のワルツ 〜Spicy Black〜

 ── 結局、このまま居心地の悪い思いをするのも嫌で、俺は鳴海さんの言葉に従い、あかねさんの部屋に向かった。
 …すごく、理不尽な気がしてならないんだが、これって被害妄想だろうか……。
 軽くドアをノックすると、扉の向こうから返事は返って来なかった。
 でも部屋の中から気配がする。これは怒ってお篭りに入ってしまったか。
 …ああ、もう、本当に面倒だ。
 俺は出来る事なら、波風立てず、静かに生きて行きたいんだ。なのにどうして、俺の身の回りにいるのは俺を振り回す奴ばっかりなんだ…?
 あかねさんといい、鳴海さんといい。── …ケイトといい。
 思い出して、思わずため息をつく。そうだ…問題はあかねさんだけではなかったのだ。
 ここは早い所、こちらの片を付けてしまおう。
 俺は心を決めると、もう一度ノックを繰り返し、扉越しに中にいるあかねさんに声をかけた。
「…あかねさん。そこにいるんでしょう?」
「……」
「さっきは済みません。…でも本当にわからないんです。こんな事を聞くと、益々失礼になるのかもしれませんが…一体、バレンタインデーの日に、俺に何をくれたんですか?」
 返事はやはり返って来なかった。
 それでも辛抱強くドアの外で待つ事、数分。
 中で人が動く気配がしたかと思うと、カチャリと小さな音と共に扉が開いた。
「…あかねさん」
「本当に、不器用なんですから。尋ねるにしても、もう少し言い様ってものがあるでしょう?」
 怒った口調でそんな事を言いながら、ようやく顔を見せたあかねさんは、こちらがもう一度謝罪する前に、そのまま説教モードに突入してしまった。
 両手を腰に当てて、自分より遥か上にある俺の目を睨むように見つめて。
「良いですか、ハザマさん。殿方がそう簡単に謝るものではありません! 黙して語らず、どんと構えてらっしゃい」
「…しかし……」
「しかし、じゃありません! …今回はわたくしにも非がありました。こちらこそごめんなさい。ハザマさんがちょっとした心遣いに気付くような人でない事を知っていたにも関わらず、自分の気持ちだけを押し付けてしまいました」
 …謝ってくれるのは助かるが、素直に喜べないのは何故だろう……?
「取り合えず、中にどうぞ。こんな所で立ち話もなんですから」
 すっきりしない気持ちのまま、勧めに従って中に入る。
 あかねさんに与えられた部屋は、俺の部屋と造りは同じはずなのだが、機能的な中にもあちらこちらに置かれた花瓶や絵などのせいか、何処か生活感がある。
 …そう言えば、この部屋に入ったのは久し振りだ。
「…さて、問題の十四日の事ですけど」
 俺が椅子に腰を下ろすのを確認して、あかねさんは徐(おもむろ)に核心に触れた。
「ハザマさん、甘いものが苦手でしょう?」
「…ええ」
「二月十四日は殿方にチョコレートを贈るのが普通だと教えて貰ったのですけど、チョコレートって甘いでしょう。だからそれを貴方にあげるのは可哀想かしらって思ったんですけど…今思うと、それが間違いだったようですね」
 そこまで言うと、あかねさんは疲れたようにふう、とため息をついた。
「あの日、ハザマさんは勇人さんと外でのお仕事だったでしょう? すごく冷え込んでいて、寒いだろうと思いましたから…あの日、わたくしは……」
「…── ! もしかして……」
 そこまで聞いて思い出す。
 あの日── 二月の丁度中頃に当たる日は、よりにもよって朝から雪混じりの天気だった。
 午後には雪も止んで晴れ間が見えたものの、基本的に寒さに弱い俺は、内心仕事に出るのが辛かった。
 その出掛けに、ふと机の上を見ると置いてあったのだ。── 自分では買った覚えのない、使い捨てカイロが。
 そしてその横にメモがあって、『寒いからこれを持って行くように』という言葉が書き添えられていた。
 …実はこういう事は過去にも何度もあって。
 しかも時によって、持って来る人間があかねさんだったり、鳴海さんだったり…物によっては、面識のある鳴海さんの奥さんからだったりもした。
 だから思いもしなかったのだ。それがあかねさんからの物で── バレンタインデーにちなんだ物だとは。
「── あれだったんですか……」
「そう。…やっぱり気付いてなかったんですね?」
「済みません」
 今度は心から謝る。
 するとあかねさんはその顔にようやくいつもの笑顔を浮かべてくれた。
「いいんですよ。あの時のメモに、自分の名前を書かなかった事もいけなかったんです。筆跡でわかるだろうと思っていたんですが、よく考えたらハザマさんがそこまで考える訳ないですもの」
「……」
 …気のせいだろうか。
 さりげなく、言葉に毒が入っているような気がするのは。
「真面目で堅物で、不器用な上に口下手。…そんな風にあなたが育ってしまったのには、わたくしにも責任の一端がありますしね……」
「…あかねさん……」
 やはり嫌味が入っていたのか。
 思わず呼びかけた声に険が混じる。するとあかねさんはちらりと視線を投げつけ、不敵に微笑んだ。
 …嫌な予感がしたが、今回は逃げ場がない。
 そして悪魔は楽しげに囁いた。
「それでね、ハザマさん。もうお返しなんて求めませんから、わたくしのお願いを一つ、聞いてくださる?」

+ + +

 重い足取りで自室に戻ると、まだそこに鳴海さんがいた。
「お疲れ。どうだった?」
 気軽に聞いてくれる。
 俺が精神的にどれ程消耗したか、見てわかるだろうに。
「…取り合えず、お怒りは解けた」
「おお、そりゃ良かったじゃないか。…でも、その割りに浮かない顔だけど? 何かあった?」
 鳴海さんの質問に、俺は何と答えたものか悩んだ。
 俺の経験から言って、あかねさんから提示された『お願い』はおそらく、この鳴海さんも焚きつけるに違いない。
 下手に口にすれば、益々泥沼になる気がする。
 だが…こういう時に相談出来る相手が、鳴海さんくらいしかいない事も確かだった。
「…『お願い』された」
「…うわ、それはまた……」
 今までのあかねさんの『お願い』がどういうものか知っている鳴海さんは、同情するような顔になった。
「今回は何?」
「…それが、その……──」
「ん?」
 この期に及んで俺は迷った。
 やっぱり言わない方がいいんじゃないか?
 何しろ、前回の『お願い』である
「一日、『お母様』って呼んで♪」
…の時は、この人まで調子に乗って『じゃあ、俺も「兄さん」で!』とか言ってきたくらいだし。
 そんな風に悩んでいると、鳴海さんは余程言いたくない事だと思ったのだろう(実際、言いたくなかった)、やれやれと肩を竦めると気遣うように言ってくれた。
「わかった。じゃあ、俺からあかねさんに、今回の『お願い』を撤回してもらうように頼んでやるよ」
「…!?」
「いくらお前が可愛いからって、あの人もいろいろ無茶言うからなあ……」
 などと言いながら、早くも扉に向かいかけている長身を、俺は慌てて呼び止めた。
「な、鳴海さん! ちょっと待て!!」
「ん?」
 冗談じゃない。
 そんな事を頼んだら、あかねさん自身から今回の『お願い』が何かこの人にばらされるじゃないか……!
「わかった、話す。実は…──」
 ああ、もう本当に…どうしてこう、面倒な事ばかり降りかかってくるんだ……!
「── 会わせろ、って」
「…? 誰に」
「…── うちの、居候」
 …実際には、あかねさんが言ったお願いの内容はこうだ。

『ハザマさん、わたくし、そろそろハザマさんの未来のお嫁さん…ケイトさんとお会いしたいわ。…連れて来て下さる?』

 よりにもよって、そう来るとは。
 以前から、あかねさんはケイトに会いたいと事ある毎に言っていたが、まだケイトが長い時間人の姿を保てない理由から、無理を言う事はなかった。
 …が。
 先日、ケイトを連れて街へ出た時、その姿をこの職場の人間が目撃したらしく、その話を聞いたあかねさんは『じゃあ、ここに連れてきても大丈夫じゃないの』と思ったらしい。
「居候って…噂のケイトちゃん?」
「…ああ」
「…ふーん……──」
 …ああ、なんか嫌な予感がする。
 しかして、その予感は外れず、鳴海さんは喜色満面の笑顔で言ってくれた。
「それはいいじゃないか! 俺も一度会ってみたかったし。連れて来るだけでいいんなら、『お願い』としては軽い方じゃないか? なっ? 連れておいでよ。そうだ、その時は俺も薫さん呼んでいい? やっぱり、ハザマの『彼女』には薫さんも会いたいだろうしさー」
「…っ」
 やっぱりか……!
 人を何だと思っているんだ、この人達は! 見世物じゃないぞ!?
 …だが、あかねさんだけならともかく、鳴海さんまでもこう言い出したら、事態が変わる事はまずあり得ない。
 逆らって『お願い』を反故にしようものなら…それを盾に取って、うちに押しかけてくるな、確実に……。
 あのあかねさんとケイトという組み合わせだけでも、俺にとっては頭の痛い話なのに、これに鳴海さんと奥さんの薫さんまでも加わった日には…想像するだけで眩暈がする。


 …結局その日、許容範囲を超えた俺はそのまま逃げるように自宅へと帰った。

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