それとも人にでもぶつかったかと背後を見たリーフは、予想通り地面に転がっているアディを発見して思わずため息をついた。
丁度、街の中心部にあるバザールの入り口付近に辿り着いた頃だった。
夕刻ながらも、そこで夕食を済ませる者、日用品を買い揃える者、明日出発するのか、その装備を整える者など、行き交う人の数は街の入り口の比ではなく増している。
決して鈍臭い訳ではないのだが、アディには『誰も躓かないような段差に足を取られる』という自慢にならない特技を密かに持っていた。
「…あ、たたた……」
今回は顔面からやったらしく、そろそろと持ち上げた顔の中で、鼻の頭が早くも真っ赤になっていた。当然目は涙目になっている。
「大丈夫か?」
もはや見慣れた状況に、リーフは全く動じずに明らかに義務感と言わんばかりの口調で安否を尋ねる。
そしてそんなリーフの言動にやはり慣れているアディは、顔を顰めたままながらも、よろよろと立ち上がった。
「うー…、痛い……」
動きやすさを重視した、膝丈のズボンとブーツの間でむき出しになっていた膝が、痛々しく擦り剥けて微かに血が滲んでいる。
それを目に留めて、ようやくリーフは動いた。
「…まったく。ちゃんと足元を見ていないからだ」
眉間に皺を刻みつつ、アディの服の裾に付いた泥汚れを乱暴に叩き落としてやると、アディは打ち付けて赤みを増した顔を更に赤くした。
「だ、大丈夫だよ。自分でやるから…!」
言いながら自分でも慌てたように服に付いた汚れを叩く。
子供扱いされたのが嫌だったのだろうか、とリーフは思い、それ以上の手を出すのはやめにした。
何しろ色気の欠片もないが、それなりに年頃の少女である。つまり…一番扱いに困る年頃な訳だ。
必要以上に子供扱いすればむくれるし、かと言って大人と同様の扱いをするには幼過ぎる。正直、時々どう接すればいいのかわからなくなるのだ。
「…傷を洗った方がいい。何処かに水場がないか探して来よう」
ちゃんとした手当ては宿が決まってからの方がいいだろうが、応急処置はしておくべきだろう。そう思っての言葉だったが、アディは驚いたように首を振った。
「いいよ、大丈夫! これくらい、平気だから!」
「…だが……」
「本当に大丈夫! 宿を探そう」
「…わかった」
傷もぶつけた顔も痛いだろうに、必死に言い募るアディに釈然としないものを感じつつも、結局リーフはアディの言葉を受け入れる事にした。
一見した所、似ていない兄妹にも見える彼等だが、実際の主導権を握っているのはアディなのだ。旅の目的地を定めるのも、何らかの選択をするのも──。
彼等の関係は主従関係のそれに等しい。主はアディで、従属はリーフ。それは彼等が共に旅を始めた時に決まった関係だった。
「その代わり、宿についたらしっかり消毒するからな」
「…う。仕方ない…耐える」
「……」
リーフの言葉に一瞬顔を強張らせたアディだったが、それでも宿を探す方を優先した。
余程空腹か疲れているのだろう── そう判断したリーフは、多少妥協してでも宿を確保する事を密かに決意した。
…アディの為に。+ + +
(ああ、またやっちゃった……)
先に行くリーフの背中を見ながら、アディは自己嫌悪に陥っていた。
自分でも時々嫌になる。普通だったら躓きもしないような所で転ぶ、この鈍臭さ。きっと、リーフは呆れ果てている事だろう。
…小さい子供の頃と変わらない自分。
アディはアディなりに、リーフの迷惑にならないように、足手まといにならないようにと気をつけているつもりだけど、その努力が実を結んだ事はない。
大衆の面前で転ぶ恥ずかしさよりも、リーフに呆れられる方がよっぽど怖い。
何しろ── アディには、頼れるものが彼の手しかないのだから。
(…困った奴だ、とか思われたかな……)
先程擦り剥いた膝はじくじく痛みを訴える。これはきっと、消毒の時すさまじく痛む事だろう。
それでも宿探しを優先したのは、彼に余計な手間をかけたくなかったからだ。
リーフがいてくれたから、今まで生きて来られた。
リーフがいるから、アディは前に進める。…独りでないから。
だから何時も恐れている。決して口にしないけれど、彼がいつか自分の側からいなくなってしまう事を。
最初に出会った時、アディは四歳で。焼け野原の中に蹲(うずくま)って、何が起こったのかもわからず、震えながら途方に暮れていた。
頭の中が真っ白で、どうしていいのかわからなかった。そこに彼が現れて── そこから自分を連れ出してくれたのだ。
背負われて進んだ、焼け野原。あの時から今のアディの記憶は始まっている。あの時感じた安心感は、今もまだ思い出せるほど。
その後、ショックのせいかろくに口を利く事も出来なかったアディに彼は言ってくれた。
『…大丈夫。俺がお前を守ってやる』
今でもよくわからない。
どうして彼が、初対面の自分にそんな言葉を言ってくれたのか。そして…今も律儀にその言葉を実行しているのか。
何度か聞こうとしたけれど、結局怖くて聞けなかった。
もし尋ねて、そうした事で今の関係が壊れてしまったら、と思うと──。
それ以前に、自分は彼の素性を知らない。名前の他に個人的な事は何一つ。アディと出会う前、一体どういう生活をしていたのかさえ。
気にならないと言えば、嘘になる。それでも今まで尋ねられなかったのは、自分にも似た部分があるからだった。
…リーフに会う、その前。自分を助けてくれた『天使さま』を見る以前の事を、アディは何一つ覚えていないから。
自分にだって両親がいたはずだけど、彼等の顔も存在も何故か思い出せないのだ。…薄情かもしれないが、そのお陰で逆にリーフと二人きりでも淋しさを感じずに済んだのだけれども。
だから聞かなかった。自分が聞かれて困るように、もしかしたらリーフも困る事情があるかもしれない、そう思って。
(いつまで一緒にいてくれるのかな)
出会ってからもうすぐ十年。
いつ終わるとも知れない、当てのない旅。そんなものに、彼は何時まで自分に付き合ってくれるのだろう。
いつまでもこのまま一緒に居られたらいいのに── そう思う事が、一種の我侭である事をアディは自覚している。
もう、自分も誰かに守って貰わないと生きて行けないような子供でもない。彼を付き合わせる理由も、彼が付き合う義務も、何処にもない。
だからもし、リーフが一言『もうここから先は付き合えない』と言えば、そこで彼との旅は終わるのだ。
そんな事態を想像して、アディは思わず唇を噛み締めた。
想像だけで、こんなに淋しい。でも何時か必ず、その日は来る。『永遠』がこの世にない事はアディにもわかっている事だから。
だからせめて、その日が一日でも遅くやって来るよう祈らずにはいられない。まだ覚悟が出来ていないから。一人ぼっちになる事を受け入れる準備が出来ていないから。
どうか、あと少しこのままで──。