「文学横浜の会」

 読書会

評論等の堅苦しい内容ではありません。
小説好きが集まって、感想等を言い合ったのを担当者がまとめたものです。

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2021年11月09日更新


「トーニオ・クレーガー」トーマス・マン

担当者 中根

この作品を選んだ理由

トーマス・マンは、「自分の心に最も近い作品」とする本作品で(但し、これには懐疑的な見方もある)、 主人公のトニオ・クレーガーに自らを投影させて、「自分は市民的な幸せを得ることができない」と吐露し、 芸術家と一般市民の二つの世界に揺れる心情を描出している。

この、マンが描く芸術と日常的現実の相克を、会員の方々はどう受け止めるかをお聞きしたいと思います。

トーマス・マンのプロフィール

パウル・トーマス・マン(Paul Thomas Mann、1875年6月6日 - 1955年8月12日)は、ドイツ出身の小説家。
リューベックの富裕な商家に生まれる。当初は実科を学んだが処女小説『転落』が認められて文筆を志し、1901年に自身の一族の歴史をモデルとした長編『ブッデンブローク家の人々』で名声を得る。その後市民生活と芸術との相克をテーマにした『トニオ・クレーガー』『ヴェニスに死す』などの芸術家小説や教養小説の傑作『魔の山』を発表し、1929年にノーベル文学賞を受賞。

1933年にナチスが政権を握ると亡命し、スイスやアメリカ合衆国で生活しながら、聖書の一節を膨大な長編小説に仕立てた『ヨセフとその兄弟』、ゲーテに範を求めた『ワイマルのロッテ』『ファウストゥス博士』などを発表。終戦後もドイツに戻ることなく国外で過ごしたが、『ドイツとドイツ人』などの一連のエッセイや講演でドイツの文化に対する自問を続けた。

日本での初翻訳は1910年(明治43年)に『帝国文学』第16巻9号に掲載された林久夫訳による短編『箪笥』であり、単行本では1927年(昭和2年)に日野捷郎(實吉捷郎)の訳による『トオマス・マン短編集』『トニオ・クレエゲル』が初である。

以後多数の翻訳が出ているが、1940年に刊行開始した三笠書房の全集は、戦時中に敵性作家と見なされたため中絶を余儀なくされた。その後1971年-1972年に新潮社から全12巻の全集が刊行されており、全作品と代表的な評論、および主要な書簡が収められている。(Wikipedia)

『トニオ・クレーガー』のまとめ

掲示板への発言者が8名、リアルでの参加者は見学者を含めて9名でした。
今回に限ったことではないが、『トニオ・クレーガー』の読後感として様々な受け止め方がされています。

面白かったとする感想がある一方で、理解しづらかったとする感想もありました。また、トニオとハンスを巡ってジェンダー的な視点での意見もあり、トニオの両親の出生に関連して移民文学としての見方もなされました。
私(中根)の、会員の皆さんへの問いかけがやや答えにくいものだったかもしれません。

私見では、トーマス・マンは、女友達のリザヴェータとのやりとり以降にとくに重点を置いていると考えます。事実、分量的にも小説全体の60%強を使っています。ハンス、インゲ、そしてハンス、インゲほどには具体的な記述はないが「放埓な肉体的情事にはまりこむ」の記述は、リザヴェータ以降の、いわば伏線的な役割を果たしていると思います。

マンは、芸術と日常的現実の相克という大きな命題を読者に投げかけているが、そこには、マン自身が「常に両側(アウトサイダーと市民、あるいは文学的虚構と市民的現実)に向けられたイロニーであり、中間的なもの」と述べていることから、芸術家でありながらまともな市民であろうとする立ち位置にあると考えます。そのことは、「僕はふたつの世界の狭間にいて、どちらのことも故郷とは感じられず、そのせいで少しばかり辛い思いをしています。」(浅井晶子訳、144ページ)というトニオのリザヴェータへの手紙での心情の吐露にうかがえます。

「掲示板」に書き込まれた内容

以上 中根 記

 ・出席者;遠藤、金田、山下憲、林、森山、中谷、中根、阿王*、後藤*

  注;阿王さん、後藤さんは見学に来られた方です。

 ・「掲示板」からの参加者(敬称略) 6日現在
  遠藤、浅丘、金田、藤本、山口、和田、石野、成合、

◆12月の読書会
  日 時;12月 4日(土)17時半〜
  場 所;かながわ労働プラザ 第8会議室
  テーマ;「錦繍」宮本輝、新潮文庫

     アマゾンで廉価本有り。

     リアルで参加できない方は「掲示板」に書き込んで下さい。

  担当者;林さん

(文学横浜の会)


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