Seed
〜 A Story of 'Miracle'
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0−6.はじまりの日々(5)
日々は穏やかに過ぎて行った。 春、夏、秋、そして── 冬。四季は移ろい、流れて行く。 それまで過ごしてきた決して短くはない日々に比べると、ブルーローズと引き合わされてから流れた日々は、彼にとっては間違いなく幸せなものだと言えた。 大きな事件の起こらない、それらの日々は確かに『単調』という言葉で表現出来たけれども、それは平穏である事を示してもいた。 人によっては退屈とも言える生活かもしれない。特にする事もなく、毎日をのんびりと過ごすという事は。 けれどもブルーローズと二人きりで過ごす日々は、今の彼にはかけがえのない物になっていた。 季節の変化を感じて生活する事も、明るい陽射しの下も。 うだるような暑さ、舞い落ちる枯葉の感触。 雨の音、降り積もる雪さえ、全てそれまでの生活では無縁のものだったのだから。 そして── 自分に向けられる、純粋な信頼と笑顔も。 それは、彼がずっと欲していたもの。何よりも大切にしたいと思えるものだった。 月日は優しく穏やかに流れてゆく── 来るべき日に向かって。 + + + 彼がブルーローズと過ごすようになって、幾度目かの春。数年の年月の間に、小さな変化が生まれていた。 彼等がそれぞれ、その年月の分だけ成長した事が一つ。 ブルーローズが『おじい様』を待たなくなり、話題にする事も減った事が一つ。 そして、彼がいつの間にやら家事を覚えて、ハウスキーパーが毎日来なくても平気な程になっていた事が一つ。 ブルーローズは相変わらず、丈夫とは言えなかったけれども、子供の頃に比べると飲む薬の量は減ってきている。 その事実を彼は素直に喜んでいた。多少成長しても、相変わらずブルーローズは処方される薬を苦手にしているからだ。 陽射しに輝く緑に満ちた庭先で、彼女はこほんと咳払い。そして鯱張(しゃちほこば)った口調で話し始めた。 「よろしいですか? この世界に満ちる大気の大部分は、元素記号N、原子番号7、原子量約14.0の窒素と呼ばれる気体です。これだけでは、我々人間を含めた生物のほとんどは生きていく事は出来ません。それが何故か知っていますか?」 最近のブルーローズは博士が書いた本を読む事を趣味にしていて、そこで得た知識を披露するのが彼女の中での小さな流行となっていた。 普通の子供なら学校へ通う年頃なのだが、そうする事の出来ない(正しくは許されない)ブルーローズの夢の一つが『学校の先生になること』であるのも理由の一つかもしれない。 子供にとってはそれなりに難しい内容のはずだが、身体が丈夫でないブルーローズにとって一番身近で簡単な娯楽は読書であり、子供向けの本では満足せずどんどんその読書の幅が広がった結果、辿り着いたのはそうした専門書だった。 何しろこの屋敷には、博士の蔵書── その大半が専門書── が山のように置いてあるのだ。わざわざ街へ買いに出たりしなくても、読む本には事欠かない。 何処か試すような目を向けてくるブルーローズに、彼は小さく苦笑いを漏らし、そして答えた。 「それは呼吸が出来ないからです。私達は大気中の窒素ではなく、酸素でなければ生体活動に必要なエネルギーを得る事が出来ません」 ブルーローズに合わせる為に、彼も同様の本を読んでいるので、答えに詰まる事はない。 しかしブルーローズにとっても難しいように、大して年が離れている訳ではない彼にとっても、その内容が難解である事は確かで。 読書自体は嫌いではないが、今のような導入書ではなく本格的な専門書に彼女の興味が移らない事を密かに願うばかりだ。 「そう、その通り」 彼の模範的な回答に満足そうに頷きながら、彼女は楽しそうにくすくすと笑い出す。 昼下がりの穏やかな日差しの下、彼女の姿は彼の目に柔らかく映る。明るい声は鈴の音のように耳に心地よい。 「その大切な酸素を、植物は作り出せるの。人間にはせいぜい化学反応の結果でしか作れないのにね。すごいと思わない? しかも、完全リサイクルなんだから!」 「はいはい。それはもう何度も聞いたよ」 そう言って降参の証に両手を挙げて見せると、彼女はさらに朗らかな笑い声を上げた。 彼女の笑顔はまるで花のようだ、と彼は思う。見る者全ての心を、不思議と和ませる力を持つからだ。 ── 流石に今はもう照れ臭くて、子供の頃のように正直に口には出せないけれど。 「あ、そうだわ!」 何かを突然思いついた様子で、ブルーローズはぽん、と手を打った。そして、悪戯でも仕掛けるような顔で彼を見上げる。 「ねえ、知ってる? わたしとあなたの名前って、大昔は同じ『有り得ないもの』って意味だったのよ」 「…ふうん?」 「あっ、その顔は信じてないわね!?」 途端に頬を小さな子供のように膨らませるブルーローズに、彼は苦笑する。こういう所はいくつになってもまったく変わらない。 「じゃあ、ローズは今日、大昔には嘘をついていい日だったって知ってたかい?」 「えっ? それ…本当?」 疑わしげに彼女の深緑の瞳が彼を映す。それを真っ直ぐに見つめて、彼は真面目くさった顔で口を開いた。 「本当さ。だから君の言葉が正しいとは限らない」 「そんな! …ん? ちょっと待って。それだったらPBの言葉だって……」 「『嘘をついていい日だ』って、嘘をついたって言うのかい? 嘘をついてもいい日に」 「え? そ、それは…えーっと、えーっと……」 混乱して真剣に悩み始めたブルーローズを微笑ましく見つめながら、彼は思う。 生命溢れる緑の庭。ここで、彼女とずっとこうしていられたらいい、と。 五年後も十年後も── もし可能ならば、死が二人を分かつまで。 けれども、彼は思い知る事になる。 いつか彼が考えていたように『大切なもの』は、決して手に入らないものであるのだと。 …終わらない夢は、ないのだと。 |
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