「文学横浜の会」
文横だより
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2010年12月9日 更新
<12月号> 平成22年12月8日
どの辺りの上空だろうか。突然雲が割れ、そこに海があった。
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今年最後の文横だよりをお届けします。
●例会出席者:浅丘・岡部・金田・河野・桑田・篠田・堀・八重波 /藤野
●例会テーマ:田山花袋「一兵卒」・・・幹事は篠田さん
・田山花袋(1872―1930)
田山花袋は1872(明治5)年1月22日に栃木県(現、群馬県)館林に生まれる。兄一人、姉二人、弟一人。武家出身であったが、一家は維新後典型の没落士族の道程を辿る。6歳の時、父、ワ十郎が西南戦争で戦死。当初、親族が商人にさせようとして9歳で薬種屋に、10歳で書店に丁稚奉公するが続かず。向学心と文学的想像力に富み、12歳で吉田陋軒に漢学を学び、14歳で一家して上京した後に、16歳で日本英学館(後の明治学館)にて英語を学んだ。この頃より西洋文学にも親しんでいく。17歳で桂園派の松浦辰男に和歌を学び、18歳には一時、日本法律学校にも通う。
1891(明治24)年 19歳で尾崎紅葉を訪ねる。処女作『瓜畑』を発表。
・『一兵卒』
『一兵卒』は、日露戦争時の満州において、脚気のため入院した兵士が、あまりにひどい環境の野戦病院から抜け出し、部隊を追いかけて広大な大陸をさまよう物語。通りがかった軍隊も最下級である一兵卒を相手に見放すような態度である。やがて、当時多くは苦悶して死に至る病だった、脚気衝心の症状が生じて死と向き合った時、これ以上ない孤独の中で兵士は恐怖と絶望とに慄いて声を挙げて泣き出す。戦争の大義は遠のいていき、家族や女や楽しかった想い出が走馬灯のように巡る…。
田山花袋は1904年、写真班員として日露戦争に従軍しており、野戦病院への入院の経験もある。従軍記録『第二軍従征日記』では多くの戦死者たちやその家族の悲哀の記録が克明に述べられている。また、花袋6歳の時に父が西南戦争で戦死して家族が辛酸を舐めている。
毎日新聞社が昭和47年に発行した『戦争文学全集』全6巻(別巻1)というのがある。編集委員には、平野謙、大岡昇平、開高健らの名が並ぶ。第2〜6巻には昭和戦前・戦中・戦後発表の作品が所収され、錚々たる顔ぶれの好作品が揃う。昭和より前の作品が所収されている第1巻中の田山花袋『一兵卒』は、明治41年発表で、全集所収44編の中で2番目の古さである。この一事をもってしても、『一兵卒』は、その後の昭和の玉石様々な戦争文学を生み出していった作家たちに、多大な影響を及ぼしていたものと推測できる。
読書会では、主として『蒲団』に絡めたユニークな花袋文学についての雑多な感想が交換された。また、『一兵卒』が創作された背景、脚気衝心の重篤さ、反戦性がどの程度のものだったのか、結末についての印象等が話題に上り、論議された。
花袋文学には特に、赤裸々なまでの正直さと、誠実に描かれた諦念とに特徴がある。最盛期に発表された名作『蒲団』(明治40年)と『田舎教師』(明治42年)の間に挟まれた明治41年発表の『一兵卒』についても、それは如実に表れていると思われる。
(以上 篠田記)
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●次回例会:1月15日(1月だけ第3土曜日です。お間違えなきよう!)
●次回テーマ:ヘミングウェイ「殺し屋」、幹事は浅丘さん。今月の例会に出られなかった方は金田さんに資料をご請求ください。
では、みなさん、よいお年を!
(文責:八重波)
<11月号> 平成22年11月8日
雲が落日の余韻を曳いて靡いている。
舟底をまたゆっくりと、おおどかな波が行く。
11月初旬、ふるさと・土佐の海でのこと。
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さて、今月の文横だより、お届けします。
●例会出席者 : 浅丘・岡野・金田・河野・篠田・山下・八重波/藤野、滝澤(見学)
●例会テーマ : 葛西善蔵「血を吐く」
●今月の幹事 : 金田さん(以下のまとめも)
葛西善蔵は1887(明治20)年に弘前の松森町で生まれ。
「文芸の前には自分は勿論、自分に附随した何物をも犠牲にしたい」という決意の下、
身辺に題材を取った短編を多く描き、「私小説の神様」と称えられた作家。
私小説・心境小説の第一人者、葛西善蔵
以上、「青森県近代文学館」ホームページより
「血を吐く」 大正14年(1925)1月「中央公論」に発表。
長逗留している温泉宿に妊娠している<おせい>が主人公を訪ねる場面からはじまる。
こうした人間は現代では生きられない、
(金田記)
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往年の文士の「美学」を生きた作家・・・そうも言えるかもしれません。
★次回例会は12月4日です(例会後に忘年会)。
★例会テーマ: 田山花袋「一兵卒」(幹事・篠田さん)
★41号の初校は今月中には出る予定です。
(文責:八重波)
<10月号> 平成22年10月4日
先月、3年ぶりに西スマトラ州の州都、パダンを訪れたときのこと。
千数百人が犠牲となったパダンの大地震からちょうど1年。
地震のことなどすっかり忘れていたぼくは、
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文横だより10月号をお届けします。
●例会出席者 : 浅丘・岡部・金田・篠田・清水・藤野・八重波
●例会テーマ : プロスペル・メリメ作「マテオ・ファルコーネ」
●今月の幹事 : 金田さん(以下のまとめも)
プロスペル・メリメ(Prosper Merimee、1803年9月28日パリ - 1870年9月23日カンヌ)
フランスの作家、歴史家、考古学者、官吏。小説『カルメン』で知られる。
注)明治維新(1867年)
パリのブルジョワの家庭に生まれ、法学を学んだ後、官吏となり、
フランスの歴史記念物監督官として多くの歴史的建造物の保護に当たった。
ナポレオン3世の側近であり、元老院議員としても出世を遂げた。
青年期に年長のスタンダールとも親交を持ち、公務の傍ら、戯曲や歴史書などを書いた。
メリメは神秘主義と歴史と非日常性を愛した。
ウォルター・スコットの有名な歴史小説やアレクサンドル・プーシキンの非情さと心理劇の影響を受けていた。
メリメの物語はしばしば神秘に満ち、外国を舞台にしており、スペインとロシアが頻繁に発想の源となっていた。
彼の小説の一つがオペラ『カルメン』となった。
(以上「ウィキペディア」より。)
『マテオ・ファルコネ』
山あいで、妻のジョゼッパ、ひとり息子の少年フォルチュナトと暮らすマテオ・ファルコネは、
その昔、1本スジの通った名うてのアウトロー。
両親が不在のとき、追われて逃げ込んだマテオの昔の仲間(ジャネット・サンピエロ)を10歳の息子、フォルチュナトは
5フランを貰って匿うことになるが、追ってきた黄襟(選抜兵)曹長ガンバの誘惑に負けて、
銀時計と引き換えに匿った所を教えてしまい、ジャネットは捕えられる。
家に戻った父親のマテオ・ファルコネはジャネットに「裏切り者の家!」と罵られる。
仲間内での裏切り行為はあってはならない。肉親の絆より強い、絶対にあってはならない掟なのだ。
怒ったマテオ・ファルコネは一人息子のフォルチュナトを銃で殺す。
隠れ場所を聞き出すための駆け引きや、生きるための厳しい掟等、緊張感を持って読めた短編だった。
日本に置き換えれば、仲間内の厳しい掟は「ヤクザ」の世界と似ているが「子供を殺すだろうか」・・・
昔の侍社会だったらそんな時「親が切腹するのではないか」・・・という意見も出た。
以前、筒井康隆がこの作品を「日本人がぜひとも読むべき一冊」の中に入れていたのは
崩壊しつつある、いやすでに崩壊してしまったこの国の「父性」に対して投じた一石と考えられないだろうか。
(金田記)
★次回例会 : 11月6日
★次回テーマ : 追ってお知らせします。
★41号 : 出稿予定者は11名。送稿が遅れている方はお早めに。
★「文学講演会のお知らせ」
(文責:八重波)
<9月号> 平成22年9月8日
もし横浜に明かりが無くて、空気が澄み切っていたら、私たちはいまこんな星空が観られるはずです・・・
それなのになぜだろう?万葉集以来、月に比して星の歌がこれほどまでに少ないのは。
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9月の文横だより、お届けします。
●例会出席者:浅丘・岡部・金田・河野・桑田・篠田・堀・福谷・山下・八重波
●テーマ:オーヘンリ作「賢者の贈り物」「最後の一葉」
●今月の幹事(司会と以下のまとめ)は金田さん
オー・ヘンリー(O. Henry)
15歳で学業を離れてから、薬剤師、ジャーナリスト、銀行の出納係などさまざまな職を転々して、
自ら諷刺週刊紙を刊行したこともある。コラムニスト兼記者として働いた時期もあったが、
以前に働いていたオハイオ銀行の金を横領した疑い(真相は不明)で懲役5年の有罪判決を受け服役した。
服役前から掌編小説を書き始め、釈放された後『ピッツバーグ・ディスパッチ』紙のフリーランスの記者として働く一方、
作家活動を続けた。
日本で最初に作品が紹介されたのは、1920年(大正9年)に『新青年』に『運命の道』が掲載。
(以上「ウィキペディア」より。)
『賢者の贈り物』 (The Gift of the Magi)
「贈りあう善意の心が大事なのだ」という教訓噺として読むか、皮肉噺として読むかは読み手の勝手だ。
『最後の一葉』 (The Last Leaf)
一幅の凝縮された芸術作品として読める。
(金田記)
●次回のテーマ:メリメ作「マテオ・ファルコーネ」
●41号の原稿締め切りは今月末です。
●その他
(文責:八重波)
<7月号> 平成22年7月7日
実際は船の機関音に驚き、あわてて飛び出したのだろうが、
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文横だより7月号をお届けします。
●例会出席者:浅丘・内間・岡部・金田・河野・篠田・益野・八重波 / 藤野・堀
●テーマ:堀辰雄「聖家族」
●今月の幹事:岡部満さん(レジメ及び以下のまとめ)
この作品に関しては、出席者の間で(素晴らしい作品だとする)肯定派と(余り良い作品とは言えないとする)否定派に分かれました。
(1)最初に、岡部が、堀辰雄の活躍した(満州事変直前の戦時体制に入りつつある)時代状況と彼が密接に関係があった萩原朔太郎、室生犀星、芥川龍之介、川端康成、横光利一との関係について簡単に触れ、次いで、遠藤周作の解説と『聖家族』批判およびと池内輝雄の解説などの抜粋(岡部が用意したコピー)に目を通してもらいました。特に、師事していた芥川龍之介の自殺は堀辰雄に多大なショックを与えたことが特筆されます。
(2)次に、岡部は肯定派として、用意したレジメを参照してもらいながら、この作品の細かい読みないしは解釈に関する議論に入りました。まず(イ)<小説の導入部の巧みさ>、次いで、(ロ)<冒頭約40行から50行の文章に見られる心理描写の相>つまり各文が描述しているのは<客観的事実>/<心理的事実>/<心理的事実の推量>のどれに該当するのか、が重要な差異を生んでいるから、遠藤周作の言うような人造人間的な心理だとする批判は再考を要する等々と、肯定派としての意見を述べ始めました。
(3)ここで否定派から、「そのような細かい議論に入る前に、この作品を読んできて各人はどう感じたかという感想を先に述べてもらった方がよい。私は『風立ちぬ』は良い作品だと思うが、少なくともこの『聖家族』は余り評価できない。不分明な箇所が多すぎる」という意見が出されました。他にも「生活臭が何もない。別世界の話に過ぎない」とか「読んでいて状況がはっきり分からない。扁理は九鬼の子どもなのか否か、扁理と細木夫人との関係もはっきりしない。冒頭の部分で描かれているのは現実なのか否かすら明瞭とは言えない」という意見もありました。肯定派の岡部としても、「一読した場合の不分明さは認めざるを得ない。二読三読し、文章の細部の理解に努めているうちに全体の構想が理解できた」と白状し、もう少しの間、細部の検討の話をさせて頂くことになりました。
(4)検討項目だけを挙げますと(ハ)堀辰雄が師の自殺を論じた卒論「芥川龍之介論」、(ニ)作品を理解するキーワードとしての「乱雑さ」、(ホ)ある箇所では、人工的心理描写によって作品末尾のための伏線が与えられていること、(ヘ)キーワード「硬い性質と弱い性質」、(ト)恋愛の成立に関する差別意識、などです。
(5)最後に、作品末尾の約50行が如何に上首尾に纏められているか、という岡部の解釈を説明させて頂きました。この箇所は、娘「河野さんは死ぬんじゃなくって?」、母「・・・・そんなことはないことよ・・・・それはあの方には九鬼さんが憑いていなさるかもしれないわ。けれども、そのために反ってあの方は救われるのじゃなくって?」、娘「そうかしら・・・・」という三つのセリフしかありませんが、それらセリフ間に挿入されている心理描写や説明が巧妙です。岡部の解釈は、(a)この箇所にこめられている「九鬼(芥川龍之介?)の死」をめぐる扁理(堀辰雄?)の哲学、(b)細木夫人は「一種の鋭い直覚」によって何を直覚したのか、(c)「簡単な逆説(パラドクス)」とは何か、などを考察しております。
(6)否定派から「それにしてもこの作品では男女の情愛に関する扱い方があまりにナイーブ過ぎる。堀辰雄はそういった方面には全くうといのではないか」という重要な論点が与えられました。「綺麗事すぎる」という意見も出ました。「そうかもしれない」と岡部は同意するしかありませんでした。というのは、この作品を書いたときの堀辰雄はまだ26才で恋愛体験も稀少だろうと思ったからです。
(岡部記)
●次回例会は9月4日。8月は休会です。
●次回テーマ、及び幹事は追ってお知らせします。
●41号の原稿締切りは9月末です。
(文責:八重波)
<6月号> 平成22年6月8日
数十万頭の牛や豚を殺処分したが、口蹄疫のウィルスを封じ込めることが
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6月の文横だよりをお届けします
●例会出席者:浅丘・岡部・金田・河野・篠田・益野・山口・山下・八重波/藤野
●例会テーマ:チェーホフ「イオーヌィチ」、幹事は山下さん。以下は氏のまとめです。
--チェーホフ--〔1860〜1904〕
(Anton Pavlovich Tchechov アントン=パブロビチ-チェーホフ)ロシアの小説家、劇作家。
帝政期に、ユーモアと諷刺に富んだ短編小説を数多く残した。簡潔な表現で日常生活をさりげなく描きながら、
人間の俗物性を批判するヒューマニズムに貫かれた作風をもつ。
小説「六号室」、戯曲「桜の園」「三人姉妹」「ワーニャ伯父さん」など。
19世紀末にチェーホフは短編小説に革命を起こした。チェーホフのように第一線で小説を絶えず発表した作家はいなかった。
チェーホフはしばしばギ・ド・モーパッサンと比較されるが、チェーホフは伏線を計算して配置するプロットを凝らした
小説にはあまり関心をもたなかったとされる。チェーホフの小説では実際のところほとんど何も起こらない。
登場人物とその生活が前面に出てくるのである。
モーパッサンが出来事に焦点を当てたのに対し、チェーホフは人物に目を注いだといえる、
ドストエフスキーはその時代の知的葛藤を叙述した。
しかしチェーホフは、本質的な英雄も大悪漢の存在しない世界をはじめて描いた作家として知られている。
「生きた形象から思想が生まれるので、思想から形象が生まれるのではない」
「いかにイメージに沢山のことを言わせるか」
「語られるべき一切は、芝居の舞台におけるように人物の肉体を通して語られる」と言っている。
『イオーヌイチ』(1898)の主人公のように、かつては理想や愛に燃えた青年も、
日常的現実のなかで人生の意義を考えることをやめ、食べて寝るだけの毎日を繰り返すようになったとき、
「自分自身の人生を生きていない」俗物に堕落する。
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