「文学横浜の会」
読書会
評論等の堅苦しい内容ではありません。2023年 1月17日更新
「ウィリアム・ウィルソン」エドガー・アラン・ポー
担当者 荒井
「掲示板」に書き込まれた内容
読書会にあたってのレジメ
「ウィリアム・ウィルソン」は、1840年に発表された小説で、ドストエフスキー著「二重人格」などとともに、ドッペルゲンガー小説の代表作言われています。
ドッペルゲンガーとは、自分の分身が見える現象です。
語り手ウィリアム・ウィルソン氏には、ウィルソン氏が利己的な行動をしようとすると、それを批判したり、妨害しようとしたりする、自分の分身が見えます。
精神分析という学問では、人間の心の中には、意識されない領域があり、その領域では、人間が成長する過程で身に着けた規範とか道徳とかでできている、「超自我」というものが、自我を監督する働きをしている、と言われています。
ウィルソン氏の場合は、何かの拍子で、普通は意識されないはずの超自我が、自分の分身として意識されるようになってしまったようです。
エドガー・アラン・ポーの別の小説には、「あまのじゃくの心」というものが出でてきます。「あまのじゃくの心」は、自分とは別の人格として意識されるものではないところが、分身とは違いますが、登場人物の心の中に意識されることなく潜んでいて、登場人物が、してはいけないと分かっていること、したくないと思っていること、を、登場人物をして、衝動的に行わせてしまいます。
人間の心の中に、意識されない領域があることは、「ウィリアム・ウィルソン」が発表されたずっと後、20世紀になってから、精神分析という学問によって解明されたことですが、エドガー・アラン・ポーは、19世紀前半には、人間の心の中には、意識されない領域があることを感じとって、その領域の中にあるものが、分身として現れて人間を狂わせたり、「あまのじゃくの心」として人間の行動に影響を与えたりすることをテーマとして小説を書いていたわけで、優れた作家の直感というのはすごいものだと思います。
私は、「ウィリアム・ウィルソン」を上記のように読みましたが、皆様はどんな風に読まれたでしょうか。私の読み方に対するご批判など含めて、教えてくださいますよう、お願いします。
読書会のまとめ
皆様
以下、まとめを作成いたしましたので、報告いたします。
この小説は、同姓同名、しかも生年月日も同じ分身が同時に登場するという、現実世界ではまずあり得ない設定がされているが、その分身が物理的な存在として話し、ふるまい、周囲の人達も彼の存在を認めている点で、わかりにくい。
独白体で、語られる内容に客観性が無く、事実として起こったことは何か、結局はわからないのだから、あまりつっこむのも野暮であると考えて、人間の心の複雑な有りようを比喩的に描いた作であると解して読んではどうか。
心の複雑な有りよう、とはどんなことかといえば、酒とか麻薬とかに溺れながらも禁酒同盟に参加したりするような作者の内面や、聖書の一節にも表れている作者を含む当時の欧米人の心の葛藤、などがこれに当たると考えられる。
作者は、誰かに止めてほしいと思いながらも暴走を続ける主人公の前に、良心が分身となって現れ、主人公を苦しめる、という話によって、比喩的に、このような心の有りようを表現しようとしたのではないか。
一方、この小説を、作者の経験を描いた私小説と読むこともできる。作者は、精神疾患の症状として分身が現れることを食い止めようと、この小説を書いたのではないか。そうであるとすると、最後に主人公が分身を殺したことは、作者の自殺願望の現れであると考えられる。
以上 荒井 記
・出席者(リアル)順不同、敬称略
注;福島さん、澤曲さん、大石さんは見学に来られた方です。
・「掲示板」からの参加(敬称略)1/14現在
◆2月の読書会
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