「文学横浜の会」

 読書会

評論等の堅苦しい内容ではありません。
小説好きが集まって、感想等を言い合ったのを担当者がまとめたものです。

これまでの読書会

2022年05月09日更新


「白い人」遠藤周作

担当者 遠藤

遠藤周作を取り上げることにした。

 若い頃、彼の作品を数多く読んだ。ミッション系高校に通っていた当時、遠藤周作の兄遠藤正介の息子が同じクラスにいた。
そんな事や、同じ「遠藤姓」ということもあり、勝手に親近感を覚えたものだ。
 僕自身は信仰を持たないが、彼はキリスト教作家の代表格であり、彼の描くキリスト教の神髄に筆の強さを感じる。
 また、コーヒーのコマーシャルにも登場し、「違いの分かる男」でそのルックス、および「狐狸庵先生」というどこか飄々とした面白いキャラクターも見え隠れし、ユーモア小説も面白く、その人柄が好きになった。
 原作の映画化も多くされているが、その中でも「海と毒薬」(1986年)、「沈黙 サイレンス」(2017年)は僕の印象に残る映画である。
沈黙 サイレンスは巨匠アカデミー賞監督のマーティン・スコセッシがメガホンを取っており、外国人から見た踏絵がテーマになっている。

(ウイキペディア)

 遠藤 周作(えんどう しゅうさく、1923年〈大正12年〉3月27日 - 1996年〈平成8年〉9月29日)は、日本の小説家。
12歳の時カトリック教会で受洗。評論から小説に転じ、「第三の新人」に数えられた。その後『海と毒薬』でキリスト教作家としての地位を確立。日本の精神風土とキリスト教の相克をテーマに、神の観念や罪の意識、人種問題を扱って高い評価を受けた。ユーモア小説や「狐狸庵」シリーズなどの軽妙なエッセイでも人気があった。日本ペンクラブ会長。日本芸術院会員。文化功労者。文化勲章受章。映画『沈黙 -サイレンス-』の原作者。

 父親の仕事の都合で幼少時代を満洲で過ごした。帰国後の12歳の時に伯母の影響でカトリック夙川教会で洗礼を受けた。1941年上智大学予科入学、在学中同人雑誌「上智」第1号に評論「形而上的神、宗教的神」を発表した(1942年同学中退)。
 その後、慶應義塾大学文学部仏文科に入学。慶大卒業後は、1950年にフランスのリヨンへ留学。帰国後は批評家として活動するが、1955年半ばに発表した小説「白い人」が芥川賞を受賞し、小説家として脚光を浴びた。第三の新人の一人。キリスト教を主題にした作品を多く執筆し、代表作に『海と毒薬』『沈黙』『侍』『深い河』などがある。1960年代初頭に大病を患い、その療養のため町田市玉川学園に転居してからは「狐狸庵山人(こりあんさんじん)」の雅号を名乗り、ぐうたらを軸にしたユーモアに富むエッセイも多く手掛けた。
 無類の悪戯好きとしても知られ、全員素人による劇団「樹座」や素人囲碁集団「宇宙棋院」など作家活動以外のユニークな活動を行う一方で、数々の大病の体験を基にした「心あたたかな病院を願う」キャンペーンや日本キリスト教芸術センターを立ち上げるなどの社会的な活動も数多く行った。
『沈黙』をはじめとする多くの作品は、欧米で翻訳され高い評価を受けた。グレアム・グリーンの熱烈な支持が知られ、ノーベル文学賞候補と目されたが、『沈黙』のテーマ・結論が選考委員の一部に嫌われ、『スキャンダル』がポルノ扱いされたことがダメ押しとなり、受賞を逃したと言われる。
 狐狸庵先生などと称される愉快で小仙人的な世間一般の持つ印象とは異なり、実物の遠藤周作は、おしゃれで痩身長躯すらりとした体つき(戦後間もない時代に183cm)の作家であり、豪放磊落開放的な態度で一般とも接するのを常としていた。
 1923年3月27日、東京府北豊島郡西巣鴨町(現在の東京都豊島区北大塚)に、第三銀行に勤めていた銀行員遠藤常久と東京音楽学校ヴァイオリン科の学生郁(旧姓・竹井)の次男として生まれた。父・常久は東京帝国大学独法科在学中の1920年に郁と知り合い、翌1921年に結婚。同年に長男の正介、その2年後に次男の周作が誕生した。

1955年7月 「白い人」で第33回芥川賞を受賞。
1957年、九州大学生体解剖事件(相川事件)を主題にした小説「海と毒薬」を発表。
1966年、代表作『沈黙』を発表。同作で第二回谷崎潤一郎賞を受賞する。973年『死海のほとり』発表。
1973年、評伝『イエスの生涯』発表。
1978年、評伝『キリストの誕生』を発表する。第三十回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞する。
1979年、『マリー・アントワネットの生涯』発表。
1980年、『侍』で第三十三回野間文芸賞を受賞する。
1980年、『反逆』を読売新聞に連載『決戦の時』を山陽新聞などに連載。『男の一生』を日本経済新聞に連載。この3作品は遠藤周作の戦国三部作と呼ばれる。
1993年『深い河』発表。

【テーマ】

@主人公がサディスティックな人間になった要因は何だと思いますか?

Aジャックが自殺した後、主人公は「俺を破壊しない限り、お前の死は意味がない」と繰り返し呟きますが、これはどういうことだと思いますか?

かなり深いテーマになっていますが、皆さんの忌憚の無い意見、感想を聞いてみたいと思います。

まとめ

 5月度の読書会は、GW中という事で例年一番集まりにくい月であるが、今回は会員11名、見学者2名が参加し、様々な感想が寄せられた。
また、掲示板の方も14名に投稿して頂けた。感謝申し上げたいと思います。

 さて、今回僕が取り上げさせていただいたのは、遠藤周作の「白い人」である。過去に取り上げられたことが無かったことが不思議なくらいである。
本作は遠藤周作が32歳の血気盛んな時に記した小説であり、第33回芥川賞受賞作でもある。。

 以下2つのテーマを挙げさせてもらった。

【テーマ】

@主人公がサディスティックな人間になった要因は何だと思いますか?
Aジャックが自殺した後、主人公は「俺を破壊しない限り、お前の死は意味がない」と繰り返し呟きますが、これはどういうことだと思いますか?

 皆さんからテーマに対する様々なご意見を頂いた。
@主人公がサディスティックな人間になった要因は何だと思いますか?
・自分の快楽しか顧みぬ父親と、その反動で厳しく禁欲主義を押し付ける母親が要因になっていると思います。特に正しい事を押し付けようとする母親の中に、正直でないもの、自分自身をも偽っている姿を見てしまったのではないでしょうか?そして、老犬を虐待する女中の様子を見て、情欲の喜びを感じるのが紛れもない自分だと認識してしまったのだと思います。
・もちろん主人公の先天的性癖である可能性もある。この性癖に、後天的要因があるとすると、以下が考えられる。
自分の醜い(と本人が感じる)容貌へのコンプレックスや、父や女性達から疎まれる屈辱感に対する裏返しで、相手を屈服させ、屈辱を与えて苦しめることで、強い優越感を得、同時に快感を覚えるようになった。
 作者は神学生ジャックを、主人公と同じく容貌へのコンプレックスをもちながら、主人公とは正反対に、キリスト教に献身し、他人のために祈る人物として描いている。すなわち、ジャックとの対比をきわだたせるドラマツルギーとして、主人公にこのような悪魔的人格を与えたのだろう。
・主人公の「悪魔性」は生まれながらのものだったと思います。それを増幅させ、顕現化させたのが作中に描かれた切っ掛けの数々でしょう。
やはり、もって生まれた性質と生い立ちに主な原因があると思われますが、そこのところは詳しくは書かれていないと思います。「一生、娘達にもてないよ。お前は」などの言葉や、イボンヌと犬、アラビアの少年の挿話、などが繰り返し語られます。それは物語全体の ≪サディスティックな暴力と悪の雰囲気≫ づくりに役立っていますが、要因までは仄めかす程度に暈されていると思います。
・サディスティックな「私」の素地は、わが子の斜視と顔立ちの醜さを本人に残酷に宣告する父親と、清教徒である異常な潔癖症、完全主義者の母親への反抗からのものであろう。
しかし、描写がやや異常で病的でもある。氏は、若い時からサドの研究もしている。
・父親の愛情を受けなかったこと、母親の極端な禁欲主義、主人公の容姿など、小さいころからストレスに晒されてきたことが要因であると思います。
・生まれつきサディスティックな傾向の人間だったと思う。小説では原因として、主人公に幼年時代の記憶を語らせて、母の過剰愛、父の虐待、契機として、女中の犬への虐待、アデンでの児童虐待の快感の自覚が書かれている。
しかし、この中で注目すべきは父の虐待と思う。元々、父はサイコパスでその遺伝子を引き継いだものだと思う。
・要因は一つではないと思いますが、戦時下というゆがんだ閉塞した社会が作ったのではないでしょうか。
・一番の要因は戦争。そしてジャックという対局にある人間との出会い。

Aジャックが自殺した後、主人公は「俺を破壊しない限り、お前の死は意味がない」と繰り返し呟きますが、これはどういうことだと思いますか?
・「マキやその味方を裁き拷問し虐待したあの『松の実町』事件の一味として同胞?から復讐されるだろう。もちろん逃げるつもりだ。いや、私の裡の拷問者を地上から消すことは絶対にできないのだ。その事実を私はこの記録にしたためたいのである」
というこれが答えなのではないかと思います。邪悪はしぶとく、根絶する事は出来るのかという大きな投げかけをしているように思いました。
・主人公は、ジャックに代表されるキリスト者や哲学教師マデニエ達を、綺麗ごとをならべるだけの偽善者と決めつけ、軽蔑し、その汚い本性を暴こうとする。そして拷問に耐えるジャックを、自己犠牲に陶酔し、英雄になろうとしているだけと糾弾する。人間は元来、罪を抱えた汚れた存在であり、決して十字架上のキリストにはなれない。ジャックは、マリー・テレーズを利用した精神的拷問に耐えられず、ついには同志を裏切るはずだ。この結果、偽善は暴かれ、悪の勝利が証明される、と主人公は考えていた。
 ところがジャックは拷問の途中で自殺してしまう。これは主人公から見れば、言わば責任放棄でしかない。悪魔的人間である「俺を破壊」するとは、十字架上のキリストの前で、「俺」に自分の罪を悟らせ、自ら悔い改めさせることだろう。しかしジャックの死は「俺」を改心させることはできなかった。これが「お前の死は意味がない」理由である。
・拡大解釈してですが――自分を神、イエス・キリストを信じ、従うようにさせない限り、回心させることができない以上、神の僕として死んでも、ジャックの死に意味はないということだと考えます。
・主人公が、自分の筋書き通りに事が運ばなかったことを悔やんだ言葉ではないかと思います。事ここに至っても、自分の望み通りにならなかったことを、ジャックの所為にしようとしています。主人公は、一連の悪を貫くことによって、善人であるジャックをも悪の方向へ道連れにする、そして悪は勝利し、偽りの善は敗北する、という筋書き ‥‥ これを ≪悪の完結≫ といっていいのかどうか分かりませんが、それに類する ≪悪の完結≫ を望んでいたのではないか、と思います。
・お前(ジャック)は、自殺することで「私」から逃れることが出来た。これ以上、口を割って同志を裏切ることも、マリー・テレーズの生死を左右することもなくなったが、肝心の「私」を改心させない限り「私」はまた色々な場面で「悪」を繰り返すと心の中で述べている。マリー・テレーズは狂い「私」は狂わなかった。
また「俺を破壊しない限りとお前の死は意味がない」と述べているが、思い描いたものと全く違う結論=ジャックの自殺と狂ったマリー・テレーズを目の当たりにして、今までの「私」は終わり破壊されたと思った。これまでも、おそらくこれからも「私」は虚無的な無神論者であろうが、この日以降はもうキリスト教徒を偽善者とは呼ばないだろう。
・ジャックの死とイエスの受難を重ねたのだと思います。
・主人公はジャックへの虐待の快感に酔っている。最終的に音をあげるはずであるが、楽しみはこれからだと信じていた。ところが思いがけない自死は玩具を急に取り上げられた子供のようで実に不満だ。信者の掟破りでジャックは自死した。死んでも悪である主人公に負けないという強さを示したようにも見える。主人公はジャックの死に同情はおろか、ただ、不快感だけを覚える。死んで負けなかったつもりか知れないが「俺を破壊しない限りお前の死は意味がない」と呟く。主人公にとって他人の死はいつも意味がない。ジャックの死は自己の虐待による快感が奪われたことでしかない。
・罪があるから善がある?
・ジャックに対する敗北宣言。

 以上の意見が寄せられた。なるほどと思わせる指摘の数々である。
 僕自身はこう思った。
@主人公がサディスティックな人間になった要因は何だと思いますか?
・神に対する不信感が募ったため。
Aジャックが自殺した後、主人公は「俺を破壊しない限り、お前の死は意味がない」と繰り返し呟きますが、これはどういうことだと思いますか?
・主人公はキリスト教の虚偽を証明することを望んだが、ジャックの自殺を招いたことにより、証明を望んでいなかった本心に気付いたのではないか。

【最後に】

 僕自身30年ぶりに読み直したわけだが、今回読み直してみて人間の「悪」について昔よりもずっと考える事が多かったし、遠藤周作自身がキリスト教に対して抱いて止まなかった「疑問」の一端を垣間見ることができたと思う。
その疑問というのは、
・人間はどこまで「悪の存在」に近づくことができるのか?
・キリスト教の「可能性」と「限界」はどこからどこまでなのか?
という2点だったのでないかと思った。
 遠藤周作は12歳の時に洗礼を受けている。多くのキリスト教徒は教義に多少の矛盾や疑問を感じることはあっても、その部分に踏み込んでいくことはしない。
その点遠藤周作は真正面からその疑問について切り込んでいこうと努力したのではないだろうか?
そう考えると、クリスチャンの遠藤がここまで書いた理由が窺えて来る。

以上

「掲示板」に書き込まれた内容

以上 遠藤 記

 ・出席者(リアル)
  遠藤、金田、河野、篠田、中谷、中根、原、森山、山下憲、藤原、寺村、花*、野田*

 注;花さん、野田さんは見学に来られた方です。

 ・「掲示板」からの参加(敬称略)
  遠藤、浅丘、中谷、清水、藤原、和田、寺村、金田、石野(佐藤ル)、山口(鶴見)、荒井、藤本、杉田(佐藤直)、森山、成合

◆6月の読書会。
   日 時:5月7日(土)17時半〜
   場 所:かながわ労働プラザ内、会議室
   テーマ:「春にして君を離れ」アガサクリスティー 早川書房
        <注、長編だそうです!>
   担当者;後藤さん

(文学横浜の会)


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