Evergreen 〜比翼の鳥〜

 どうか無事に逃げてくれますように。
 そんなアディの心からの祈りが届いたのか、フレルが身を翻して去ってから半刻が過ぎようという頃になっても、追いかけていった男達は戻らず、フレルもまた姿を見せる事はなかった。
 ゴードを捕えている男が、先程から居心地悪そうにしきりとこちらへ視線を向けている。上官に当たると思われる男の様子を窺っているのだろう。
 顔こそ見る事は出来ないが、背後の気配が苛々としたものになっていくのを感じ、アディもまた内心首を傾げていた。
 フレルが無事に逃げてくれていても、いなくても、いくらなんでも追手が戻ってきて良い頃合だ。
 ── 取り逃がした事に責任を感じて、彼等が戻って来れないという可能性もあるが。
「…遅い」
 やがて背後から、耐え切れなくなったかのように、苛立ちをあらわにした声が聞こえた。
「遅過ぎる。何をやっておるのだ……!」
 押し殺してもなお、怒りに満ちたその言葉に、ゴードを捕えている男が身を竦ませる。やがて彼は重苦しい沈黙に耐えかねた様子で、恐る恐る口を開いた。
「あの…隊長。私も様子を見に行きましょうか」
「…何だと?」
「彼等が戻らなければ、我々も退くに退けません。彼等も選りすぐりの精鋭、そう簡単にどうこうなるとは思いませんが……報告にあった王女に従っていた男の姿も未確認ですし、あるいは……」
 口ではいろいろ理屈を述べているが、本音はどうもこの気まずい場所から逃れたいだけのようだ。
 それを見透かしたのか、返った言葉は取り付く島もない程に冷たいものだった。
「ならば余計に行く必要はなかろう。第一、その男はどうする気だ」
「そ、それは……! その、この男は足が不自由なようですし、一人で逃げ出す事も出来ないと……」
「推測だけで物を言うな。ここを手薄にする訳には行かん。── あと半刻待つ。それで戻らない時は──」

 ガシャアアアン!!

 切り捨てる、と男が続けるのと時を同じくして、先程フレルが姿を消した裏へと続く扉の方から、激しい物音が鳴り響いた。
「!?」
「な、何事だ……!?」
 今度はワイン壜が数本割れたのとは比にもならない大音量だった。
 流石の彼等もうろたえる。これだけ大きな音では、周囲の人々が何事かとここへ来るかもしれない。
 ── 目撃者は最小限に、見られた時は可能な限り口を封じよ。
 そう、彼等は命じられていた。それだけ秘密裏に事を運ばねばならなかった。
 それ相応の訓練を積んだ彼等には、確かに一般人が束になって来られても捌けるだけの能力があったが、だからと言って事を大きくするのは望む所ではない。むしろ避けたい所だ。
 焦りは隙を生む。
 思いがけない音に対して、その場にいた全ての人間の意識がそちらに向き、それ以外の事に疎かになったその、瞬間。
 アディは何故か、リーフの事を思い出した。
 まだ、一度も彼の姿を見ていない。彼は、一体何処にいるのだろう? 無事でいるのだろうか?
 今の音は、先程の追手と彼が争った際に起きたものでなければいいけれど──。
 そんな事を思った、刹那。
 一瞬の隙を突いて、彼等の死角となっていた正面の入り口が勢い良く開いた。
 カランカランカラン、とドアベルが高らかに音を鳴らし、はっと彼等を我に返らせた時には、そこから飛び込んできた一人の人間── リーフが、アディを後ろ手に捕えている男の背後に迫っていた。

 …ザンッ!!

 それは、正に一閃。
 抜き放っていたリーフの剣が、男の背を切りつけた。
「ぐわっ!!」
「隊長!!」
 不意打ち同然の攻撃に、思わずアディの腕を掴んでいた男の手の力が緩む。
 元からそれが目的だったのか、切りつけたとは言っても浅い。厚い服地を切り裂き、皮一枚切れる程度だ。
 だが、それで十分だった。
 アディはその隙を逃さず、身を捻って腕を取り戻し、ついでにお返しとばかりにその向こう脛を蹴り飛ばしてその場から離れる。
 思わず呻いてしゃがみこむ男をその場に残し、アディは無我夢中で剣を片手にそこに立つリーフの元へと駆け寄った。
「…、リーフ……ッ!!」
 そのまま、その身体にしがみ付く。
 今まで剣を持ってはいても、リーフがまともにそれ使った所を見た事がなかった。
 護身用とは言いながらも、リーフが自分の前でそれを抜いた事などなかったし、ましてや人を切りつけるなど──。
 けれども今、それが決して飾りではなかったのだと知った。
「……怪我は」
 こういう状況でもリーフはリーフだった。
 相変わらずの淡々とした物言いに、何故かほっとしつつ、アディの胸に湧き上がったのは罪悪感だった。
 大丈夫、と首を振りつつ、しがみ付く手に力を込める。
 ── 今までも、こうして助けてくれていたのだろうか。ふと、そんな事を思う。
 自分の知らない場所で、時として傷を負いながらも、一人きりで戦っていたのだろうか?
「…おのれ!!」
 怒りで我を失ったのか、ゴードに剣を突きつけていた男がこちらに向かって来る。
 椅子を蹴散らし、向かって来るのをリーフは慌てた様子もなく、庇うように片腕を自分にしがみ付くアディの身体に回した。

 …キィンッ!!

 男の一撃を片手で受け止めると、鋭い音が響く。その音にびくっとアディの肩が揺れた。
「…っ、リーフ……!」
 不安そうな顔で見上げてくるのへ、リーフは落ち着く払った声だけを返した。
「見るな。…じっとしてろ」
 目的はアディの身柄であるはずなのに、攻撃を仕向けてくる辺り、冷静さを失っているらしい。アディが巻き込まれて怪我をしたなら、相応の叱責を受けるに違いないのに。
 ── あるいは気付いたのだろうか。
 フレルを追いかけた彼の仲間が、すでに自分の手によって倒された事を。
 あのワインの壜が割れる音が合図だった。
 追いかけてくるだろうとは思ったが、正面を見張る者まで出て来てくれたのは、実にありがたい誤算だった。彼等が己を過信していたと言えばそれまでかもしれないが。
 フレルが合図をするとそのまま裏へと誘導するによう逃げ、出てきた所をリーフが仕留めた。
 命までは奪っていないが、今頃は見心地の悪い夢でも見ている事だろう。
 その後フレルと共に倉庫にあったロープで縛り上げ、時を見計らった。残った二人が、苛立って注意力が散漫になって行くのを。
 たっぷり半刻、流石にヤキモキしているだろうという頃合を見計らい、リーフとフレルは次の作戦に出た。
 二手に別れ、リーフは正面に、裏口にフレルが残り、再び大きな音を立てる事で正面に対する意識を反らしたのだ。
 ── アディとゴードの無事さえ確保できれば、遠慮はいらない。
 出来る事なら知られずにいたかった真実を、アディに知らしめたツケを払って貰うだけだ。
 アディを庇いながらでは、どうしてもその動きは制限されてしまうが、目の前の男がどういう行動に出るかわからない以上は手放す事は出来なかった。
 それに、先程切りつけたアディを拘束していた男は、苦しげに蹲(うずくま)ったままだ。
 当分動けないとは思うが、万が一アディを離して、再びその身柄を奪われる事は避けたかった。

 ブン、ブンッ!!

 空気を切る鈍い音と共に、男はやみくもに剣を振り回す。冷静さを失っているだけでなく、こうした場数をあまり踏んでいないに違いない。
 そうした一撃を返し、あるいは避ける事はそう難しい事ではなかった。

 …ガッ!!

「!?」
 やがて勢い余った男の剣が、振り下ろした先にあった椅子の背に食い込み、男が顔色を変えた。
 すぐに剣を取り戻そうとするが、力任せに振り下ろしたそれが簡単に取れるはずもない。
「う、うわああああッ!!」
 蒼白の顔でしばし剣とリーフを見比べていた男は、さらに自暴自棄になり、今度は殴りかかってきた。
 ── そこに。
「リーフさん、危ないッ!!」

 ガシャン!!

「……!?」
 その瞬間、男は何が起こったのかわからないような顔をした。
 そのまま衝撃が走った自分の後頭部に手を動かし、そこが赤い何かでぐっしょりと濡れているのを確認すると、そのまま目を回してどさりと床に転がった。
「…見事な腕だ」
 予想外の事に虚を突かれたのはリーフもだったが、すぐに彼は賞賛の声を上げた。
 視線を向けた先、カウンターの向こうで腕を振り下ろした体勢のゴードが、その淡々とした声にはっと我に返る。
「え、あ……っ」
 無意識の行動だったのか、我に返ったゴードはおろおろと自分の手と床に転がった男を見比べる。
 傍目には防戦一方だったリーフを助太刀せねばと思ったゴードが、近場にあったワイン壜を掴んで男に向かって投げつけたのだ。
 結果、見事に殴りかかった男の後頭部に炸裂した訳だが。
「…あの、死んでませんよね……?」
 今更ながらのその言葉に、ちらりと床に倒れている男の顔を見たリーフが大丈夫だ、と言葉少なに答えると、ゴードは心底ほっとしたようにため息をついた。
 赤い液体が床に広がっているが、それは壜の中に入っていた赤ワインで、男の血液ではない。
 後で掃除が大変かもしれないが、すでに先程フレルが裏口付近で盛大にワインを壜ごとぶちまけた後だ。手間は大して変わらないだろう。
「…警吏隊を呼びますか?」
 ゴードがおそらくこの場で最も適切な言葉を口にしたが、リーフはしばし考え込んだ後、ゆるりと首を振った。
「呼んだ所で、多分無駄になる。── トワルは旧アディア…シャウルドとマザルークの緩衝地帯だ。ゴタゴタは好まない。場合によってはこちらが悪人にされるぞ」
「…!!」
 その可能性に言われて気付いたのか、ゴードの顔色が変わった。そして床に転がる男と蹲った男を交互に見つめる。
 その素性はわからないが、恐らく彼等がマザルークの軍に連なる人々である事は確かに違いない。
 卒倒した男が、蹲っている男の事を『隊長』と呼んだ事からも、正規の兵士である可能性が高い。
 マザルークの兵士に対してこれだけの無礼を働いたのだとしたら、相手が悪いのだとしてもこちらが加害者として扱われる事は想像に難くない。
 現に今までも、マザルークの兵士が何らかの事件を起こし、それを訴えた側が泣き寝入りした事や逆に営業権を剥奪されたりした事もあった。
「…ではどうしたら……」
 考え込むようにゴードが呟いたその時だった。
「── ゴード!!」
 裏口の辺りで悲鳴のような声があがったかと思うと、亜麻色の髪をした女が店内に飛び出してきた。
 フレルだ、とその場にいた人間が認識した時、赤い花が彼女の胸から咲いた。
「……ッ、フレルさんッ!?」
 アディが思わず叫ぶ。
 ゴードは何が起こったのかわからない様子で、呆然と彼の前に壁になるように立ち塞がった背を見つめた。
 まるで人形のように、フレルの体が崩れ落ちる。
 その胸に突き刺さっていたのは、床に転がっていたワイン壜の破片だった。

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