Seed
〜 A Story of 'Miracle'
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0−3.はじまりの日々(2)
彼女の名は、『ブルーローズ』といった。 + + + 「…ブルー…ローズ?」 人名にしては何処か耳慣れない響き。実際に言葉にして呟いても、やはり違和感が否めない。 そんな彼を、例の無感情な瞳で見つめる博士はそうだ、と肯定した。 場所は山荘の中の一室。この場に、当の少女── ブルーローズはいない。 誰、と問われ、どう名乗ったら良いのかと悩んでいる間に、山荘の扉から見知らぬ女性が現れ、あれよあれよと言う間に彼女を連れて行ってしまったからだ。 こんな淋しい場所に一人きりで住んでいるとはもちろん思ってはいなかったが、現れた女性がまだ若く(それでも、少女くらいの年の子供がいても不思議ではない年齢だったが)、博士と似た無感情な表情をしていたせいだろうか、すごく場違いな感じを受けた。 何より、その女性が現れた時、それまで無邪気な笑顔を浮かべていたブルーローズが、怯えるような目をしたのが決定的だった。 一見、母親のようにも見えたが、二人の間にそんな関係は一切ない事が語られずともわかってしまう。 何か言いたげに博士を見上げたブルーローズは、けれども黙って女性に従った。 おそらくそれは日常の事だったのだろう、女性は軽く博士にだけ会釈をすると、扉の向こうへと消えて行った。 そのまま、博士も何事もなかったかのように山荘の中へ足を向けた為、彼も慌ててその後に続くと、ようやく彼の方を見た博士が一度足を止めて口を開く。 「…二階へ」 言うなり、また一人さっさと歩き出してしまう。 そして向かったのは二階の端の部屋── あまり日当たりの良いとは言えない、書斎らしき部屋で。 そこでようやく、博士は彼に向き合い、ここへと連れてきた理由を語り始めたのだった。 曰く── これからあの少女と一緒に暮らして欲しい、と。 「…どうして僕に?」 最初に口をついて出たのは、そんな疑問。 そう返される事は予測していたのか、口答えとも受け取られかねない彼の疑問に対し、博士はその表情を小揺るぎもさせなかった。 「理由が必要かね」 問い返されて、一瞬答えに詰まる。 もちろん、と答えるには、あまりにも彼にとって『博士』は大き過ぎて──。 しかし、そう思っている事はお見通しだったらしい。博士は冷めた視線をしばらく彼に向け、やがて重たい口を開いた。 「あの子と年の近い者が、私が知る限りでは君しかいなかったからだ。それでいいかね…『パーフェクトブラック』」 「……」 その『名前』を耳にした瞬間、彼の顔が微かに強張った。 それは確かに彼を識別する『個体名』で、個人を表す『名前』だったけれど── その人の名にしては不自然に長いそれを、彼は好きではなかった。 自分の本質を表すと同時に、目の前の人に支配されている事を表すものだったから……。せめて心の中で認めない事が、ささやかな反抗だったのだ。 普段は誰も自分の名を呼ぶ事はない。だから意識もあまりせずにいたけれども── だから時折、たとえば先程のように名を問われた時は困る。 すぐに答えられるほど、自分の中にその名前は定着していないから。 「── いつまでですか」 心の中に生まれた重苦しさを振り払うように、別の事に話を向けると、博士はその決して大きくはないその目を、僅かに細めた。 まるで見透かしているようなその視線に居心地の悪さを感じるが、ここで目を反らす事はなんだか負けるような気がして見つめ返す。 やがて博士は軽く腕を組み、静かに問いかけてきた。 「…そんな事を聞いてどうする」 「別に…ただ、気になっただけです」 「では答えよう。── 一生だ」 「── …は?」 思わず間抜けな声が口から漏れた。 冗談を言うような人ではない。だからこそ、今の一言は予想外以外の何物でもなく──。 やがてその言葉の意味が頭の中に浸透すると、彼はその幼い顔に困惑の表情を浮かべた。 彼にとって『一生』という言葉はあまりにも遠く、身近な言葉ではなかった。 生まれる時がそうであったように、死ぬ時も誰かが決めるものだと漠然と感じていたからかもしれない。 博士はそんな彼の反応を予測していたのだろう。 たった一言ながらも、掴み取るにはあまりに漠然とした言葉を、噛んで含めるように繰り返した。 「一生…君には、あの子の側にいてもらう。今日からブルーローズが君の主人だ。もちろん主人とは言っても、どのような関係になるかは彼女の意志次第だが」 言いながら、博士が指を組みかえる。長く骨ばったそれの動きを見ながら、彼はまだ取り残された気分のままだった。 それもそうだろう。 今まで彼にあったのは、限られた世界の中で単調に繰り返される日々だけだったのだから。それが壊れる日が来るなど、夢にも思っていなかったのだ。 「君に課せられるのは、ただ『側にいる事』のみ。その他の事からは自由だ。…君もブルーローズは世間一般的に見れば未成年であるから、放置したりはしないがね。生活的な援助はしよう。だが、こちらからの干渉は基本的にはないと考えて貰っても構わない」 そして博士は、一言すら口を挟めない程に衝撃を受けている彼へ微笑みかけた。 それは何処かぎこちないものだったが、彼が覚えている限り一度も笑った事のない人である。普通の人なら当たり前のはずのそれが、とてつもなく奇妙なものに感じた。 おそらく今までの言葉に、目の前の人が微笑むだけの内容があるとは思えなかったからだろう。 わかっている事は一つだけ。自分に拒否権が最初からないということ。 そして聡い彼は気付いた。 来る途中に博士が口にした謎めいた一言。それは全て、今言われた事を暗示していたのだと。 『証明してみせたまえ』 そう、博士は言った。 『自由』である事、何の下にも属さない事が本当に良い事なのか、を示せと。 その真意はわからない。わからないけれど──。 (…『役目』だ) さあっと、目の前が広がったような気がした。 今までそこに色がある事を認識していなかったかのように、急に世界が色を取り戻してゆく。 ずっと欲していた『生まれてきた理由』が目の前に現れたように思った。── もちろんそれは、錯覚と言われればそれまでのものだったけれど。 自由など望んでいなかったし、先程顔を見ただけのブルーローズという少女に対して特別な感情など抱いていた訳もなかった。 …それでも。 「わかりました。…やります」 自然にそう口にしていた。心の中には不安も迷いもなかった。 自分でも不思議なくらいに。 最初から選択肢などなかったのに、その言葉を自ら口にした瞬間、不思議な充足感を感じた事は確かで。 そして気付く。 今、生まれて初めて、自分の意志で何かを決めたのだという事に。 …その時から、何処か停滞していた彼の時間は確かな時を刻み始めた。 |
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