beginning

PB210サニー PB210サニーエクセレント ダートラD仕様
MR-2/SC AW11 MR-2 SC ジムカーナ−A2仕様
マーチスパーターボ マーチRスーパーターボ ラリー仕様
ミラターボTRX4 ダートラA仕様
EP82スターレット EP82スターレットS サーキット走行会仕様


PB210サニーエクセレント ダートラD仕様



解体屋へ行く寸前のサニーエクセレントを入手ダートラD仕様を作り始めた、このDクラスとは安全規則さえ守れば改造自由何でもアリのクラスです。

エンジンはオリジナルのL14をボアアップし1756ccに、ソレックス44、ハイカム、タコ足その他フル改造を施した。
外観では日産スポーツオプションのオーバーフェンダーを装着、当時の日産ワークスバイオレット・ラリーテスト車両と同じカラーリングにした。

エンジンチューンはL型トップチューナー、当時東大阪に店を構えていたトライアル牧原社長自らの手によるもの、この少し後牧原社長チューンによるフェアレディーZが谷田部高速テストコースにおける国産車初の300Km/hを達成、一気にその名を全国に知らしめた。
牧原社長とのおつき合いは私が高校生の時から現在まで25年以上にもなり、ロードスターレース参戦時は特に多大の協力を頂いた。一種のカリスマ的な存在感が有りその処世術は学ぶ事も多い。

車体回りはこれまた現在のロータリーチューンでは、東の横綱、雨宮自動車と並び賞される西の横綱、フジタエンジニアリングに依頼、写真で解る通りボンネットとトランクに初代FUJITA ENGINEERINGのロゴ(?ただの活字)が入っていた。

牧原、藤田両チューナーとも現在はカリスマと呼ばれる程の大成功、今じゃこんなコラボレーションちょっと考えられません。

肝心のサニーは牧原社長渾身のエンジンチューンもリーフリジットのリヤサスじゃパワーが路面に伝わらずJAF戦では苦戦、6位入賞がベストリザルト。
特にこのハッチバック車はリヤのストロークが少なく(セダンは別)コントロールアームも無しではジャダーがひどくトランクションゼロ、今ならリヤサスをごっそり作り替えることも考えられるが当時はそんな知恵も金も無く、ダートの限界とジムカーナ−仕様にリメイク。細々とジムカーナーに通った。






AW11 MR-2 SC ジムカーナ−A2仕様

サニーでジムカーナーに通っている頃第一子が誕生、車載トラックのレンタルやら、その他改造車はなにかと経費がかさみ、ダートラ用86スプリンターも所有したままだったがJAFレギュレーションの変更等で競技での使い道がなくなってしまった。

この辺で改造車はお休みにして、ノーマルでもエントリーの出来るジムカーナーAクラスの車輌を物色することにした。
当時のジムカーナーと言えばAクラスはショックのみ変更可、バネすらノーマル、もちろん旧排気系もノーマル、とりあえず車があれば維持するのはそう難しく無かった。

このころのトップクラスは86からほとんどCR-Xまたは、MR-2に乗り換えていた、この年モデルチェンジされたMR-2はそれまでの4A-GE型にルーツブロワー式スーパーチャージャーを追加した4AG
EZ型エンジンを搭載、インタークーラーも装備し当時としては高出力の145psを絞り出していた。
4A-GEZ
私もこのMR-2(AW-11)を新車で購入、町中のMR-2はほとんどTバー+エアロ&リヤスポイラー付きであったがカタログのすみっこに小さく載っていた素のままのリヤスポイラー無しのGグレードをチョイス、セールスの人がほんとにこれで良いのと何度も確認していた。

納車されたMR-2にポテンザのジムカーナーショックを装着、なんせ関東の森田選手が連戦連勝していたMR-2のショックがポテンザこれだけでこのショックを選んだ私はやっぱり、ミーハー。

この車でJAF近畿地区選手権にエントリー、当時ジムカーナーA2クラスはエントリー200台を超える盛況を呈し、現在でもトップ選手の西原選手を始め、そうそうたるメンバーが名を列ねていた。

そんなシリーズ戦を追い掛けてはみたものの成績はぱっとせず、ある時140台中70位に沈没、才能の無さに愕然、まぁ練習もあんまりしていなかったけれど、このショックから立ち直れず、この一戦を最後にジムカーナーには一切出る事が無かった。

MR-2はジムカーナーに使わないのならこんな不便な車は無く、またまた次期戦闘機を物色し始めた、ところが次の車ももっと不便な車だったんですよね、実は・・・。





マーチR ラリーBクラス仕様

ツーシーターのMR-2を不便に思い買い替えたのは一応は4人乗れるはずの日産マーチ。


「やっぱり男は砂まじりのダート、ジムカーナーなんて箱庭ぐるぐる廻るだけやしせこいせこい、こんなんで成績残してもしゃーないで」と自分の腕は天より高い棚に上げておいて即引退、しかし全日本クラスのジムカーナードライバーときたら凄いの一言、はっきりいってサーキットでも超一流です。

ダートへまたまた復帰、今度は同じダートでもラリーが無性にやりたくなった、当時(1989年頃)前にも書いた大学の同窓生の影ちゃんがダートラから全日本ラリーに転身、負けたく無い気持も少しは有ったのかも知れない。そこで影ちゃんも乗っていたマーチを投入することに決めた、勿論ただのマーチなんかじゃないのはご承知の通り、ぅんな私が当たり前の車なんて買いません!

買ったのは、なんとスパーチャージャー+ターボのダブルチャージャー付きマーチR、日本自動車史上カルトさナンバー1なこの車は、当時のラリーレギュレーションに合わせて日産が作ったちっびっこギャング。わざわざ元のマーチの排気量を落としてラリーBクラスで走れる様にしたり、クロスミッションが標準だったり、その他諸々玄人好みの仕様満載。

加えて、このマーチRは日産の子会社あのオーッテック・ジャパンで最終仕上げがされるとゆうこれまたミーハーな私には飛びつく要素が一杯。値段もとびきり高くて素のマーチiZの2台ぶん、S13シルビアと本体価格は変わらず、しかし今から思えばなんでこんなもん買ったんか解らない。

車にはラリーコンピュータも装備し、さぁラリーに出ようと思った矢先、毎度毎度のJAFのごたごた、フォグランプはダメ!ロールバーは6点装備が必須、その他レギュレーションがころころ、「もーやってられるかい!」・・・かくしてマーチRはダートへ一歩も踏み出す事無く待ち乗りオンリー、これまた街乗りじゃこんな不便な車は有りません、MR-2以上の家族のブーイングにいたたまれなくなり現トライアルの中村チーフメカに売却、売却直後にあわれ、超希少車マーチRは全損になったとか・・・。


足が無いと辛いよネッとばかりに次の車を物色、「もう変な車はコリゴリ」、とは絶対に思わ無いのがこの私、それでも「今度は安上がりな軽四にしておこう」と雑誌をめくっていると、飛び込んできました過去最高の変(?)な車、何と全国限定50台、素の軽四3台分の総額180万円、安いはずの軽四が・・・高く付いたのよね。この話は次回につづくぅー。

写真上:当時のマーチRカタログ  写真下:TIサーキットヘアピンを立ち上がるBOM'SマーチR、レカロSP-Gが2脚!当時は金が有ったのか無かったのか、いまじゃよう買いません・・・。
向こうに見える赤いMR-2SCは現クァンタム・ジャパン代表、シマンタム嶋中その人(どの人やねん)




[レーシングな20年フォトギャラリー1]

home
contents


Attack the Tarmac and Gravel