のワルツ 〜Spicy Black〜

 俺の名は、ハザマ。
 実際には姓でもなく名でもない、単なる呼び名なのだが、俺の知り合いは皆こう呼んでいる。
 というのも、俺には正しい意味での名前がないからだ。
 いや…多分、本当はあったのだと思う。親がつけてくれたであろう、名前が。
 けれど、俺はそれを覚えていない。
 現在では俺の職場の上司に当たる人が俺を拾った時、俺は名前だけでなくそれ以外の自分の事を全て忘れてしまっていたからだ。
 そこで便宜上付けられた名が、『ハザマ』。
 その名には、『人』と『獣』の間にある者、という意味が込められている──。

+ + +

「…ハザマさん? どうしました、浮かないお顔で」
 突然、耳元で聞き覚えのある声。その至近距離からの声で、俺ははっと我に返った。
 どうやらすっかり考えに没頭していたらしい。
「あらまあ、驚いた。あなたでもそんな風に考え込む事があるんですね」
 声の主は俺の反応に目を丸くしたが、すぐに聞き方によっては失礼極まりない言葉を言いながら、ころころと楽しげに笑った。
 その顔を、俺はきっと苦虫を噛み潰したような顔で見ていたに違いない。
 よりにもよって、一番油断のならない人物の前で隙を見せてしまうとは……。
「── 何か用ですか、あかねさん」
 無意識に警戒が声に出て、言葉が硬くなる。
 これでも出来るだけ平静を保っているつもりなのだが、おそらく相手にはこっちの動揺などお見通しだろう。
 彼女── 佐竹あかねという── 目を惹く大きな瞳をこれ以上ない程愉快そうに細めて、まだ笑いの発作の治まらない口元を、白い着物の袖で隠した。
「ごめんなさい、笑ったりして。あなたも半分とはいえ人ですものね。うっかりするような事があって当然でした」
 見た目が十二、三歳程であるせいで、にっこりと笑うその顔はまったく悪意のない無垢なもののように見える。
 腰までもある長い黒髪。常に身に着けているのは、淡い色合いの振袖だ。
 丁寧な口調と相まって、何処の旧家のお嬢様かと思える様子だが、見た目で騙されると痛い目に合う事を俺は熟知していた。
 …そうでなければ、俺がわざわざ自分より明らかに年下の子供に敬語なんぞを使うものか。
「…それで、用件は」
「そんなに怖い顔しなくても。…つれない方ね。用がなければ、声をかけてもなりませんか?」
 軽く小首を傾げての言葉に、出来る事ならそうしてくれ、という言葉が咽喉元まで出かかった。
 だが、そんなことを口にした日には、どんな恐ろしい報復が待ち構えているかわからない。
 俺は心の奥でげんなりしながらも、努めてそれを表に出さないように、最大限に穏やかな口調で返事を返した。
「そんな事はありません。…ですが、あかねさんが用もなく俺の所に来る事なんてないでしょう?」
「まあ! それは誤解です、ハザマさん。ハザマさんはわたくしにとって、大切なお仲間の一人。種族こそ違えども、親愛の情に違いはございませんよ?」
 いけしゃあしゃあと言い放つと、あかねさんは少し悲しげな顔をしてみせた。
 …おそらく、これが初対面だったなら、俺もきっと騙されていた事だろう。
 だが、あいにくと不本意ながら付き合いの長い俺の目には、その笑顔の裏で悪魔が微笑んでいる事を見抜いていた。
「で…本当に何しに来たんです」
 芝居めいたやり取りに付き合う趣味はない。
 そんな意図をこめてもう一度尋ねると、あかねさんはやれやれと言わんばかりにその肩を竦めた。
「もう、本当につれないんですから。…昔はあんなに可愛らしかったのに……」
 むくれた顔でぼそりと付け加えられた言葉に、ぞくりと背中を悪寒が走った。
 これは彼女お得意の『昔の弱み』攻撃が始まるかと反射的に身構えたが、あかねさんはそんな俺の懸念を無視して、いきなりその白い手をずい、と前に突き出した。
「?」
 掌は上を向いている。まるで、何かを求めるような手つきだ。
 だが、軽く記憶を思い返してみても、彼女から託された書類や仕事も、誰かから彼女に渡すように頼まれた物を受け取った記憶もない。
「…あかねさん、この手は一体?」
「一体って…見てわかりませんか?」
「── わからないから聞いているんですが」
「何て事でしょう…!」
 俺は心の底から困惑してのだが、あかねさんもあかねさんで信じられないといった顔をする。
 しかも顔ばかりでなく、差し出されていない側の手の甲を口元に運び、その衝撃の大きさを演出してみせた。
 …今までを思い返すに、彼女がここまでオーバーリアクションをする時は、決まって俺の理解の範疇を超える理由が存在する。
 しかして、あかねさんはやはり俺が予想もしていない言葉を口にしたのだった。
「ハザマさん? あなた、今日が何の日か知らないのですか?」
 何処となく非難めいた口調と視線に、俺の困惑は更に深まる。
 何の日かと問われて、もう一度記憶を浚(さら)ってみたが、今日は祝日でも祭日でもないし(そうならそもそも出勤なぞしていない)、誰かの誕生日でもない。
 眉間に皺を寄せて考え込む俺に、あかねさんは心底呆れた目を向け、差し出していた手を引っ込めたかと思うと、両手を腰に当てた『説教ポーズ』を取った。
「いいですか、ハザマさん。その耳をかっぽじってよーくお聞きなさい。今日は…『ホワイトデー』です。バレンタインのお返しをする日でしょう。この日を忘れるなんて、殿方としてあるまじき事ですよ?」
「…──」
 細い眉を吊り上げての『お説教』に、俺は首を傾げた。
 今日が三月十四日で、世間一般で『ホワイトデー』だと呼ばれている事は知っている。
 …と言うか、俺がこの人の接近に気付かない程に思い悩んでいたのも、実はその事に大いに関係するのだ。
 ── だが、しかし。
 先程の手の意味する所をようやく理解はした俺だったが、やはり一つわからない事があった。
「…あの、あかねさん。俺はあなたから先月の十四日に、何か貰ったような記憶がないんですが?」
 そう…今を遡ること、一ヶ月前。
 バレンタインデーと呼ばれる日、丁度俺は上司と仕事に出ていて。…そこからこの職場に戻ってきた時にあかねさんと言葉を交わしはしたが、その時に何かを渡されたりはしなかった。
 これは断言出来る。
 何故ならその日…うちに帰るまでは、そんな日だという事に俺はまったく気付いていなかったのだから。
 その結果、帰宅した時に今までになく驚かされる羽目になったのだが……。
 その時の事を回想して思わずため息をつきかけた俺を、あかねさんはあからさまにショックを受けた顔でひどいわ、と詰(なじ)った。
「ひどい、ハザマさん。そんな冷たい方だなんて思いませんでした……!」
「え? あの……?」
「ハザマさん、甘いもの苦手でしょう? だから…わたくし……」
 あ、と思った時には、その大きな目は涙で潤み始めていて──。
「ゆ、勇人さんに、言いつけますからあ〜〜〜っ!」
 そんな捨て台詞を投げつけて、こちらの言い分など耳を貸さない勢いであかねさんは去って行った。

+ + +

「おーい、ハザマ。ちょっといいかい?」
 あかねさんが嵐のように去った後、しばらくして扉を軽くノックする音がしたかと思うと、廊下からそんなのんびりとした声がした。
 声を聞くまでもなく、その人の来訪があるだろうと予想していた俺は、うんざりとした気持ちで返事をした。
「…どうぞ」
 答えると、廊下から長身の男が入ってくる。見た所、二十代中頃。均整の取れた身体をスーツで包んだその姿は、何処からどうみても完璧な社会人といった雰囲気だ。
 ちなみに、一応、俺にとっては上司に当たる人だ。
 俺もそれなりに身長があるが、この人は更にそれよりも高い位置に頭がある。その高い場所から見つめてくる目は穏やかで優しい。
 気さく、という言葉をそのまま体現したようなその人は、部屋に入ってくるなり笑顔で言い放ってくれた。
「やーい、泣かせんぼ〜♪ 駄目だろ、子供と年寄りには優しくしないと」
「…そんな事を言われても……」
 多分、俺は憮然とした顔をしていたに違いない。
 そんな俺の顔を面白そうに見つめて、その人── 名前は鳴海勇人という── は徐(おもむろ)にその大きな手を俺の方へと伸ばしたと思うと、避ける暇も与えず、いきなり俺の頭をがしがしと乱暴に撫で始めた。
「ちょ、ちょっと…いきなり何するんだ、あんたはっ!?」
「いやあ…大きくなったなーって思って?」
「何を寝ぼけた事を…っ!」
 見た目と中身の年齢が一致しないのは、この職場ではありふれた事だ。
 だが、一見した所そう年齢の変わらない男に頭を撫でられるなぞ、他には絶対に見られたくない姿だ。
 乱暴に振りほどこうとするが、その手はそう簡単には解けない。
 …── この怪力持ちが……っ!!
「離せ…!」
「はいはい、わかったよ」
 押し殺した声に殺気を込めると、ようやく解放される。
 …なんでそんなに残念そうな顔をされなくちゃならないんだ……。
 ため息をつきながら乱された髪を適当に整えていると、鳴海さん(一応、上司だから『さん』付けだ)はその辺の空いた椅子に腰掛け、こちらもため息混じりで呟いた。
「…ちぇ。お前、猫ッ毛だから触り心地いいのに……」
 ──…。
「それよりさ、さっきあかねさんが涙ながらに俺の所に来たんだけど、一体何があったんだ?」
「…聞かなかったのか?」
「聞いたんだけど、『こんな悲しい事、口にするのも辛い』とか言って教えてくれなかったんだよ」
「…あの人は……」
 頭痛がする。何があったのか、聞きたいのはこっちの方だ。
 だが、この問題が解決しなければ、鳴海さんも退散してくれないだろうし……。
 仕方なく、俺は鳴海さんに事と次第を話した。
「…ふうん。そういう事か」
 話を聞き終えた鳴海さんは、納得したように頷いた。
「本当に俺はあの人に何か貰った覚えはないんだ。だからお返しとか言われても…」
「あのさ、ハザマ。あの人に一般常識を求めるのは、無理だと思うよ?」
「…?」
「ほら、あの人って見かけは小学生だけど、中身は『明治生まれ』だろ。当然、バレンタインデーなんてイベントは元より、その後にこじつけみたいに出来たホワイトデーの意味とか知る訳がないじゃないか」
 何を恐れてか、幾分声を抑えたその言葉は、俺をひどく納得させた。
 そう言えばそういう人だった、と。
 あかねさんは以前クリスマスの時、誰かが言ったキリストの誕生日だという説明を鵜呑みにして、クリスマスだというのにバースデーケーキを買って来させた人だ。
 そんな前科がある人が、バレンタインデーやらホワイトデーやらを曲解していないとどうして言えようか。
 …その辺りの変な素直さは、どっかの誰かを彷彿とさせて、余計に俺を欝に走らせた。
「── ちなみに鳴海さんにはあの人……」
「ん? 来なかったよ」
 これで鳴海さんにもお返しを取りに行っていたのなら、まだ理解出来るのに。
「…何でだ……? あの日、俺と鳴海さんは一緒に帰って来たのに……」
 やっぱりあの人は俺にとって、世界で一番不可解な人かもしれない……。
 そんな事を考えていると、鳴海さんはあっさりと言い放ってくれた。
「そりゃ決まってるだろ。俺には薫さんという、最愛の奥さんがいるからさ」
「……は?」
「だから。明治生まれのあの人が、妻帯者に秋波送るなんて、『はしたない』事じゃないのか?」
「…そういう理由なのか……?」
 …確かに、あかねさんと親しい人間の中で、独身の男は俺くらいなのかもしれないが……。
「取り合えず…まず謝って、理由を聞いたら?」
 考え込んだ俺に、鳴海さんが苦笑を浮かべつつそんなアドバイスをくれる。
「身に覚えがないのにか…?」
「…そんなに心底嫌そうな顔しなくても……。でもあかねさんの場合、自分は悪くないと思っている時は、絶対に自分からは折れないじゃないか。この際、自分のプライドは棚に上げて…な?」

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