和解と喪失 | ||
#scene セリアズは生き埋めにされ、処刑される。俘虜達は作業のため移動され、ハラも俘虜とともに収容所を 去る。 ヒックスリはロレンスが日本に対して理解を示す事自体を非難し、ヨノイは所長を解任される。 夜、死に間際のセリアズの頭髪をヨノイが切り取る。セリアズは夢想の中、弟と和解し弟の歌声に 守られながら、死へと解放されて行く。 この二つのシーンの為に、やはり、セリアズはBowieでなければならなかったのだと、今にしても思う。 この行為の飛躍、この存在の超越を、生きている人間の姿でフィルムに焼き付けるためには Bowieでなくては、Bowieという存在がいなくてはならなかったのだと。 1983年、Bowieはあたかも世界にカムバックするかの如く5年ぶりの世界ツアーを回っている。 ジョン・レノンを失った後の世界に送り出された、力強いオリジナルアルバム「レッツダンス」を主眼に 据えたツアーである。この時のBowieの力強さの中にはこの映画の存在が大きく陰影を落としていると 思われてならない。 #scene 物語は日本の降伏直後に飛ぶ。 ロレンスが軍事裁判で死罪となり、処刑前夜となったハラ軍曹の房を訪ねるこのシーンでハラは ひとりの美しい日本の若者である。なんと多くの「ハラ」達をその戦は殺してしまったことであろうか。 ハラとロレンスは向き合い、理解し合い、同情し合う。最早セリアズの死後、戦死したヨノイから 託されたセリアズの遺髪を日本に届けるというロレンスの言葉は神話的ですらある。 ハラはクリスマスの解放の夜を話し、ロレンスはあの日あなたは酔っていたと応える。 別れの時、ハラはロレンスを怒号の如き声で呼び止め、溢れるばかりの笑顔で言うのである。 「メリークリスマス、ミスターロレンス」 この映画はけっして、反戦映画ではない。 この映画が存在するこの世界では、今まさに戦火が伸張と拡大を繰り返しているのである。 若者や子供や母親や老人の上に爆弾が落ちてくる、火力兵器の脅威が炸裂している地域が地球上の そこかしこにある。今このときに、危険な戦地に送られている「自衛隊」と呼ばれる彼等もまた 、年若い日本の子供達なのだ。 何かが忍び寄っている。その忍び寄るものへ、声高なナショナリズムへ、大義名分の下に自国と他国の 兵士を大量に殺戮することに、国家が躊躇しないこの現在において、「反戦」と「非戦」を唱えるもの の声は絶望的に微かにさえ聞こえる。 だが、この映画にはちいさな「種子」が隠されている。その種子は観る者の掌に贈与され深くその中に 潜行し、芽吹く時を待っているかも知れない。 この種子は焦土に蒔かれる種子である。絶望に蒔かれる種子である。 喩え明日が来ないかも知れなくても、種子蒔く者はその播種の手を躊躇うことはない。 戦争という絶望を回避するための知恵に続く道を整える。そのための個人的な小さな準備の為の示唆が この映画の中には散りばめられているのである。 それは異なった文化と言語を持ち、異なる神を持つ、異なる民族の間に、その属する集合から離れて、 個人としての自我同士が人間として分かち合えるものを持ち得るのだろうかという問いであり、 持っていてしかるべきであるとする希望である。 |
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2014年12月24日補足 セリアズが砂に埋められ死のうとする時、
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PSALM 23 |
詩編23 主は我が牧者 私には欠けるものはない。
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