「文学横浜の会」

 読書会

評論等の堅苦しい内容ではありません。
小説好きが集まって、感想等を言い合ったのを担当者がまとめたものです。

これまでの読書会

2022年12月06日更新


『園遊会』キャサリン・マンスフィールド

担当者 上条

「掲示板」に書き込まれた内容

1. この作品を選んだ理由

 以前、私が尊敬している短篇小説家の阿部昭が『短篇小説礼賛』(岩波新書、1988年6月刊)という随想集の中で、マンスフィールドの短篇小説を絶賛していたことと、マンスフィールドがチェーホフの作品を書き写すところから小説を書く研鑽を積んだということを知り、チェーホフのファンでもあった私は、チェーホフ文学の後継者としてのマンスフィールドの短篇小説に関心を持ちました。

特にマンスフィールドの『園遊会』を初めて読んだときには、短篇小説としての完成度の高さに衝撃を受けました。 それ以降、私にとってマンスフィールドの作品は短篇小説を書く上で方位磁石のような存在になっています。 当然ながら、短篇小説に対しては、私とは違った感じ方や考え方もあり得るでしょうから、他の方の感想にも興味を持っております。

特に短篇小説を書いている方、あるいは書くことに関心を持っている方が、マンスフィールドの短篇小説を読んでどう感じられたかについて知りたいと思い、今回の課題にさせてもらったものです。

 また、「マンスフィールド短編集」の中に『ブリル女史』という非常に短いけれど極めて完成度の高い作品がありますところ、できましたら、この作品にも少しだけ触れさせていただきたいと考えておりますので、読書会に出席される方は、この『ブリル女史』も読んでおいていただければ幸いです。

2. 担当者が希望する観点

 最近の読書会の例に倣って、担当者が希望する観点を提起しますと、次のようなことになります。

(1)短篇小説を書いている方、あるいは書くことに関心を持っている方におかれては、『園遊会』の中の、どういう点、どこの部分が、短篇小説を書くための参考になると思ったか? また、参考にならないと感じた場合には、その理由は何か?   

(2)短篇小説を書くことについて関心のない方におかれては、この『園遊会』が短篇小説の名作の一つとして世界的に高い評価を得ていることについて、賛同できるか? あるいは、できないか? その理由は何か?

読書会のまとめ

 マンスフィールドの作品を初めて読んだという人がほとんどであった。

 この作品を読んで、創作の上で参考になるものや啓発されるものを感じたという意見は、少数であった。「丁寧な小説の書き方がされていて、すばらしい作品だと思った。ただし、チェーホフを越えたとは超えているとは思えない」、「作品の最後の余白の残し方が非常に巧みで参考になった」、「この作品を読んで、チェーホフの読み方もわかった気がした」等という意見があった。

 他の意見はおおむね消極的な評価で、「あまり面白くなかった」、「深いところまでは読み込めなかった」、「人生の素晴らしさを伝えるものになっていない」等という意見があり、翻訳文の不的確な点について指摘する意見が複数あった。

 また、「ローラが死が美しいというのには驚きがあった。自分もローラのように大人にならくてはならないと思った」という感想があったのは印象的であった。

 全体的にこの作品から創作の上での参考になるものや啓発されるものを得たという感想があまり多くなかったことは、担当者としては少々意外ではあったが、なんとなくマンスフィールドの短篇小説がその世界的な高い評価の割には日本ではあまり人気がないことの理由がわかったような気がした。

キャサリン・マンスフィールド(『日本大百科全書』より)

 イギリスの女流小説家。ニュージーランドの首都ウェリントンで裕福な実業家の娘として生まれ、ロンドンのクィーンズ・カレッジで学ぶ。卒業後帰郷し、1908年ふたたびロンドンに出る。音楽家と不幸な結婚をして、まもなく別居。1911年、オックスフォード大学に学ぶジョン・ミドルトン・マリと知り同棲(1918年正式に結婚)。マリ編集の『リズム』や『アセニアム』誌その他に批評や短篇小説を発表した。繊細な感受性の持ち主で、チェーホフの影響を多分に受けながら、微妙な人間心理を印象主義的タッチで巧みに描出した。第一次世界大戦で弟が戦死してからは、故郷ニュージーランドでの幼いころの思い出を素材とする決心を固め、郷愁のこもった傑作を書いた。1923年1月、結核のため、34歳でパリ郊外フォンテンブローにおいて没。

略歴(ウィキペデアより)

 1888年 10月14日にニュージーランドのウェリントンで生まれる。上に姉が二人、下に妹が二人弟が一人の六人姉弟の三女だった(妹の一人は死んだ)。
 1903年-1906年 ロンドンのQueen's Collegeに入学。
 1907年 父親のニュージーランド銀行頭取 (Chairman of Directors) 就任に伴い一旦ニュージーランドに帰ったものの、ロンドンでの生活を望んだ。
 1908年 ロンドンに戻る。
 1909年 George Charles Bowden(1877-1975)と結婚するも、以前より惹かれていた Garnet Trowell(バイオリン奏者) の元に身を寄せる。妊娠し母親に連れられてバイエルンに行ったが、子供は生まれなかった。
 1910年 ロンドンに戻り、バイエルンでのスケッチを New Age に発表。この時点で淋病に罹患していた。
 1911年 出版社 Stephen Swift より In a German Pension 発売。作家ジョン・ミドルトン・マリーと出会う。
 1912年 マリーと同棲。Rhythm 誌の副編集長に。
 1913年 Rhythm誌の後継誌Blue Reviewが 第三巻をもって廃刊。D・H・ローレンス及び後にその妻となるフリーダと知遇を得る。マンスフィールドはフリーダから後に贈られた結婚指輪を終生離すことがなかった。
 1914年 マリー破産。第一次世界大戦勃発。
 1915年 咳が始まる。マリー、ローレンスと Signature を始める。弟がフランスでの練兵中に事故で死亡。イギリスにいたたまれなくなり、マリーと共にフランスのバンドール(ヴァール県のコミューン)に。
 1916年 弟の死を嘆きながらも、大いに創作に励んだ。四月、ロンドンに戻る。ヴァージニア・ウルフ、T・S・エリオット、バートランド・ラッセルらと知り合う。
 1917年 New Age に再度作品を発表するようになる。十二月、ヴァージニア・ウルフの許を訪ねる。健康状態悪化し医師に転地療養を勧められる。
 1918年 単身渡仏しバンドールを訪ねる。これによって更に健康を害し、二月には初めての喀血。ロンドンへの帰国を試みるも捕えられ、三週間にわたって砲声下のパリに留められた。五月、マリーと結婚。Prelude、Bliss 出版。結核療養所への入所を勧められる。
 1919年 マリー、Athenaeum の編集長に。マンスフィールドは毎週この雑誌に小説のレビューを書くことになった。転地療養のためイタリア・リヴィエラに。
 1920年 マントンに移る。Athenaeum に最後のレビューを書く。The Daughters of the Late Colonel を完成。
 1921年 マリーと共にスイスに。At the Bay、The Garden Party を初めとする珠玉の作品群を書いた。
 1922年 パリでManoukhin博士の治療を受けたがはかばかしい効果がなかった。スイスに戻り、最後の完成作品 The Canary を書く。
 1923年 1月9日、バリ郊外のフォンテンブローにおいて、手紙で呼び出されたマリーが到着したその日の夜、最後の喀血。34歳没。

担当者の感想(マンスフィールドから学んだ点)

(1)詳細な情景描写と繊細な心理描写によってこそ、的確なイメージが提示できる。
(2)象徴的なものによって心の変化を暗示。
(3)短篇小説の神髄はストーリーの展開ではなく、ある人の「人生の一日」または「人生の瞬間」を提示することにある。
(4)短篇小説には更に鮮やかな起承転結が求められる。
(5)短篇小説における私小説的リアリズムの有効性。
(6)文学における感動は「人生の一日」または「人生の瞬間」への共感にこそある。
(7)短篇小説に徹することによってチェーホフを越えたか?(チェーホフは「人生の一日」または「人生の瞬間」を描いた名手であり、マンスフィールドは「人生の一日」または「人生の瞬間」の描き方をチェーホフに学んだ。しかし、チェーホフが得意としたのは中篇小説と戯曲であったのに対して、マンスフィールドは更に短く、引き締まった短篇小説を書いた。少なくても、短篇小説においては出藍の誉れと言って良いかも知れない)

以上 上条 記

 ・出席者(リアル)順不同、敬称略
  遠藤、金田、佐藤直(杉田)藤原、中谷(池内)、野田(十河)、森山(大倉)、武内(原)、山下憲(上条)、福島*

 ・「掲示板」からの参加(敬称略)
  藤本、藤原、遠藤、中谷(池内)、野田(十河)、金田、鶴見(山口)、佐藤ル(石野)、佐藤直(杉田)、成合、寺村(港)、阿王、中根(保坂)、森山(大倉)、和田

◆1月の読書会
   日 時:1月14日(土)17時〜
   場 所:神奈川県民センター内、会議室
   テーマ:「ウィリアム・ウィルソン」エドガー・アラン・ポー  「黒猫」掲載 集英社文庫
         青空文庫に掲載あり
   担当者;荒井さん

(文学横浜の会)


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