鈴木由里さんと「ともしび」
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 昭和47年8月29日、骨肉種でこの世を去った、当時17歳の鈴木由里(ゆり)さんが、その半年前から「ともしび」と名付けて書き始め、度重なる手術、苦痛と、死への恐怖におびえながらも、友人たちや周りの人たちの温かい励ましに、最後まで「がんばらなくちゃ」と病に立ち向かっていった、いのちの手記です。

 由里さんは2月25日から手記を書き始めました。このときすでに片足の切断手術を受けたあとのようです。そして骨肉種のガン細胞が目に転移したのか、27日か28日頃に片目の摘出手術も受けています。さらに6月3日にもう片足の手術。
 しかし、もうこれ以上外科的療法では無理ということなのか、7月1日に東京の病院へ移っています。そこで放射線療法を受けるのですが・・・

 7月25日意識不明になったと書いています。危篤状態に陥って家族や友人知人が呼ばれ、意識が戻ってその人たちの顔が見えたときの不安な気持ちが、
「どうしたっていうのよ。 ・・・」に表れています。

 由里さんが亡くなる1か月前、良くなるどころか次第に重くなっていく自分の病気に、もう助からないことを感じとったようです。しかし、そんな中でも周囲の人を気遣う、彼女の優しさが切ないほど伝わってきます。そして父母、妹、友人知人に宛てて、遺書のようなものを手記に書き残しています。

 8月14日、つらい日々のようすが、
「暑い。口がかわく。ご飯がおいしくない。ああ、何もかもいや。」
に凝縮されています。こう書かれているのはこの日だけで、いつもはこんな泣き言は言わないようにしていたのではないかと思うと、胸に迫ってくるものがあります。
 17日には、からだがけいれん状態になり、手記を書くのもままならないところまで病状が進んでいます。

「きょうも日の出が見られた。」
これは、眠ってしまったらもう目が覚めないのではないか? そんな気持ちが代弁されているように感じます。

「夏を閉じる日」
自らを送る詩なのでしょうか。

「がんばらなくちゃ。」
手記を一冊書き終え、役目を果たしたかのように昭和47年8月29日、由里さんは永遠の眠りにつきました。この最後の行にすべてを込めて。

「幸せになりたい」「平凡な奥さんになりたい」「九十九里が見たい」 「いつか笑ってこの手記が読み返せたら」
願いのどれもがかなわなかった由里さんは、病気さえなければ今ごろはたぶん、夢に見ていたような平凡なおばさんでいられたはずです。


 ここに掲載したものは、昭和51年8月24日午前2時から3時にかけて、TBSラジオの深夜放送‘パックインミュージック’で小島一慶さんが朗読されたものから書き起こしました。実際の手記を読んだわけではないので、かな使い・体裁などは、朗読から受けたイメージで作成しました。

最後まで読んでいただければ幸いです。

その1: 2月25日〜5月26日
その2: 6月 3日〜8月21日
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