Evergreen 〜比翼の鳥〜
3
その後何件かの宿に当たったものの、すでに満室だったり、法外な宿代だったりで、なかなか適当な宿が見つからなかった。
「……」
もうすでに日は暮れ、周囲は闇に包まれかけている。
街の中心部と旧アディア側は見て回り、後はマザルーク側が残っているばかりだ。…が、流石にこれ以上歩き回るのは無駄に体力を消耗しかねない。
リーフはちらりと視線だけアディに向ける。弱音は吐かないが、その顔にはやはり疲労が見え隠れしていた。
それも当然だろう、この街に来るまでにすでにそれなりの距離を歩いて来たのだ。
しかも先程擦り剥いた怪我は滲んだ血こそ乾いたようだが、応急処置すらしてない。そんな状態では歩いているだけでもそれなりに痛むに違いない。
「…アディ……」
今日は妥協して、多少値が張ってもそこらの宿に決めてしまうか。
そう結論を出しかけたその時だった。
「…え…まさか、リフェイ……!?」
周囲を行き交う人の波。
そこから突然、そんな声が投げかけられた。
「…──!?」
瞬間、弾かれたように彼は声の方に目を向ける。
聞き間違いでなければ、今の声は確かに彼の名を口にした。彼の── 『天使』であった頃の名前を。
横で何も知らないアディが不思議そうに彼を見ている事にも気づかず、彼は声の主を捜した。やがてそれが通りの反対側に立つ、彼とそう年の変わらない女性のものだという事に気付く。
亜麻色の髪に焦げ茶の瞳を持つその若い女は、驚愕も露に彼等── 否、彼だけを見つめていた。
信じられない、と雄弁に物語る表情は、やがて何処か懐かしい色を帯びて。
「…リーフ、知り合い……?」
困惑を隠さないアディの言葉に我に返った時には、彼女は彼等の目前にまで近付いていた。
「久し振りね。…わたしの事、覚えてる?」
「……」
咄嗟に返事が出てこなかった。
何と言っていいものか、わからないまま取りあえず頷く。
忘れられるはずもない。彼女の事はよく知っていたし、覚えていた。何故なら──。
「…笑いたければ、笑え」
苦い思いでようやく紡いだ言葉に、彼女はただ微苦笑を浮かべるだけだった。
「リーフ…知ってる人なの?」
余裕の無い気持ちを、アディの言葉が和らげる。
…そうだ、この場にはアディがいたのだ。何も知らない、彼女が。ようやく現実を思い出すと、リーフは何処か不安そうなアディに答えた。
「昔馴染み、だ」
「こんにちは…あっと、夜だからこんばんは、ね」
彼女はリーフの動揺など知った事ではないかのように、にっこりとアディに笑いかける。
「わたしはフレル。あなたは?」
「え…あ、アディ、です」
「そう。よろしくね、アディ。あ、わたしの事もフレルって呼んで」
言いながら、彼女はちらりと彼に視線を投げる。
彼にもそう呼べ、と暗に仄めかしている事はすぐにわかった。言われずとも、彼女の『名』を口にするつもりなどなかった。
…その名は、彼の『リフェイ』同様、もうこの世の何処にも存在しないものだから。
「あら…アディ、怪我してるの?」
どうやって彼女── フレルを追い払おうかと思っていると、目ざとく彼女がアディの膝の傷に気がついた。
「駄目じゃない、傷が汚れたままだし……」
言いながら目はリーフを非難がましく睨んでくる。
実際彼女の言葉は事実で、リーフは黙って非難を受ける体勢だったのだが、その言葉に反応したのは当事者のアディの方だった。
「違うの! リーフは悪くない、あたしが…宿を先に探そうって言ったの!」
驚いてアディを見れば、焦ったような顔をフレルに向けて訴えている。
思いがけない反撃に、フレルが目を丸くし── やがてその顔に微笑が浮かんだ。そして。
「やだ、可愛い!」
「!?」
あ、と思った次の瞬間。フレルは人目を気にせず、アディに抱きついていた。
ぎょっと目を見開くアディ。やがてその目は助けを求めるようにリーフに向けられたが、彼にはどうする事も出来なかった。
「わたし、あなたみたいな素直な子って大好きよ」
「え、えと、あの……っ?」
「よし、決めた!」
目を白黒させるアディに構わず何やら勝手に決心すると、フレルはアディから身を離し、満面の笑みでこう告げた。
「わたしがとびっきりの宿を紹介してあげる!」+ + +
こっちこっち、と何処となく楽しげなフレルの先導に従って、アディとリーフはその後に続いていた。こちらは二人とも居心地の悪そうな顔だ。
リーフが不機嫌そうな顔をしている事は珍しくもなんともない事だが、アディがそういう表情をしているのは非常に珍しい。
正直、リーフとしてはあまり彼女とこれ以上の関わりを持ちたくはなかったのだが、アディの傷の手当てもしたいし、彼女の申し出を断る十分な理由が思いつけなかった。
対してアディはと言えば、彼とフレルの繋がりがわからないせいか何処と不安な顔をして、時折ちらちらと二人を見比べている。
リーフが黙って付いて行っている事で、フレルの事は信用に足る人物らしいと思っているようだが、恐らく三人の中で一番状況に付いて行けていないのはアディに違いなかった。
そんな不安が手に取るようにわかるのに、フレルとの関係を説明するうまい言葉が見つからない。
『昔馴染み』と先程は答えたが、今となってはあの時に人違いという事にしておくべきだった、と今更リーフは後悔した。
何しろ── アディと共に行動するようになる以前の知り合いという事にしてしまったら、その頃の事について説明をしなければならなくなる。
今まで興味がなかったのか、それとも聞かずにいてくれたのか、アディから出会う以前の事について尋ねられた事はない。
だが── 昔の知人が現れた今、その頃についての質問が何時出てもおかしくない状況になってしまった訳だ。
(…失敗したな)
自業自得という言葉を噛み締めつつ、アディの不安を解消してやれない自分を、心の中で自嘲する。
こうなったら後は相手── フレルの出方を待つしかない。彼女がどういうつもりで関わってきているのかはっきりさせない限りは下手な事は出来ないし、言えない。
…不様だと思う。以前の自分だったら、アディが不安に思おうが、疑惑を抱こうが気にも留めなかったに違いないのに。
でも…今は。
夕闇に足元の道が覚束なくなる。フレルの足はどんどん街の外れの方へ向かっていて、同時に周辺の闇は濃くなる一方だ。
またアディが躓(つまづ)く事がないように注意しつつ、リーフは腹を括る。
(もし…今回の事で俺の過去がアディに知られるようになっても……)
その時、アディがどんな反応をするのか…考えるのも辛い。
拒絶するだろうか、それとも受け入れてくれるのか。どちらの反応を取るか、今の段階ではまったくわからない。 …それだけアディの存在はリーフの心を占めている。それはもう、誤魔化し様のない事実だ。
(アディが俺から離れるような事になっても、最後の最後まで自分を見失わないようにしよう……)
出会ってから今まで、ずっと騙し続けてきたようなもの。嘘を嘘で固めて、理由をこじつけて側に居続けたのは自分の我侭だ。
真実が明らかになった時、自分の居場所がなくなったとしても── 自分にはそれを受け入れる事しか出来ない。
「…わきゃ!」
そんな事を考えていると、案の定、アディはまた小さな段差に足を取られてつんのめった。
今度はすかさずその腕を掴んで転倒を防ぐと、アディは衝撃に強張った顔のまま、小さく「ありがと」と礼を言う。
いつもの事だろう、と言いかけて── 結局彼は何も言わずにその手を離した。代わりに口にしたのは……。
「…礼はいいから、気をつけろ」
いつもとは違う、何処か案じるような口調のリーフの言葉に、アディが驚いたように目を丸くした。そして嬉しそうに笑うと、うん、と頷く。
「大丈夫? アディ」
アディの奇声のせいか、先に行くフレルも驚いたように声をかけて来る。
「あ、だ、大丈夫です!」
「暗いから足元気をつけてね。その足でまた転んだら大変」
「はは…そうですね」
フレルの言葉に照れ笑いを返し、アディはようやく何時ものような朗らかさを取り戻したようだった。
その大きな瞳から先程まであった不安が消える。そのままその目は隣を歩くリーフに向けられて。
「転びそうになったら、またリーフが助けてくれるよね?」
にっこり笑って言われた言葉は、何時もどおりの口調。リーフは内心ほっとしながらも、結局何時も通りの受け答えを口にした。
「── 気が向いたらな」