「…あつーい……」
熱を孕(はら)んだ重たい大気が、身体に絡みつく。
年々気温が上昇し、今もまだそれは止まる気配がないといつか耳した記憶が蘇る。
特に海辺は湿気と塩類でベタつく感じが付き纏い、とてもではないが快適な場所とは言い難かった。
しかも降り注ぐ紫外線から守る為、肌が露出する部分にはクリーム状のコーティング剤を塗り、目には特殊加工されたゴーグルをつけている有様だ。
今の環境は、彼女にとっては鬱陶しい以外の何物でもなかった。
(地上はかなり環境が悪いって聞いてたけど…こんなに暑いなんて聞いてないよ?)
『緑の命日』以降、温暖化は急速に進み、世界の大部分が年々海に沈みつつある今、人々が暮らすのは完全に海中に没する事を想定して建設された海上・海中都市である。
彼女も生まれてから今まで暮らしていたのは、世界で最初に造られた海上都市だ。
ほとんど外界と接する事もなく生活していた彼女にとって、『地上』は予想以上に厳しい場所だった。
── それでもまだ、そこで暮らす人達は少なくない。
都市の建設は進んでいるものの、世界全ての人間を収容出来るほどではない。一部の研究者や特権階級の人々が優先的に収容され、一般の人間は後回しにされているのだ。
だからまだ一部の都市は以前のまま機能し、流通も麻痺はしていない。しかし、環境は劣悪に近いし、何より治安は悪化の一途を辿っている。
そんな状況でまだ幼さの残る彼女が一人旅をするのは、明らかに困難に違いなかった。
…けれど。
「…絶対に、見つけてみせるんだから」
自分に言い聞かせるように呟いた。
思い出す。夢を託してくれた『彼女』の事を。
思い出す。引き止めたいだろうに、見送る事を選んだ『先生』の事を。
ぎゅっと握り締めた小さなトランクには思い出が。背に背負ったナップザックには、『夢』へと繋がる『鍵』が。
それだけを手に、広い世界へ足を踏み出す。
決して優しくはないそこに── 求めるものがあるはずだから。
+ + +
「こらあっ! 人の物、取ってるんじゃないわよっ!!」
── それは、旅を始めて半月ほどが過ぎた頃のこと。
ようやく旅慣れてきて、長距離の徒歩による移動にも耐えられるようになってきた矢先の事だった。
油断していた訳ではない。治安が悪い事は予備知識として知っていたから、用心に用心を重ねて今まで来た。
しかし、付け焼刃の彼女の『用心』は、劣悪な環境で生きる人々に通用しなかったのだ。
通りすがりに手にしていたトランクを掠め取られた。おそらく常習犯なのだろう、トランクが手からなくなった事に、一瞬気付かなかったくらい鮮やかな手際だった。
怒鳴りながら、彼女は駆ける。怒りに顔を真っ赤にして、ものすごい勢いで駆ける。
今まで走って移動するなどほとんどした事がない彼女にとって、おそらく初めての全力疾走だった。
…けれども、その背は遠ざかる。相手は彼女よりも遥かに大人で、しかも俊足だった。見る間に彼等の間に距離が生じ始める。
「…ちょ、っとおっ! その中には…金目の、物、なんて…入ってな……っ」
じゃあ、どうしてこんなに必死に走っているのか、と頭の何処かで考える。
(…だって、あれは…あの中の荷物は…今の私の全てなんだよ!?)
反論するように思いながら、彼女は必死に足を動かす。
本当に大切な物は、身に着けたナップザックの中に入っているカードキーだけ。
けれど、小さ目のトランクに入っているのは、他の人間にはガラクタ同然でも、彼女にとってはとても大事なものばかりだった。
着替えの服にしても、その他身の回りの細々としたものも、全て『彼女』の思い出がこもっているのだから。
「待っ…、お願、い……」
呼吸が乱れ、目が霞む。足も重い。
酸素がかなり薄い場所なのだから、それも仕方がない事だった。
(お願い、誰か……!)
縋(すが)るように、そう思った時──。
「あいつを、追いかければいいのか?」
突然、耳元でそんな声がした。聞き覚えのない、若い男の声。
一瞬、何が何なのかわからなくなる。頷く事すら出来ないでいると、混乱する彼女の視界に、何か銀色のものが見えた。
(…誰?)
銀色── 金属的な輝きを持つ、銀の糸。
それが、何者かの髪である事に気付いたのは、その残像が消えてしまった後だった。
その髪の持ち主は、あっと言う間に彼女を置き去りにして視界から消えてしまう。
(えっと…? 今の、何だったの……?)
肩で息をしながら、彼女はついに足を止めた。
ぐるぐると視界が回る。酸欠と貧血が同時に起こりかけている。急に激しい運動をしたからだろう。
よろよろと道端に移動してそのまま座り込んだ。
(この位で情けない。まだ、何も見つけていないのに……)
まだ、何の手がかりも。
いくら体力的な差異があったとしても、自分の荷物一つ、取り戻せないなんて。
彼女は唇を噛み締める。どうしようもなく、悔しかった。
「…ああ、ここにいたのか」
またしても不意に頭上からそんな声が降ってきて、彼女ははっと我に返った。
慌てて顔を上げると、見覚えのない青年が彼女を見下ろしている。
「えっ…と……?」
困惑する彼女に、青年は無表情でずい、と何かを押し付ける。何かと思えば、それは彼女が先程盗られたはずのトランクだった。
「あ…それ……!」
「これ、君のなんだろう?」
青年の言葉に、彼女はただ頷いた。差し出されたトランクを受け取り、ぎゅっとその存在を確かめるように抱き締める。
彼が取り戻してくれたのだ、とは頭の中で理解したが、どうして見も知らない彼がそんな事をしたのかわからなかったのだ。
…地上で、こんな親切を受けた事は初めてだった。心の何処かでそんな事はここではないと思っていたくらいだった。
なのに──。
呆けたように彼を見上げる彼女の目に気付いたのか、青年はぎこちなく微笑み、そして手を差し伸べてくる。
その瞳が髪と同じ銀色に輝くのを、彼女は不思議な気持ちで見つめた。
それは普通の人間には持ち得ない、無機質な輝き。同時に彼が、自分がつけているゴーグルをつけていない事にも気付く。
「……?」
「こんな所に座り込んでいても身体は休まらないだろう。動けるか?」
「あ…はい、どうも……」
我ながら間の抜けた返事だと思いながら、彼女は彼の手を取った。見かけによらない力によって軽々と彼女を立たせると、青年はあっさりと手を離す。
この暑さの中、不自然な金属的な冷たさが手に残った。けれどもその事に不快さも違和感も感じない。むしろ心地よさすら感じる自分が不思議だった。
赤の他人からの親切を頭から信じるなど、無謀も良い所だと頭の中では理解している。それでも、何故か彼に対して警戒心はわかない。
相手はどう見ても、普通の人間には見えないのに。
「あの、取り戻してくれて…ありがとう」
その言葉はすんなりと彼女の口から紡がれた。
「── 大切なものだったのか?」
「…うん」
もう一度、ぎゅっと抱き締める。
もしあのまま持ち去られた所で、奪った男は中を見てがっかりした事だろう。金銭的に価値のあるものは、ほとんど入っていないのだから。
世界に唯一人。自分だけがそれに価値を見出す。
再び手に戻ってきた事が嬉しくて、自然に口元に笑みが浮ぶ。
…それは、随分と長いこと面に出る事のなかった、心からの笑顔だった。