「文学横浜の会」
読書会
評論等の堅苦しい内容ではありません。2021年07月10日更新
「ダイヤモンドダスト」南木佳士
担当 藤村
文学とは、思想や感情を言語で表現した芸術作品。また芸術とは、表現者あるいは表現物と鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、
精神的・感覚的な変動を得ようとする活動、と定義される。さて文学横浜の会。
今回の読書会の対象作品には、前担当会(第150回芥川賞受賞作品「穴」:小山田浩子)に引き続き、
今度は第100回という節目の年に芥川賞を受賞した「ダイヤモンドダスト」(南木佳士)を設定した。
南木佳士は1951年10月群馬県吾妻郡嬬恋村生まれ。本名、霜田哲夫。3歳で結核のために母親を失う。1
965年に父親の転勤に伴い上京。都立国立高等学校を卒業後、
1971年に秋田大学医学部へ入学。1977年から長野県南佐久郡にある佐久総合病院で内科医として勤務。
1981年カンボジア難民救済医療団に参加してタイ・カンボジア国境へと赴く。
また同じく1981年に「破水」で第53回文学界新人賞を受賞。翌年には「重い陽光」で第87回芥川賞候補。
更に1983年に「活火山」、1985年に「木の家」、1986年に「エチオピアからの手紙」で芥川賞候補となり、
1989年「ダイヤモンドダスト」で第100回芥川賞を受賞した。
1990年から1996年にかけてパニック障害、鬱病を発症したが、2008年に「草すべり その他の短編」で泉鏡花文学賞を受賞。
翌年には「草すべり」で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。
第100回芥川賞受賞に際して、南木佳士は以下のような言葉を残している。
「不覚にも、医を職業とするまで、人は死ぬものなのだ、ということが分からなかった。
学校を出たての24、5歳の若者が、多くの想い出を抱え込んだまま旅立つ死者を見送ることは、苦痛であった。
この苦しみから抜け出したくて小説を書き始め、もう10年になる。
自らの死に対する理解を深めようとして書きつづけてきたが、当然のごとく厚い壁にぶちあたっていた。
しかし、もう少しがまんして書き進めれば、壁の向うには意外に明るい世界が開けている予感はある。
死が他者のものではなく、いつか必ず自分の番が来るのだ、と肌で理解できるつもりの年齢になってこの賞をいただけたのは、
ほんとうにうれしい。」
バブル絶頂期1989年に芥川賞を受賞した「ダイヤモンドダスト」は、COVID-19の終息が未だ見通せない2021年夏至の候、
読者にどのような精神的・感覚的変動を及ぼすことができるだろうか。
本作品に関しては、芥川賞選考時に委員の一人が「100回記念にふさわしい出色の作品」との選評を残しており、
その後も「静かな諦観に満ちた純文学の傑作」、「純文学のお手本のような作品」、
「地味だが文学の本筋を行く作品」等の好意的な評価が与えられてきた。
本作品は、作者が呼吸器内科医として末期がん患者の診察を行う過酷な日々の中で生まれている。
作品の隅々に生と死を冷徹に理解しようとする作者の視線を感じることができ、
作中で宣教師マイクに語らせている幾つかの言葉は特に印象に残る。
ただ、作者は本作品で芥川賞を受賞した翌年にパニック症を発症し、その後長い間鬱病に悩まされてきたとのこと。
人間の生と死を冷徹に理解するほど覗き込む闇も深くなるものなのか。
COVID-19に向き合う日々の中、文学横浜の会からも新たな傑作が世に送り出されることが期待される。
以上 藤村 記
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