「文学横浜の会」

 文横だより


INDEX 2009年(平成21年)

INDEX 2008年(平成20年)

2010年12月9日 更新


<12月号> 平成22年12月8日

どの辺りの上空だろうか。突然雲が割れ、そこに海があった。
午後の光を照り返す海面は黒い。
何艘かの船が思い思いの方向に航く。
小さい船は小さい航跡を曳きながら、
しかし、行くべきあてと、帰るべき母港を持つものの自負を見せている。
喫水いっぱいに、ほろほろ崩れる日常を積んで・・・

              ★

今年最後の文横だよりをお届けします。

●例会出席者:浅丘・岡部・金田・河野・桑田・篠田・堀・八重波 /藤野

●例会テーマ:田山花袋「一兵卒」・・・幹事は篠田さん

・田山花袋(1872―1930)

田山花袋は1872(明治5)年1月22日に栃木県(現、群馬県)館林に生まれる。兄一人、姉二人、弟一人。武家出身であったが、一家は維新後典型の没落士族の道程を辿る。6歳の時、父、ワ十郎が西南戦争で戦死。当初、親族が商人にさせようとして9歳で薬種屋に、10歳で書店に丁稚奉公するが続かず。向学心と文学的想像力に富み、12歳で吉田陋軒に漢学を学び、14歳で一家して上京した後に、16歳で日本英学館(後の明治学館)にて英語を学んだ。この頃より西洋文学にも親しんでいく。17歳で桂園派の松浦辰男に和歌を学び、18歳には一時、日本法律学校にも通う。

1891(明治24)年 19歳で尾崎紅葉を訪ねる。処女作『瓜畑』を発表。
1892(明治25)年 ユーゴー『レ・ミゼラブル』の翻案『山家水』を発表。
1893(明治26)年 『小詩人』を発表。
1894(明治27)年 和歌を「文学界」に投稿。
1896(明治29)年 この頃、島崎藤村、国木田独歩を知る。
1899(明治32)年 太田玉茗の妹りさと結婚。博文館に入社。
1902(明治35)年 『重右衛門の最後』を発表。
1904(明治37)年 『露骨なる描写』を発表。日露戦争第二写真班員として従軍。
1905(明治38)年 『第二軍従征日記』を発表。
1907(明治40)年 『蒲団』を発表し、自然主義文学の担い手とされる。
1908(明治41)年 『生』、『一兵卒』を発表。
1909(明治42)年 『妻』、『田舎教師』を発表。
1910(明治43)年 『縁』を発表。
1912(明治45)年 博文館を退社。
1916(大正 5)年 『時は過ぎ行く』を発表。
1917(大正 6)年 『一兵卒の銃殺』、『東京の三十年』、『ある僧の奇蹟』を発表。
1924(大正13)年 『源義朝』を発表。
1927(昭和 2)年 『百夜』を発表。
1930(昭和 5)年 5月13日没、東京多磨墓地に葬られる。

・『一兵卒』

『一兵卒』は、日露戦争時の満州において、脚気のため入院した兵士が、あまりにひどい環境の野戦病院から抜け出し、部隊を追いかけて広大な大陸をさまよう物語。通りがかった軍隊も最下級である一兵卒を相手に見放すような態度である。やがて、当時多くは苦悶して死に至る病だった、脚気衝心の症状が生じて死と向き合った時、これ以上ない孤独の中で兵士は恐怖と絶望とに慄いて声を挙げて泣き出す。戦争の大義は遠のいていき、家族や女や楽しかった想い出が走馬灯のように巡る…。  田山花袋は1904年、写真班員として日露戦争に従軍しており、野戦病院への入院の経験もある。従軍記録『第二軍従征日記』では多くの戦死者たちやその家族の悲哀の記録が克明に述べられている。また、花袋6歳の時に父が西南戦争で戦死して家族が辛酸を舐めている。

毎日新聞社が昭和47年に発行した『戦争文学全集』全6巻(別巻1)というのがある。編集委員には、平野謙、大岡昇平、開高健らの名が並ぶ。第2〜6巻には昭和戦前・戦中・戦後発表の作品が所収され、錚々たる顔ぶれの好作品が揃う。昭和より前の作品が所収されている第1巻中の田山花袋『一兵卒』は、明治41年発表で、全集所収44編の中で2番目の古さである。この一事をもってしても、『一兵卒』は、その後の昭和の玉石様々な戦争文学を生み出していった作家たちに、多大な影響を及ぼしていたものと推測できる。

読書会では、主として『蒲団』に絡めたユニークな花袋文学についての雑多な感想が交換された。また、『一兵卒』が創作された背景、脚気衝心の重篤さ、反戦性がどの程度のものだったのか、結末についての印象等が話題に上り、論議された。

花袋文学には特に、赤裸々なまでの正直さと、誠実に描かれた諦念とに特徴がある。最盛期に発表された名作『蒲団』(明治40年)と『田舎教師』(明治42年)の間に挟まれた明治41年発表の『一兵卒』についても、それは如実に表れていると思われる。

(以上 篠田記)

    ★

●次回例会:1月15日(1月だけ第3土曜日です。お間違えなきよう!)

●次回テーマ:ヘミングウェイ「殺し屋」、幹事は浅丘さん。今月の例会に出られなかった方は金田さんに資料をご請求ください。

では、みなさん、よいお年を!

 (文責:八重波)


<11月号> 平成22年11月8日

雲が落日の余韻を曳いて靡いている。
弱い西風。潮は速いが思いのほかの凪ぎ。水平線はほぼ直線に近い。
はるか明神の灯台が数秒ごとの点滅をはじめ、岬のシルエットが濃くなった。

舟底をまたゆっくりと、おおどかな波が行く。
「空がある。海がある。その間(あい)に折れ釘のようにぼくがある。」・・・
ふとそんな実感に捉われるが、立ち上がったフレーズの陳腐さに苦笑する。
小舟の胴の間で揺られながら、ぼくはなおも釣り糸を垂れている。
水深50mの海底からは何の魚信もない。

11月初旬、ふるさと・土佐の海でのこと。

          ★

さて、今月の文横だより、お届けします。

●例会出席者 : 浅丘・岡野・金田・河野・篠田・山下・八重波/藤野、滝澤(見学)

●例会テーマ : 葛西善蔵「血を吐く」

●今月の幹事 : 金田さん(以下のまとめも)

葛西善蔵は1887(明治20)年に弘前の松森町で生まれ。
碇ヶ関村(現平川市)で少年時代を過ごし、2年に渡る北海道での放浪生活を経て、1905(明治38)年に上京。 聴講生として哲学館大学や早稲田大学に籍を置く。
1912(大正元)年、同人雑誌「奇蹟」に処女作「哀しき父」を発表。
1919(大正8)年には第一創作集『子をつれて』を刊行し作家的地位を確立した。

  「文芸の前には自分は勿論、自分に附随した何物をも犠牲にしたい」という決意の下、 身辺に題材を取った短編を多く描き、「私小説の神様」と称えられた作家。
善蔵本人は自らの作品を「自己小説」と呼び、貧困と病の中で自己を確立することの苦しみを作品へと昇華させ、 1928(昭和3)年7月に41歳で世を去る。

私小説・心境小説の第一人者、葛西善蔵

以上、「青森県近代文学館」ホームページより

「血を吐く」 大正14年(1925)1月「中央公論」に発表。

 長逗留している温泉宿に妊娠している<おせい>が主人公を訪ねる場面からはじまる。
主人公は宿料を溜めて、雑誌社に無心しながら、ままならぬ現状に酒浸りの毎日を送っている。 そうした中で、同宿していた文官試験の勉強に来ていた若い二人の法学士との交友が微笑ましく描かれ、 一人残っていたF法学士との別れの場面では、主人公の性格がよく出ている。
その後も酒浸りの毎日を送っていた主人公はある日大量に吐いてしまい、死を覚悟する。 そして奨められて病院へ送られるまでを描いている。

こうした人間は現代では生きられない、
私小説作家というレッテルではなおさら自分のみじめさを晒すような作風になる、
主人公は死に場所を求めていたのではないか、
等という意見もあった。

  (金田記)

             ★

往年の文士の「美学」を生きた作家・・・そうも言えるかもしれません。
同時にまた不義理、不道徳、不健康・・・社会生活に破綻した自らの惨めさを曝け出し、 その傷口から滲み出てくるリンパ液のようなもので綴った作品群からは典型的な‘破滅型私小説作家’像が浮かび上がってきます。 しかし、平野謙に評価されていたというこの短篇を一つの小説として積極的に肯うことはできないし、 正直なところ、文章も含めて、その完成度には疑問も残りました。

★次回例会は12月4日です(例会後に忘年会)。

★例会テーマ: 田山花袋「一兵卒」(幹事・篠田さん)

★41号の初校は今月中には出る予定です。



 (文責:八重波)


<10月号> 平成22年10月4日

先月、3年ぶりに西スマトラ州の州都、パダンを訪れたときのこと。
「rata! センセイ、あそこのホテルも rata! レストランも rata!」
かつての教え子たちは「ぺちゃんこ」と言いたくて、その日本語がわからず
「rata!」」とインドネシア語を連発した。

千数百人が犠牲となったパダンの大地震からちょうど1年。
街中には半ば崩壊したまま放置されたビルや瓦礫の山が散在していた。
ぼくはバイクにリヤカーをくっつけた、軽便タクシーとも言うべきベチャに乗り、
夕暮れの雑踏の中をぐるぐる廻った。
小一時間経って、バイクで伴走していた1人が言った。
「センセイ、ごめんなさい。やっぱりないです、ドラゴンフルーツはどうですか?」

地震のことなどすっかり忘れていたぼくは、
そこここに瓦礫の残る街中を、ただ己の欲望を満たすために廻っていたのだ。
そう、季節はずれのドリアンが食べたくて・・・

             ★

文横だより10月号をお届けします。

●例会出席者 : 浅丘・岡部・金田・篠田・清水・藤野・八重波

●例会テーマ : プロスペル・メリメ作「マテオ・ファルコーネ」

●今月の幹事 : 金田さん(以下のまとめも)

プロスペル・メリメ(Prosper Merimee、1803年9月28日パリ - 1870年9月23日カンヌ)  フランスの作家、歴史家、考古学者、官吏。小説『カルメン』で知られる。   注)明治維新(1867年)

 パリのブルジョワの家庭に生まれ、法学を学んだ後、官吏となり、 フランスの歴史記念物監督官として多くの歴史的建造物の保護に当たった。 ナポレオン3世の側近であり、元老院議員としても出世を遂げた。

 青年期に年長のスタンダールとも親交を持ち、公務の傍ら、戯曲や歴史書などを書いた。 メリメは神秘主義と歴史と非日常性を愛した。 ウォルター・スコットの有名な歴史小説やアレクサンドル・プーシキンの非情さと心理劇の影響を受けていた。 メリメの物語はしばしば神秘に満ち、外国を舞台にしており、スペインとロシアが頻繁に発想の源となっていた。 彼の小説の一つがオペラ『カルメン』となった。

(以上「ウィキペディア」より。)

『マテオ・ファルコネ』

 山あいで、妻のジョゼッパ、ひとり息子の少年フォルチュナトと暮らすマテオ・ファルコネは、 その昔、1本スジの通った名うてのアウトロー。

両親が不在のとき、追われて逃げ込んだマテオの昔の仲間(ジャネット・サンピエロ)を10歳の息子、フォルチュナトは 5フランを貰って匿うことになるが、追ってきた黄襟(選抜兵)曹長ガンバの誘惑に負けて、 銀時計と引き換えに匿った所を教えてしまい、ジャネットは捕えられる。

家に戻った父親のマテオ・ファルコネはジャネットに「裏切り者の家!」と罵られる。 仲間内での裏切り行為はあってはならない。肉親の絆より強い、絶対にあってはならない掟なのだ。 怒ったマテオ・ファルコネは一人息子のフォルチュナトを銃で殺す。

隠れ場所を聞き出すための駆け引きや、生きるための厳しい掟等、緊張感を持って読めた短編だった。 日本に置き換えれば、仲間内の厳しい掟は「ヤクザ」の世界と似ているが「子供を殺すだろうか」・・・ 昔の侍社会だったらそんな時「親が切腹するのではないか」・・・という意見も出た。 以前、筒井康隆がこの作品を「日本人がぜひとも読むべき一冊」の中に入れていたのは 崩壊しつつある、いやすでに崩壊してしまったこの国の「父性」に対して投じた一石と考えられないだろうか。

             (金田記)

★次回例会 : 11月6日

★次回テーマ : 追ってお知らせします。

★41号 : 出稿予定者は11名。送稿が遅れている方はお早めに。

★「文学講演会のお知らせ」
・テーマ;「小説の設計」〜散文に“魔法”は必要か?〜
     講師、佐川光晴氏 <参加費無料>
・日 時;10月11日(月・祝)14時開場
・場 所:かながわ労働プラザ 8F
・主 催;自主講座横浜文学学校(http://art.upper.jp/yokobn)

 (文責:八重波)




<9月号> 平成22年9月8日

もし横浜に明かりが無くて、空気が澄み切っていたら、私たちはいまこんな星空が観られるはずです・・・
そんなナレーションを聞きながら、バーチャルな星空を見上げていた。
レントゲン写真のような白のマッス。何という星の数。以前よく夢の中に出て来た光景だ。
もし現実にこういう光景に出くわしたら、美しさに感動するというより、動物的な恐怖を感じるのではないか。
考えてみれば数百年前までは、こんな星空の下で人は夜を過ごしていたことになる。

それなのになぜだろう?万葉集以来、月に比して星の歌がこれほどまでに少ないのは。

          ★

9月の文横だより、お届けします。

●例会出席者:浅丘・岡部・金田・河野・桑田・篠田・堀・福谷・山下・八重波

●テーマ:オーヘンリ作「賢者の贈り物」「最後の一葉」

●今月の幹事(司会と以下のまとめ)は金田さん

オー・ヘンリー(O. Henry)
本名:William Sydney Porter, 1862年9月11日 - 1910年6月5日)
アメリカの小説家。
主に掌編小説、短編小説を得意とし、381編の作品を残した。 市民の哀歓を描き出した短編が多く欧米ではサキと並んで短編の名手と呼ばれる。 映画化されたものも少なくない。

15歳で学業を離れてから、薬剤師、ジャーナリスト、銀行の出納係などさまざまな職を転々して、 自ら諷刺週刊紙を刊行したこともある。コラムニスト兼記者として働いた時期もあったが、 以前に働いていたオハイオ銀行の金を横領した疑い(真相は不明)で懲役5年の有罪判決を受け服役した。

服役前から掌編小説を書き始め、釈放された後『ピッツバーグ・ディスパッチ』紙のフリーランスの記者として働く一方、 作家活動を続けた。
1904年、処女作『キャベツと王様』、1906年、『四百万』を発表する。
1910年6月5日、主に過度の飲酒を原因とする肝硬変により、病院で生涯を閉じた。

日本で最初に作品が紹介されたのは、1920年(大正9年)に『新青年』に『運命の道』が掲載。

(以上「ウィキペディア」より。)

『賢者の贈り物』 (The Gift of the Magi)
クリスマスを目前にした貧しい夫婦は、お互いに大事な物を売ってクリスマスプレゼントを用意するのだが、 結局、役立たずの物をお互いに贈りあう事になってしまう。

「贈りあう善意の心が大事なのだ」という教訓噺として読むか、皮肉噺として読むかは読み手の勝手だ。
最後に出てくる「東方の賢者…」以降が作者の言いたい」ことではないかと言う意見もあったが、 西欧にはキリスト教文化が基礎にあり、キリスト教に馴染みのない読者には理解できない部分もある。
「東方の賢者」自体が解らないと言う意見もあった。

『最後の一葉』 (The Last Leaf)
肺炎で病床に伏せる女ジョンジーは、窓からみえる蔦の葉がすべて落ちたなら私の命も尽きるだろう、 と同居している女スーに告げた。
それを聞き知った階下にいる貧乏画家ベーアマンは、絶対に墜ちることのない画の「葉」を徹夜で壁に記入し、 一枚だけ残っていた「葉」によってジョンジーは奇跡的に快復するが、 ベーアマンは最後の傑作の{葉」 を残して肺炎で亡くなる。

一幅の凝縮された芸術作品として読める。
短編だけに翻訳によっては作品の味わいも大きなウエイトを占める、との意見もあった。

      (金田記)

●次回のテーマ:メリメ作「マテオ・ファルコーネ」
・・・金田さんが資料を用意しています。今月出席できなかった方、金田さんにご連絡を。

●41号の原稿締め切りは今月末です。

●その他
「文学講演会のお知らせ」
・テーマ;「小説の設計」〜散文に“魔法”は必要か?〜
     講師、佐川光晴氏 <参加費無料>
・日 時;10月11日(月・祝)14時開場
・場 所:かながわ労働プラザ 8F
・主 催;自主講座横浜文学学校(http://art.upper.jp/yokobn)

 (文責:八重波)




<7月号> 平成22年7月7日

実際は船の機関音に驚き、あわてて飛び出したのだろうが、
いきなり海面に現れて、半透明の羽から小さな光を零しながら
数十メートルも滑空するトビウオ。その様は見るからに心地よい。
「リーン・リーン」…もし騒々しい機関音がなかったら、
こんな涼しげな音色が聞こえてきそうな気さえする。
ところがその後がいけない。
彼らは再び海へ入るとき、身体には不釣合いなほど大きな水しぶきを
上げるのだ。それは着水というより墜落に近い。
そう、臆病な初心者の飛び込みのように、どいつもこいつも
腹打ちをして…

            ★

文横だより7月号をお届けします。

●例会出席者:浅丘・内間・岡部・金田・河野・篠田・益野・八重波 / 藤野・堀

●テーマ:堀辰雄「聖家族」

●今月の幹事:岡部満さん(レジメ及び以下のまとめ)

 この作品に関しては、出席者の間で(素晴らしい作品だとする)肯定派と(余り良い作品とは言えないとする)否定派に分かれました。

(1)最初に、岡部が、堀辰雄の活躍した(満州事変直前の戦時体制に入りつつある)時代状況と彼が密接に関係があった萩原朔太郎、室生犀星、芥川龍之介、川端康成、横光利一との関係について簡単に触れ、次いで、遠藤周作の解説と『聖家族』批判およびと池内輝雄の解説などの抜粋(岡部が用意したコピー)に目を通してもらいました。特に、師事していた芥川龍之介の自殺は堀辰雄に多大なショックを与えたことが特筆されます。

(2)次に、岡部は肯定派として、用意したレジメを参照してもらいながら、この作品の細かい読みないしは解釈に関する議論に入りました。まず(イ)<小説の導入部の巧みさ>、次いで、(ロ)<冒頭約40行から50行の文章に見られる心理描写の相>つまり各文が描述しているのは<客観的事実>/<心理的事実>/<心理的事実の推量>のどれに該当するのか、が重要な差異を生んでいるから、遠藤周作の言うような人造人間的な心理だとする批判は再考を要する等々と、肯定派としての意見を述べ始めました。

(3)ここで否定派から、「そのような細かい議論に入る前に、この作品を読んできて各人はどう感じたかという感想を先に述べてもらった方がよい。私は『風立ちぬ』は良い作品だと思うが、少なくともこの『聖家族』は余り評価できない。不分明な箇所が多すぎる」という意見が出されました。他にも「生活臭が何もない。別世界の話に過ぎない」とか「読んでいて状況がはっきり分からない。扁理は九鬼の子どもなのか否か、扁理と細木夫人との関係もはっきりしない。冒頭の部分で描かれているのは現実なのか否かすら明瞭とは言えない」という意見もありました。肯定派の岡部としても、「一読した場合の不分明さは認めざるを得ない。二読三読し、文章の細部の理解に努めているうちに全体の構想が理解できた」と白状し、もう少しの間、細部の検討の話をさせて頂くことになりました。

(4)検討項目だけを挙げますと(ハ)堀辰雄が師の自殺を論じた卒論「芥川龍之介論」、(ニ)作品を理解するキーワードとしての「乱雑さ」、(ホ)ある箇所では、人工的心理描写によって作品末尾のための伏線が与えられていること、(ヘ)キーワード「硬い性質と弱い性質」、(ト)恋愛の成立に関する差別意識、などです。

(5)最後に、作品末尾の約50行が如何に上首尾に纏められているか、という岡部の解釈を説明させて頂きました。この箇所は、娘「河野さんは死ぬんじゃなくって?」、母「・・・・そんなことはないことよ・・・・それはあの方には九鬼さんが憑いていなさるかもしれないわ。けれども、そのために反ってあの方は救われるのじゃなくって?」、娘「そうかしら・・・・」という三つのセリフしかありませんが、それらセリフ間に挿入されている心理描写や説明が巧妙です。岡部の解釈は、(a)この箇所にこめられている「九鬼(芥川龍之介?)の死」をめぐる扁理(堀辰雄?)の哲学、(b)細木夫人は「一種の鋭い直覚」によって何を直覚したのか、(c)「簡単な逆説(パラドクス)」とは何か、などを考察しております。

(6)否定派から「それにしてもこの作品では男女の情愛に関する扱い方があまりにナイーブ過ぎる。堀辰雄はそういった方面には全くうといのではないか」という重要な論点が与えられました。「綺麗事すぎる」という意見も出ました。「そうかもしれない」と岡部は同意するしかありませんでした。というのは、この作品を書いたときの堀辰雄はまだ26才で恋愛体験も稀少だろうと思ったからです。

           (岡部記)

●次回例会は9月4日。8月は休会です。

●次回テーマ、及び幹事は追ってお知らせします。

●41号の原稿締切りは9月末です。

 (文責:八重波)




<6月号> 平成22年6月8日

数十万頭の牛や豚を殺処分したが、口蹄疫のウィルスを封じ込めることが
できたか、どうかまだ予断を許さない。
「家族同然に育ててきた牛を・・・」と嘆く畜産農家の悔しさ・辛さはよくわかる。
パワーショベルで掘った大きな穴にホロコーストを思い浮かべた人も
少なくはないだろう。
でも・・・そう、でも、と思う。
今回の殺処分から免れることができた幸運な牛や豚のその後はどうなのか。
遠からず、彼らも例外なく屠られるのである。ルーティンとして、幾分かは懇ろに・・・

            ★

6月の文横だよりをお届けします

●例会出席者:浅丘・岡部・金田・河野・篠田・益野・山口・山下・八重波/藤野

●例会テーマ:チェーホフ「イオーヌィチ」、幹事は山下さん。以下は氏のまとめです。

--チェーホフ--〔1860〜1904〕

(Anton Pavlovich Tchechov アントン=パブロビチ-チェーホフ)ロシアの小説家、劇作家。 帝政期に、ユーモアと諷刺に富んだ短編小説を数多く残した。簡潔な表現で日常生活をさりげなく描きながら、 人間の俗物性を批判するヒューマニズムに貫かれた作風をもつ。 小説「六号室」、戯曲「桜の園」「三人姉妹」「ワーニャ伯父さん」など。

19世紀末にチェーホフは短編小説に革命を起こした。チェーホフのように第一線で小説を絶えず発表した作家はいなかった。 チェーホフはしばしばギ・ド・モーパッサンと比較されるが、チェーホフは伏線を計算して配置するプロットを凝らした 小説にはあまり関心をもたなかったとされる。チェーホフの小説では実際のところほとんど何も起こらない。 登場人物とその生活が前面に出てくるのである。

モーパッサンが出来事に焦点を当てたのに対し、チェーホフは人物に目を注いだといえる、 ドストエフスキーはその時代の知的葛藤を叙述した。 しかしチェーホフは、本質的な英雄も大悪漢の存在しない世界をはじめて描いた作家として知られている。

「生きた形象から思想が生まれるので、思想から形象が生まれるのではない」

「いかにイメージに沢山のことを言わせるか」 「語られるべき一切は、芝居の舞台におけるように人物の肉体を通して語られる」と言っている。

『イオーヌイチ』(1898)の主人公のように、かつては理想や愛に燃えた青年も、 日常的現実のなかで人生の意義を考えることをやめ、食べて寝るだけの毎日を繰り返すようになったとき、 「自分自身の人生を生きていない」俗物に堕落する。

チェーホフはいわば20世紀リアリズムともいうべき文学手法の創始者である。

人生は、いまいましい罠です。(中略)人は自分の存在の意義や目的を知りたいと思う、が、誰も答えてくれないか、 愚にもつかないことを聞かされるだけ。叩けども―――開かれずです。そのうちに死がやって来る

男と交際しない女は次第に色褪せる。女と交際しない男は次第に阿呆になる。
―「手帳」―

優しい言葉で相手を征服できないような人間は、きつい言葉でも征服できない。
―「女の手帖」―

・すでに生きてしまった一つの人生が下書きで、もう一つのほうが清書だったらねぇ。 そうすれば我々は、なによりもまず自分自身を繰り返さないように努力するでしょうね。
―「三人姉妹」―

たとえ信仰はもっていなくとも、祈るということはなんとなく気の休まるものである。
―出典不明―

このような単純な、ほとんどリアリスティックとも言えない書き方の中に、人間の悲しみや喜びの実質を、 エッセンスのみにとらえるように書くのが、チェーホフの魅力なのであった。

それはまことに天才を思わせるような単純明快さである。どこからこの技法を?という疑問に対しては、 私は、再びチャップリンの例を持って来たい。下級なギャグや身振りやユーモアの絶えざる連続によって、 下級な観客を笑わせ引きつけておくということの無限の連続がの若い日のチャップリンの生活であった。

それと同様のことを若きチェーホフはユーモア雑誌でくり返していたものと推定される。思わせぶりな美文も、 もっともらしい思想も、小説の約束も、街学もそこでは役に立たない。

そういう下級売文生活の中で、彼はしばしば編輯者に酷評され、原稿をつき返されながら、 二十歳から二十六歳まで毎年百篇ずつ位書きつづけたのである。単に面白がられることの連続。 このような下級な仕事は多くの共術家を腐敗させ、堕落させる。

しかし、読者を引きつける技法のすべてはそこで強引に、曲馬の芸を覚えさせられる少女のように覚えさせられる。 これは、思想や観念や文学観なとから文学著述に入る多くの作家たちとは違う条件、芸のみの修練なのだ。 それを集中させ、あるテーマに使うことを知った完璧な作家がチェーホフだと思う。

多分シェイクスピアも彼の時代のそういう作家であったのだ。

そういうチェーホフのような作者を、その思想、その時代に対する反応、 その革命についての態度から論じようとすることが空まわりになりがちなことは仕方がないであろう。
―――伊藤整「チェーホフの魅力」より

 (以上、山下記)

●来月の例会は7月3日、幹事は岡部さん。テーマは追ってお知らせします。

 (文責:八重波)




<5月号> 平成22年5月2日

〔オーバードーズ〕:麻薬や向精神薬などの大量摂取…
NHKのドキュメンタリー番組を観るまで「overdose」がカタカナ語として
流通しているとは思わなかった。
「自分のことも明日のことも何も考えなくていいから」その二十歳の女性は
高校生の頃からオーバードーズを繰り返しているという。
あるNPOの扉を叩いたときも精神安定剤千数百錠を持っていた。
なぜそんなに多くの薬を持っているのか…というスタッフの問いに彼女はこう答えた。
「いつでも好きなときに死ねる安心感がほしくて…」
安心感…奇妙な高音に変声されたその言葉がまだ耳朶の辺りにある。

             ★

 今月の文横だよりをお届けします。

●例会出席者:浅丘・石原(恵)・金田・河野・益野・三浦・八重波・山下・篠田

●例会テーマ:織田作之助「競馬」・・・今月の幹事(以下のまとめ)は浅丘さんです。

織田作之助について

1、戦後の関西文壇事情

戦後しばらくは、関西地方、とくに大阪は文学不毛の地であった。その中で、織田作は、大阪人として、一人突出して出現したように見えた。 焼け跡の文士で、大阪の町裏を歩き描いた。マント姿で、京都の路地裏も歩いた。

大阪の先人の井原西鶴に傾倒した。井原西鶴は、大阪に生れ、大阪に育ち、一時諸国を流浪したが、結局、多く京、大阪で暮らし、大阪で死んだ。西鶴は、商人の家に生まれ、商人としての、したたかな人間観察の視点を持った。武士の視点の近松門左衛門と違う所以である。 近松の、義理人情、感傷の世界に対して、西鶴は、商人のドライさ、自由さしたたかな視点で、遊里の世界を多く描いた

織田作の夫婦善哉は出世作だ。映画化され、森繁、淡島が好演した。 作風としては、戦後の荒れた虚無的な時代を背景にしている。

太宰、坂口、田中らの無頼派、破滅派に属するような気もする。

 織田作は、第三高等学校(今の京大)に学び、その青春時代には、その寮仲間や、学友に、文学の友として、野間、富士、青山ら、多くの才士に恵まれた。 大阪には、文壇はないが、彼らは京都学派を自称していて、グループを形成していたように思う。

青山らと同人誌「海風」により、戦中に作品を発表し、仲間から注目されていた。 関西には、ほかに、富士が主宰したバイキングなる同人雑誌があって、津本陽、久坂葉子(財閥の娘で、若く芥川賞候補となる、美人で天才とされたが、鉄道自殺した)らが拠った。富士には、偽久坂葉子伝なる作品がある。

織田作は、仕出し屋の長男として生まれた。戦後の大阪の文学の代表選手として、さっそうと登場し、早逝した。

2、作品、競馬

昭和21年4月(30才頃)の作品で、戦後の虚脱状況のなかで、嫉妬も恨みも忘れ、競馬に寝中し、破滅の道を歩む、小心律儀な、ある教師の姿を描いている。 やりきれない虚しい世相の中で、1点集中の馬券を気が狂ったように買い続ける。ラストは、最後の馬券が的中し、夢中で女を寝取った仇の男と抱き合う。 哀れな男の精神の集中する様の、ある意味の純粋な姿を見せてくれる。

戦後の混乱期に、ヒロポンを打ち、カストリを飲み、そういった殺伐とした生き様をした作家である。家庭生活も、同棲者を嫉妬で殴ったり、荒れた面があったようだ。作品にも、それが反映している。という意見があった。

惚れた女が癌にかかり、死の病床にあるとき、注射する場面など、凄味があるが、これも実際の体験だろうか。 嫉妬に苦しむのも、作者の性癖でもあったようだ。私小説だという意見もあった。

作家生活は数年間であり、(その前は劇作)僅かな期間に売文者として、書きまくったようだ。その為か、重複の表現など、かなり乱暴な文章も散見する。三十四才で死んだが、天才的な作家であるという意見もあった。   

代表作{夫婦善哉}は、見事な完成作である。

3 織田作之助 年譜

大正2年(1913)大阪市天王寺で生まれる
昭和3年(1928)15才回覧雑誌「燦締」を主宰
昭和6年(1931)第三高等学校に入学、田宮虎彦と同室となる
昭和7年(1933)白崎礼三と親交
昭和9年(1935)宮田一枝と同棲
昭和15年()俗臭が芥川賞候補になる。夫婦善栽を海風に発表
昭和17年(29才)西鶴新論、評論を発表
昭和21年(33才)声楽家 笹田和子と結婚、競馬を改造に、世相を人間に、神経を文明に発表している。
昭和22年(1947)大阪の可能性を発表 この年死亡,34才

         (浅丘・記)

●来月のテーマ:後日お知らせします。幹事は山下さんです

●文学散歩:今年は小林多喜二の足跡を訪ねます。4月のテーマであった「党生活者」にも出てくる 倉田工業のモデルや、多喜二の最後のアジト、多喜二が治安維持法違反で収容された刑務所などをめぐります。

 ★開催日時:5月16日(日)12時30分集合(雨天決行)
 ★集合場所:西武新宿線・沼袋駅南口
       (横浜組の方々は横浜駅西口エクセル東急ホテルのロビーに集合
        集合時間 午前 11:00)
 ★幹事  :藤野茂樹

 (文責:八重波)




<4月号> 平成22年4月5日

ソファーに体を横たえると、すぐどこからともなく猫がやってきて、胸の上で腹ばいになる。
二十歳は優に過ぎた雌の黒猫だ。家猫のせいか思いのほか元気だがさすがにここ数年痩せてきて
背中は切り立った尾根のようだ。
たわむれにそのゴツゴツした背骨を指の腹で弾いてみた。
不思議なことに首の辺りがいちばん低く、だんだん高くなり、尾の根元は澄んだ高音だった。
をとめのまま、仔を生すことなく老いることを強いられた体の、淋しい音のように聞こえた。

                   ★

4月の文横だよりをお届けします。

●出席者:浅丘・石原(恵)・岡部・金田・清水・藤野・八重波 / 山下

●例会テーマ:小林多喜二「党生活者」・・・今月の幹事は藤野さんです。

 多喜二が特高警察の拷問で死ぬ前年(1932年)に書かれた作品。 発表は多喜二の死後、中央公論から伏字だらけで刊行された。

 プロレタリアートの解放を目差す非合法活動家が、警察の目におびえて次々とアジトを変え、新しい下宿が決まるとあわてて近所に住む人々の情報収集に奔走し、昼は下宿の窓を締め切って夜だけ外出したり、ろくに風呂に入らず、女の勤め先の台所でご飯をもらったりしていた。 このような部分は実際に体験している人間でないと書きようがないと思われるし、最後の方では、闘争に疲れ果て、生活を支えてくれた女から遠ざかり、同士の女と比較していくという思想に殉ずる人間の冷たさみたいなものまで書き込んであった。

 思想は時代の流れで変わっていくことが多いので、この政治思想の価値判断を除外して読み進んでいくと、第二次大戦前夜の当時の風俗や会社の労使の関係もよくわかってくる。 労働運動も今日の戦術と比較すれば稚拙であり、地下生活といっても現代のスパイと比較すれば問題にならない。しかし、戦争に突入していく時代の労働運動家の精一杯の記録が盛り込まれていて、思想の判断は別にして考えればつらく悲しい時代がよく描かれていたと思われる。

                 (藤野・記)

●来月は5月1日、テーマは織田作之助「競馬」、幹事は浅丘さんです。

●文学散歩:今年は小林多喜二の足跡を訪ねます。今月のテーマであった「党生活者」にも出てくる

 倉田工業のモデルや、多喜二の最後のアジト、多喜二が治安維持法違反で収容された刑務所などをめぐります。

 ★開催日時:5月16日(日)12時30分集合(雨天決行)

 ★集合場所:西武新宿線・沼袋駅南口

 ★幹事  :藤野茂樹



 (文責:八重波)




<3月号> 平成22年3月17日

生物の多様性を護り、生態系を維持するために今あちこちで
外来種の捕獲が行われている。
そんな報道を見ながらふと思った。ヒト科ヒト属はどうなのかと・・・
彼らは(と言うのもヘンだが) 世界各地を闊歩し、そこら中で異種と交配して
どんどん「交雑種」をつくっている。このことは多様性を損なうことにならないのか・・・と。
もちろんぼくは民族の純潔性を、などと言うつもりは毛頭ないし、むしろその逆に
世界中が異種交配すれば、人種差別もなくなるのでは・・・とアホなことを考えたり
しているのではあるが。

今月の文横だよりをお届けします。

●出席者:浅丘・いまほり・うえむら・金田・河野・新開・陳・藤野・堀・三浦・八重波・山口・山下/ 岡部
(※岡部満さん(横須賀市在住)は初めて参加された方です。)

●講師 :秋林哲也氏

●テーマ:文学横浜40号・合評会

 創作10作品、随筆3作品について、まず同人が一作一作合評をし、その後、講師の秋林氏にていねいな講評 をいただきました。作者が首肯できることもできないことも含めて、少なくとも自分の作品が人にどう読まれたか、については大いに参考になったのではないでしょうか。次作の完成度アップの一助にでれきば、と思います。

●次回の文横例会は4月3日。テーマは小林多喜二の「党生活者」。幹事は藤野さんです。なお、この作品は青空文庫に収録されています。又は新潮文庫「蟹工船・党生活者」(400円、税別)。



 (文責:八重波)






<2月号> 平成22年2月10日

一羽の翡翠が枯れ葦の中でじっと水中を窺っていた。
時折、風で葦は大きく揺れるのだが、翡翠の姿勢は変わらない。
川沿いの小道には1000ミリの望遠レンズがバズーカの砲列のように並び
瑠璃色が水面を裂く一瞬を狙っていた。みな中高年の男たちに見えた。
背後には一本の松が聳え、数羽のカラスが高い枝から地上の物々しい様子に見入っていた。
その松の上には、冬雲があって、
一方の端を毛羽立てたままゆっくり西方に流れて行った。

2月の文横だより、お届けします。

●例会出席者:浅丘・金田・河野・清水・益野・八重波 /藤野 ・山下

●テーマ  :森鴎外「ぢいさんばあさん」       今月の担当は河野さん 

 鴎外、53歳。脂の乗り切った頃に書かれた短篇歴史小説。 時代は江戸後期、徳川家斉の治世・文化6年。松平家、家中のとある屋敷の離れ座敷に老いた男女が 身を寄せたことから、話は始まる。この二人の暮らしぶりはやがて近隣の耳目を集めることとなる。 若い新婚夫婦も斯くやあらむ、と思わせるほどの仲睦まじさでありながら、そこには自ずから礼儀や遠慮も 感じられて、どうにも不思議である。実はこの老爺と老婆は、その昔、男の起こした不祥事の故に、 遠く離れて暮らすことを余儀なくされ、37年を経て漸くともに住むことを許された夫婦であった・・・ という事の成り行きが淡々と、そう一切の感情を差し挟まず、淡々と物語られていく。

 ゆるぎない骨格を持った確かな文体で綴られる描写には感服するしかない。しかし、このような 短篇において、事の始終を綴っただけでは筋書きに終わってしまうのではないか。作者が描こうとした しみじみとした老夫婦の情愛が微かな、希薄なものに思われるのはその故ではないか。 それともそれは読み手の感受性に関る問題だろうか・・・

●合評会日時   :3月14日(日)13時〜17時

● 〃  会場  :幸ヶ谷集会所(神奈川公園内)

●招聘講師    :秋林哲也氏(今回は最初から出席いただくことになりました) 

★鎌倉文学館の専門委員もされている秋林哲也氏から、特別展「鎌倉と詩人たちーことばを旅する」の招待券をいただきました。詩に興味のある方、八重波(井上)までご連絡ください。4月18日までです。 なお、3月10日(水)・14:00〜15:30に秋林氏の講演「鎌倉と詩人」も催されます。

 (文責:八重波)




<1月号> 平成22年1月12日

♪山で吹かれりゃよう〜ォ、若後家さんだよ〜
昔、こんな歌が流行っていた。
いま、冬山に登る人はどのくらいの覚悟があって家を出るのだろう。
聖岳、奥穂高岳、赤岳…この正月も遭難の報が相次いだ。

列島に揺らぐ縦縞の等圧線が混み合い、眉間の皺のように険しい表情を見せたときだった。
山には北または北西の風が吹き荒んでいたに違いない。
救助ヘリも、地元の捜索隊も活動を打ち切った。

もしかしたら、もしかしたら…と、ふと思う。
朦朧とした意識の中で、遠く風の音に混じってヘリのエンジン音や、何人もの人声を
聞いた人もいたのではないかと。

やがて風の音ばかりとなり、ヤッケの上に雪降りつもり…ザックの上に雪降りつもり…
どのくらいの覚悟があって、玄関を出たのだろう。

           ★★★

 今年初めての文横だよりをお届けします。

●例会出席者:浅丘・金田・河野・桑田・清水・益野・山下・八重波 /石原(憲)・藤野

●テーマ  :直木三十五「貧乏一期、二期、三期」、「ロボットとベッドの重量」        今月の司会&まとめは益野さん 

「貧乏一期、二期、三期」、「ロボットとベッドの重量」の出筆年は共に、昭和六年(1931年)頃と思われる。

直木は若き頃より時代、大衆小説家と思われているが、その文筆業としての活躍時期は没年(昭和九年、1934年)遡る事、10年間である。短期間ではあるが出世作は、南国太平記。仇物から空想科学小説までこなす幅広の作家だった。

両作共に現代人からしても、比較的読み易い口語体で書かれている。

各自の読後感は幅の広い物となった。

・「貧乏――」に関しては、単に通俗的な貧乏作家の雑文である。それにたいして、かなり虚構が織り交ぜられ、晩年には巨額の費用で横浜に自宅も建てたと。

・女と贅沢のための浪費と借金や借財との追っかけごっこが彼の創作の源か?

・「ロボット――」は、カフカの処刑の話に登場する機械に似ている。しかしあれは機械で本編はロボットだ。背景は かなり異なる。

・当時はロボットは人型で、今の幅広い意味のロボットではない。

・直木がこんな小説を書いていたとは?

・最後が会話で続けられているのは枚数を稼ぐ売文的所業。

・江戸の戯作的な開放性がある。

・女心の表現が希薄。

彼の名を冠した現代の受賞作品より、彼の創作はもっと自由で奔放だったのではないか。大正から昭和の良き時代が感じられると…といったところが総じた感想であった。

どうやら彼には実業家の素質もあったらしい。

ちなみに、比較される芥川とは、ほぼ同時代人であり、両者とも下戸だったと。直木に関しては、意外の感がある。

そして、その頃遥か遠くパリでは、エコールドパリ全盛の時代だった。

             (益野記)

●40号の進捗状況:1月末には刷り上る予定です。 

●合評会日時   :3月14日(日)13時〜17時

● 〃  会場  :昨年と同じ幸ヶ谷集会所を予定していますが、決定次第お知らせします。

●招聘講師    :秋林哲也氏(今回は最初から出席いただくことになりました) 

★次回テーマ:テーマは追ってお知らせします。

 (文責:八重波)



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