Seed
〜 A Story of 'Miracle' 〜

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1−2.リトル・ローズ(2)

 彼女に会うまで、自分の名前が嫌いだった。
 『リトル・ローズ』── 小さな薔薇。
 子供っぽい感じがするから、ではない。
 愛称のようだから、でもない。
 その名前が、常にこう言っている気がするからだ。

 ── オマエハ・カノジョノ・ミガワリニスギナイ

 誰がそう名づけたのか、それは重要ではない。物心つく頃には、もう自分は知っていたのだから。
 自分がこの世に生を受けたのは、何か目的があっての事だという事を──。

+ + +

 思い出は、甘い匂いに包まれている。
 窓辺から漂うルームフレグランスの香り。
 彼女が身に着けているエプロンの仄かな石鹸の香り。
 常にあるそれらとは異なる匂いが、部屋の中に溢れていた。
「…これ、なに?」
 目の前に置かれた液体をまじまじと見つめて尋ねると、彼女は不思議そうに問い返してきた。
「ココアよ。知らない?」
「ここあ…?」
 聞いた事もない単語ならば、見た事もない謎の物体だった。
 独特の甘ったるい匂いはさておき、薄茶色のそれは見た感じでは口にするものには見えず。
 ここに来た後に、『あなたのよ』と渡された専用のマグカップに入ってなかったなら、おそらく彼女の実験の失敗作だと疑いもしなかったに違いない。
「今はこんな合成品しか手に入らないけどね。それは大目に見てね」
 合成品、という単語からその『オリジナル』が植物由来のものだったのだろう、と想像しつつ。
 そういや、ここに来る前にいた場所では似たような感じの『こーひー』なるものを愛飲していた人間がいたな、と思い出す。
 もっとも、あれはもっと真っ黒な液体で匂いも全然違うものだったが。
 薄黄色に青いラインが入ったカップを覗き込み、ついで彼女の顔を見る。
 何処となく嬉しそうな顔をした彼女は、自分の分のカップを前にじっと自分が飲むのを見守っていた。
「ほら、冷めちゃうわよ? きっと気に入ると思うんだけど」
「…ローズが好きだったから?」
「いいえ。大抵の子供は、ココアが好きなものだからよ」
 自分の皮肉な物言いをさらりと流して、彼女はおどけた口調で言い切る。
「わたしも子供の頃はもちろん大好きだったわ。とっても苦い薬を飲まないとならなかったんだけど、『後でココアを作ってあげる』って言葉一つで頑張って飲んだくらい」
 その目はいつしか自分を通して遠い場所を見つめ始める。
 こんな時の彼女は、彼女を否定的に見る自分の目にさえ、うっかり心配になる程危うさを感じさせる表情になる。
 まだ十分に人生を歩んでいない自分に、過去を懐かしむという行為はまだ遠いもので── だからこそ、そんな顔をするような思い出をいつまでも抱えている彼女が理解出来なかった。
 …何を彼女がそんな顔にさせるのか、まだ知らなかったから。
 何となく不愉快な気持ちになり、意を決してマグカップを手に取り、口をつける。
 一気に飲み干してやりたい所だったけれど、少々猫舌気味の自分にその熱い液体を飲み込むのは至難の技で。
 結局じっくり味わってしまい、口に広がった甘さに、なるほど子供が好きそうな飲み物だ、と納得する。
 ── 詰まる所、美味しい、と思った訳だが。
「どう?」
 口をつけたまま無言でカップを見つめる自分に、彼女が話しかけてくる。
 はっと我に返ると、自分を見る目はいつもの慈しみと優しさに満ちたものに戻っていて。
 …その事にほっとしたのは、きっと気のせいだ。
「…悪くない」
 素直に美味しい、とは言えずにそう答えると、そんな自分の物言いにすでに慣れた彼女はただ嬉しそうに笑うだけで。
「ちょっと粉っぽいよ。それに少し…焦げ臭い」
 何となく口惜しくて、少しでも欠点を挙げてやろうとすると、彼女は堪えた様子もなく、仕方がないわ、と肩を竦めて見せた。
「だって、ココアなんて作ったの久し振りだもの」
「…久し振り」
 微妙に不吉な響きだと思う。
 そう言えば、彼女の前にも自分のと同じデザインで、ラインの色が違うだけ(こちらはくすんだ赤だ)のものが置かれているが、先に口をつけた様子はない。
 まさか、と思いつつ、思わず尋ねてしまった。
「…ローズ。味見、した?」
「いいえ」
 にっこり笑って否定して、彼女はようやく自分のカップに口をつける。そして少し顔を顰め──。
「ごめんなさい、ローズ。ココアの量が多すぎたみたい……」
 ── やっぱり。
 心底呆れたものの、それでもこの決して器用とは言えない彼女が、エプロンまでして必死に作ったであろうコレを残すのも気が引けて。
「…これはこれで飲めるからいいよ」
 あくまでも憎まれ口を利いてしまう自分に少々嫌気が差しつつも、カップに残ったココアを飲む。
 ── これでいい、と思った。
 多少本来の味と違おうが、不味かろうが── この人が、誰でもない自分の為に作ってくれたものだから。
 そんな自分を少し驚いたような顔で彼女は見つめ、やがて嬉しそうな笑顔を浮べる。
 こんな事で簡単に懐柔する気はないけれど。でも──。
 この日のココアの味は、多分これから先も忘れる事はない。そんな気がした。

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