Evergreen 〜比翼の鳥〜

10

 見る間にフレルのクリーム色したブラウスの胸元が赤く染まってゆく。今度こそワインなどではなく、本物の血だ。
「…チッ! 仕留めそこなったか……」
 呪うような声が床の方から聞こえ、彼等の目が一斉に蹲(うずくま)っていた男に向かう。
 一瞬とは言え、油断していたのは事実だ。背中の傷が浅過ぎた事も理由の一つだろう。苦痛に顔を歪めながらも、男は新たな破片を手にしていた。
「…貴様……!」
 すぐさまリーフが剣を投げる。動けない男は避ける事もできず、破片を握り締めた利き腕に剣を受け、破片を取り落とした。
「アディ、フレルを……!」
「う、うんっ」
 リーフの声に従い、アディがフレルの元へ駆け寄る。
 同時にリーフは男の元へ動き、そのまま当身を食らわせて意識を奪った。アディを取り戻した事で安心したばかりに、と自分自身へ苛立ちを抱く。
 再び同じ事が起きないよう、先程倒れた男と共に店の隅へと運び、近場のカーテンを裂いてそれぞれの手首を縛り上げた。
(ど、どうしよう……っ)
 対するアディは、フレルを抱き上げまではしたものの、そこから何も出来ずにいた。破片自体は大きくはなかったが、引き抜くには勇気がいる鋭い輝きを秘めている。
 倒れた拍子に頭を打ったのか、意識もない。
 ぐったりと重い身体に、泣きたい気持ちになる。
(── これも、あたしのせいなの……?)
 自分が、アディアの王女だから。だからフレルがこんな事になってしまったのだろうか。
 その時、ようやく我に返ったゴードが震える声でフレルを呼んだ。
「フ、フレル……!!」
 その顔色は蒼白で、不自由な足を引き摺って必死にこちらへと近寄ってくる。
「フレル…フレル……、しっかりするんだ……!!」
 跪(ひざまず)き、必死に呼びかける。その声に反応して、フレルが微かに目を開いた。
「フレル……!」
「フレルさん、しっかりして!!」
 ゴードとアディの声に、フレルはうっすらと微笑んだ。その唇が苦痛で掠れた声を紡ぐ。
「…ド、無事……?」
「ばかな事を…どうして僕を庇ったりなんか……!! い、今すぐ医者を呼ぶから……!!」
 はっと我に返った様子でゴードが立ち上がろうとするのを、兵士達を縛り終えたリーフが引き止めた。
「俺が行く。近所の人間に頼んだ方が早いだろう。あんたは側についていた方がいい」
「で、でも……」
「落ち着け、致命傷じゃない。…急所は外れている。破片は医者が来るまで抜くな。体内に欠片でも残ったら大変だからな」
 こんな状況でも自分を失わないリーフのてきぱきと指示は、実に的確と言えるものだった。
 そのままリーフは店の扉に向かい、ちらりとアディに視線を向けた。アディはフレルを支えるのに必死で、彼の視線には気付かない。
 この場に残しても大丈夫だろうか、とふと思いついた考えを振り払い、リーフは夜の闇に沈んだ外へと飛び出していった。

+ + +

 付近の住民の協力で、医者はすぐにやって来た。
 店の中に入った途端、その惨状に目を見張ったが、流石は医者だ。すぐに自分を取り戻すと、傷付き倒れたフレルの元へ向かう。
「ほれ、そこのお嬢ちゃん。ちょっとそこを退いてくれ。ふむ……。硝子か、ちと厄介だな。ここで応急処置をせねばなるまい。…おい、ゴード。気持ちはわかるが、ぼさっとしてないで消毒用の湯を沸かせ!」
 医師の一喝に、ゴードが青褪めた顔を上げる。その手がぎゅっと医師の骨ばった手を握った。
「な、何だ、いきなり!!」
 ぎょっと身を竦める医師に、ゴードは縋るような目を向ける。
「マリウス先生……。フレルを、必ず助けて下さい……!!」
「わかっておるわ! いいからさっさとこの手を離して湯を沸かさんか!!」
「フレルは…僕が一番苦しい時に支えてくれた恩人なんだ。だから……!!」
「だから助けたければだな、」
「あ、あの、あたしがやります!!」
 見るに見かねて、アディが代わりに湯の準備をしに、カウンターの向こう側にある厨房へと入る。
 どの程度の湯が必要なのかわからなかったが、取り合えずすぐにいるのだろうと考えて、小さめの鍋に水を入れる。
 店を締める前だったので、まだ火の気は消えていない。
 大きなかまどの使い方などよくわからなかったが、火から起こす訳ではないのなら何とかなる。
 先程食事中に見たゴードの姿を真似て、水の入った鍋を火にかけるとまたフレルの元へと戻る事にした。湯が沸くのをじっと待っていられない気分だったからだ。
 ようやくゴードの手から解放された医師がリーフと何やら話していた。何があった、などという言葉の断片から、状況を聞いているのだろう。
 一瞬、ひやっとしたものを感じたのは、自分が旧アディアの王女かもしれない事を思い出したからだ。
 まだ信じられないし、人違いだとは思うけれども、そうでないなら何の為にフレルは傷付き、この店もこんなにひどい有様にならねばならなかったのか。
 ズキリと胸が痛んだ。
 自分が王女であろうとなかろうと、この事態を引き起こしたのは紛れもなく自分なのだ。
 先程のゴードの言葉が耳に甦る。

『僕が一番苦しい時に支えてくれた恩人なんだ』

 その言葉を聞いた時、ああ同じだとアディは思った。
 ゴードとフレルがどんな関係にあるのか、実際の所はわからないけれど、フレルはゴードにとって自分にとってのリーフと同じ存在なのだ。
 …かけがえのない『存在』。
(…助かって)
 リーフの言葉を信じるのなら、フレルは多分適切な処置さえすれば助かるだろう。それでもそう祈らずにはいられなかった。
「…アディ? どうした、顔色が悪い」 
 はっと我に返ると、いつの間にそこにいたのか、リーフが相変わらずの無表情で自分の顔を覗き込んでいた。
「な、なんでもないよ!」
「そうか?」
「うん。あ、あの…リーフ……その……」
 ふと、確かめたい衝動に駆られる。
(あたしは本当に旧アディアの王女なの?)
 きっとリーフは何もかも知っている。そんな気がしてならなかった。けれど──。
「お医者さまには、なんて説明したの?」
 結局、問う事は出来ずに別の事を口にする。
 …そうだと肯定される事が怖かった。
 そんなアディの心境を見透かしてか、リーフが一瞬物言いたげな顔をしたものの、すぐに表情を改めてアディの質問へと答える。
「賊が入って暴れた、と説明したが」
「賊!?」
「それ以外に何が言える」
「でも、だって…あの人達が違うって言ったら……!!」
 言いながら、店の隅でまだ伸びている二人の兵士に目を向ける。彼等が自分を狙ってきたと言えば、リーフの嘘はたちどころにバレてしまう。
 しかし、リーフは平然としたものだった。
「言う訳がない。奴等は秘密裏に事を運びたがっていたんだろう。こんな所でペラペラと話すとは思えない。むしろ賊として身柄を押さえられれば、またここを狙う事もないだろう。…これだけの人間に面が割れてはな」
 確かに医師を呼ぶ際に、付近の住民がいくらか集まってきていた。
 見世物ではないという医師の言葉で,、店内にまでは入ってきていないが、どんな奴等がこれをやったのかと、興味津々で店の隅にいる彼等や、裏にまとまって伸びている仲間などを見ている。
「でも……っ」
 それでも納得の行かない様子のアディに、リーフが静かに尋ねた。
「── それとも、正直にお前を狙ってきた輩だとでも言う気か?」
「……!!」
 真っ直ぐな瞳は、心の奥底まで見透かすかのようで。アディは息を飲み、返す言葉を失った。
(だって、あたしのせいだもの)
 言葉にならなかった思いは、心の中に重く沈む。
(あたしがここに来なかったら、フレルさんはあんな目に遭わなかったはずなのに)
 凍りつくアディに、リーフは小さくため息をつくと、ポンと頭を軽く叩いた。
「気にするな。お前のせいじゃない」
「…リーフ……」
 きっと今、泣きそうな顔をしていると思う。縋るような顔をしていると思う。けれどもやはり、こんな時に頼れるのは彼しかいなくて。
 いくつになっても子供みたいだ。そんな事を思いながら、目の前の身体に抱き着いた。
「フレルさん、大丈夫だよね……っ?」
 怖い。
 あんな風に、血を流して倒れている人を直接見たのは初めてで。どんなに大丈夫だと保証されても、安心なんて出来なかった。

 ダッテ、人ハ簡単ニ死ヌ。

(……?)
 ふと脳裏に浮かんだ不吉な言葉に戸惑う。
 今まで人の死に立ち会った事なんて一度もないはずなのに、どうしてそんな事を思うんだろう?
 まるで── 昔、人が呆気なく死んでゆく場面に遭遇した事があるみたいに。
 リーフが珍しく宥めるように背を撫でてくれる。けれど、いつもならそれで落ち着くはずの心は乱れたままだった。
 ── 激しい嵐が通り過ぎた後のように。

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