8月10日、広島、原爆ドーム

平和資料館東館の地下で、「被爆建造物は語る」という企画展を見ました。60年以上経って、被爆した建物や樹木はどうなっているのか、90に及ぶ建物、55本の樹木が、爆心からの距離順にリストアップされ、地図の上に番号がプロットされている展示が興味深かった。原爆ドームのコーナーでは、この建物の図面やペーパークラフトの模型があり、被爆以前の様子を想像することができました。
 この建築のかつての名称は、「広島県産業奨励館」。大正4年、チェコの建築家ヤン・レツルの設計で建てられました。広島県内などの物産品を紹介したり、博物館・美術館的な機能でも活用されていたものです。



 上の写真は、展覧会のパンフレットから使わせていただきました。昭和8年、奥野正男氏撮影による、元安橋西詰めからのものです。現在も遊覧船の船着場がありますが、この写真に写っているように、多くの船が川面を行き来していたことでしょう。





  模型や図面でわかるように、正面を川に向け、川のカーブに合わせて全体をバチ形に開き、中央部、両ウィング、連結部それぞれを、五つの波のような、ふくらんだ曲面として設計されています。今回の広島散歩でお世話になったサイト、「arch-horoshima」で、管理人のmakotoさんが、「私がこの建築の最も優れた点を挙げるとするならば、それはファサード(正面)を川に向け開放的な川辺の景観デザインを成立させているという点だ。」と書かれているのには同感です。さらに言えば、ファサードを曲面の連続とすることで、左右に川面を移動していく船から、窓の見え方が変化していくことを、設計者レツルは意識していたのではないでしょうか。
  いずれにせよ、水の都広島の特色を生かし、広島で最もハイカラで、賑わいの都市空間が成立していたことが想像できます。その、水平距離にしてわずか160m、上空約600mの位置で原爆は炸裂ました。ほぼ真上からの爆風だったために、壁の倒壊は免れ、現在の姿になったということです。
  下の写真が、正面です。ゼツェッション的な装飾に覆われていながら、イオニアのオーダーも使われています。ドームの下は、吹きぬけた階段室でした。



  ドームの北側には、道を隔てて、広島市民球場があります。今シーズン限りで、1957年から50余年続いた歴史に幕を閉じます。



  球場前の電停から、ちょっとヨーロッパの電車のような長い編成の広電に乗って、広島駅に急ぎました。17時53分発の「ひかりレールスター」で博多へ。「リレーつばめ」、新八代で「つばめ」に乗り継いで、21時41分、鹿児島中央駅着。広島・鹿児島間が4時間を切る時代になっていました。
 

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