Evergreen 〜比翼の鳥〜
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「お待たせしました! ここよ!」
そう言ってフレルの足がようやく止まったのは、街の中心からかなり離れた場所だった。
人通りがない訳ではないが、どちらかと言うとこの街の住人が多く暮らす場所のようで、周辺には畑のようなものや普通の民家が立ち並んでいる。
そこに── ぽつん、と二階建ての建物があった。
「…居酒屋?」
その入り口に掲げてある看板に気付き、リーフがその眉を不審そうに顰めると、まるでそう言うのを予想したかのようにフレルが口を開いた。
「どちらかと言うと食事処ね。でも一応二階で宿もやっているのよ?」
未成年お断りじゃないわ、とフレルは言い、リーフとアディに笑いかける。
「さて、まず先に傷の手当てをしましょうか。こっちに来て、裏に水場があるの。…あ、宿代とかそういう交渉は中に店主がいるからそこでやって。わたしの名前を出せば通じるから!」
一方的に指示を出すと、リーフが反論する前にアディを連れて行ってしまう。
リーフは一人取り残され、しばしどうしたものかと途方に暮れた。
(…あいつ、あんなに強引な性格だったか……?)
以前のフレルの事を思い返すが、昔馴染みとは言っても個人的に特別親しかった訳でもない。ただ数度── 直接言葉を交わした事があるというだけで。
その時の事を思い返し、リーフの顔に苦虫を噛み潰したような表情が浮かぶ。
(出来れば、会いたくはなかったな)
おそらく、向こうもそう思っているに違いない。
それくらい、いい思い出だったとは思えない会話だった。むしろ、互いに険悪だったとも言ってもいい。
…だから不審に思う。
アディの怪我を見過ごせなかったのだとしても、何故自分を手助けするような事を彼女がするのか。
読めない。
彼女── フレルが何を思って関わってきたのか。なまじ好印象を互いに持っていた訳ではないだけに、その意図がわからなかった。+ + +
「…いらっしゃい!」
扉の上の辺りに下げられていた木製のベルがカランカラン、と乾いた音を鳴らすと同時に、店内から明るい声が飛んできた。
その声と言えば、まだ若い。
店の佇まいが何処か落ち着いていた雰囲気を漂わせていただけに、少し意外に思いつつ声の方を見ると、奥のカウンターの向こうに人好きのする笑顔を湛えた男の姿を発見した。
見た所、三十歳前後と言った所か。
少し薄暗い店内の中、カウンターの周辺はランプで明るく照らされ、苦もなく男の容貌を見る事が出来た。
「お食事ですか?」
柔らかく響く声は耳当たりがいい。
明るい栗色の髪は少し長めで、深緑の瞳は思慮深く訪れた客── リーフに向けられている。
「いや…」
答えつつカウンターへ向かうと、店主と思われる男はおや、と言うような顔になる。そして僅かに首を傾けながら、ひょっとして、と尋ねてきた。
「フレルに言われて来られましたか?」
「!」
まだ彼女の名を一言も出していないのに、この言葉。
リーフは面食らい、咄嗟に返事が出来なかった。そんな彼の反応が予想通りだったのか、やはり、と店主は笑う。
「…何故、わかったんだ?」
感じた疑問を口にすると、店主は口元の笑みを深めて。
「簡単な事ですよ。ここが宿もやっている事は、地元の人間以外は誰も知らないからです」
くすくすと笑いながら、店主はどうぞ、とカウンター席に座るように勧めた。
断る理由もなくその椅子に腰掛けると、それを待っていたようなタイミングで再び口を開く。
「お客さんは僕の勘が正しければ、恐らく今日この街へやって来たばかりの旅人でしょう?」
「あ、ああ……」
またしても見透かしたような言葉に、リーフは再度ぎこちない返事を返す。すると店主は不自然ではない笑顔で説明を続けた。
「フレル…ええと、あなたが会った女性は、この店に住み込みで働いてくれている人なんですよ。彼女は不思議な人でね。困っている人を見つける名人なんです」
「…?」
「あなたもこの街を多少散策したなら見たでしょう。どの宿もかなり高めに宿代を設定している。特別、協定などで決まっている訳ではないのですがね。この街がシャウルドとマザルークの国境に接する街になり、交通の要所になってしまったせいで人の行き来が一気に増えた。特に冬間近になると、この街は国境を越えようとする人でごった返します。すると…出てくる訳です、今までの宿と同様に考えていて、この街で立ち往生する人が」
確かに、とリーフは心の中で頷く。
実際、これだけ探し回ったのに宿代は何処も似たり寄ったりで、自分達も正に困り果てていた。
「…そんな人をね、彼女はここに連れてくるんです。しかも、ただ困っているだけじゃなくて、うちにとって役立つ人ばかりをね」
「役立つ……?」
「ええ」
店主は頷き、しかしそれ以上は話す素振りはない。
今の言葉の真意が掴めず、知らず眉間に皺を寄せて考え込んだリーフだったが、はた、とここへ入ったそもそもの用件を思い出し居住まいを正した。
「…それで……結局、ここは宿なのか?」
「まあ、一応、と頭につきますが。亡くなった両親が宿を営んでいたので、部屋は整っているんですが……」
「…が?」
「実は…僕は、少し足が悪くてね。そこまで手が回らなくなったので、宿は辞めたんですよ」
ほんの少し躊躇した後に言われた言葉に、リーフは軽く目を見開く。
「…済まない」
何となく言いたくない事を言わせてしまったような罪悪感を感じて、謝罪を口にすると店主が慌てたように首を振った。
「あ、き、気にしないで下さい! そういうつもりで言ったんじゃありませんから! …この足の傷には、少し…思い出したくない事があったものですから。それで、宿の事でしたね」
「ああ」
「まあ…そういう訳で、表立っては宿を開いてはいないんですが。でも、フレルが言うんですよ。『折角部屋があるのに、使わないなんて勿体無い!』ってね。僕は一応、反対したんですよ。ここは街道から外れているし、十分な世話も出来ないから食堂だけで十分だとね」
そう言って困ったように彼が肩を竦めた時、横から声が飛んできた。
「でもわたしは負けなかった。『じゃあ、世話ならわたしがやるわ! ついでに客引きもしてあげる!』って言って、ゴードを説得したの」
くすくすと楽しげに笑いながら、店の裏に通じる木戸から姿を見せたフレルは、そのままカウンターの方へやって来ると、ごそごそとその横にある棚を探り始めた。
そうしながら言葉を続ける。
「だからここは、時々、宿にもなるって訳。わたしが客を連れてきた時だけね」
「フレル…何を探しているんだい?」
「ん〜、薬箱。この辺りに仕舞っていたと思ったんだけど……」
「薬箱? ならその右奥の方にあるよ」
「あ、本当だ」
店主── ゴードという名前らしい── の言葉通りの場所から少し古ぼけた薬箱を発見すると、フレルはそれを抱えた。
「ありがと、ゴード。ちょっと持って行くわね」
「それはいいけど、誰か怪我でも?」
「あ、うん。この人の連れの女の子が……」
「…手当てなら、俺がやる」
何の為にそんなものを引っ張り出したのか理解したリーフは、気安い調子で続く二人の会話に何処となく気まずい思いをしながら口を挟む。
一度に二人の視線を向けられて、一瞬どんな顔をすればいいのかわからなくなったリーフだったが、いつもの無表情のままもう一度繰り返した。
「アディの手当てなら俺がする。…アディは?」
「え、と…奥の部屋に居てもらってるわ。見た目はひどそうだったけど、深い傷はないみたい」
「そうか…礼を言う」
リーフの問いに答えつつも、フレルの顔には軽い困惑がある。
何故彼女がそんな顔をするのか理由がわからないまま、リーフは椅子から立ち上がった。わざわざ彼女の手を煩わせる事もない。
正直に言えば── 出来るだけ、アディとは接触してもらいたくないのだ。
何しろ彼女はこちらの事情を何一つ知らない。
下手な事を言われては敵わない…ただでさえ、自分はあまり説明が得意ではないのだ。
アディが自分の過去に疑問を抱いたとして、それを簡単に晴らす事が出来るか怪しい。
そんな彼の心情を知ってか知らずか、フレルはそのまま奥の部屋に向かおうとするリーフを邪魔するように立ち塞がった。
「…何だ?」
「あのね、人の好意は素直に受けた方がいいわよ?」
「…?」
言われた意味がよくわからず眉根を寄せると、フレルは微苦笑を浮かべて続けた。
「心配なのはわかるけど、薬だってタダじゃないでしょ? せめてこの薬箱を受け取ってから手当てに行って欲しいものだわ。せっかく出したんだし」
「…だが……」
フレルの言葉には説得力があった。
実際、応急処置が出来る程度の薬は所持しているが、その量は決して十分ではない。しかも薬は大抵高価だ。
提供してもらえるのなら受ける方がいいのはわかっている。けれど、まだフレルの対する拘りが、リーフに薬箱を受け取るのを妨げていた。
そんな彼の逡巡を見透かしたように、フレルは意味ありげにリーフを見つめる。そしてふと、身を寄せてきた。
「── 安心なさい。あなたが心配するような事は、一つも話していないわ」
「!」
至近距離で囁かれた言葉に、リーフは思わず目を見開いた。
「なんて顔してるのよ」
すぐさま身を離すと、フレルはケラケラと笑い出した。
「ほら、大丈夫だってば。取って食いはしないから」
「…どういう意味だ」
「だから。その薬箱一つ貸すくらいで、宿代を跳ね上げたりしないって事よ。ほら、アディが待ってるわよ。行った行った!」
「……」
結局、薬箱を押し付けられる格好で、リーフはアディのいる部屋に向かう事になった。
調子が狂う。
以前、彼女と言葉を交わした時の事を思い出す。
彼女…フレルは、あんな風に明るく── 遠慮のない笑い声をあげるような人物だっただろうか……?
否。
どちらかというと、いつも何処か思いつめたような、笑い方など知らないのではないかというような様子だったように思う。
── 笑い方を知らないという部分に関しては、『天使』全てに共通する事ではあったけれども。