「文学横浜の会」

 読書会

評論等の堅苦しい内容ではありません。
小説好きが集まって、感想等を言い合ったのを担当者がまとめたものです。

これまでの読書会

2023年 2月 6日更新


「推し燃ゆ」宇佐見りん

担当者 原

「掲示板」に書き込まれた内容

読書会にあたってのレジメ

〜“文学”はどこへいくのか〜         原 りんり

 “文学”の概念について語る能力はない。
ただ人がより良くより充足して生きるための方法のひとつだということくらいしかわからない。
ただ文学というと我々中高年はイコール小説や詩などをどうしてもイメージしてしまうが、
若い世代というか時代の主流をになう人々は、文学や哲学の多くを「漫画」や「アニメ」や「ゲーム」「音楽」「映像」で語っている。


これらの媒体は、そこまでレベルもクオリティも高くなってきていて、
戦後あんなに長く我々を支配してきたアメリカのディズニーアニメが、あっという間に世界中でジブリに席巻されてしまったのは、
私には正直驚きを超えた喜びだった。

 宇佐見りんのこの小説はネットの書き込みでは、すごくしんどい気分になるという読後感が多かった。
気持ちはわかるけど甘えすぎとか、自分の子どもがこうなったらどうしようとかの母親目線も多かった気がする。

一般的な読後感としては、よくある話で特別面白い作品でもすごい作品でもないだろう。
芥川賞を取ったから、まあそこそこなのかなあという程度なのかもしれない。

 綿矢りさの「蹴りたい背中」のときは、正直そこまでの作品かなあと思っていたので、
今回も作者の年齢が若いというだけで注目することはなかったのが正直なところだった。 

ただ、一部の評価で文章が上手いとか、百年後には古典になっているかもというのを目にして興味をもち、
一読してさらに再読して、う〜んと唸らされるものがあり、時間がたつにつれて、
もしかしたらこれは賞など関係なくとても重要な作品のように思えて、今回取り上げてみようと考えた次第です。

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 この作品のおおよその時系列を整理するとこうなる。

 主人公のあかりちゃんは、あまり勉強はできない普通の女子高生で、
まざま座というアイドルグループの真幸くんを猛烈に“推し”ている。
因みに友達の成美ちゃんは、もう少し接触が可能な地下アイドル“推し”である。

 “推し”が燃えたという文章で始まるこの作品は、長年本当に愛して止まない一方的だが幸せな安定した日常に、
突然大きな亀裂が落ちたことを意味する。ファンを殴ってネット上で炎上してしまった“推し”を心配するところから始まっている。

 あかりちゃんはご多分にもれず体育などは見学する保健室大好き派で、病院での受診を求められて、
簡単にふたつほどの診断名がつく。(多分、軽い鬱とかコミュ障のたぐいだろう。薬は効かない)

 当然授業中もイアホンでスマホに没頭し、案の定“推し”がマスコミでさらし者にされていて気が気ではない。
2千円のCDに一枚ついている投票権欲しさに、CDを15枚買うなど、またはグッズやライブに色々お金がかかるので、
定食屋でバイトをしているが、ルーティン化された動きしかとれず、気が利かないし機転もきかないのでよく叱られている。

 家族は海外に単身赴任で余り子育てに関心のない父親と、どちらかというと教育ママ的な母親と勉強のできそうな姉の四人で、
死にそうな祖母が病院にいる。さらに母親も働いている比較的裕福な家庭だ。

 因みにあかりちゃんという主人公と作者自身は文体上同一視されそうだが、
作者宇佐見りんはちゃんと冷めた大人の視線を持っているのが、次の姉の台詞でよくわかる。

『「あんた見てると馬鹿らしくなる。否定された気になる。あたしは、寝る間も惜しんで勉強してる。ママだって、
眠れないのに、毎朝吐き気する頭痛いって言いながら仕事行ってる。それが推しばっかり追いかけてるのと、同じなの。
どうしてそんなんで、頑張ってるとか言うの」
「別々に頑張ってるでいいじゃん」』(56−57)

 現実生活に追われて“頑張っている”のと、
ただ好きなものを追いかけて時間も金も消費していることを“頑張っている”と言えるのかについては、実は本人は百も承知だ。
だからあかりは自分を肯定できない。何をするにも体が重く『寝起きするだけでシーツに皺が寄るように、
生きてるだけで皺寄せがくる。・・・いつも、最低限に達する前に意思と肉体が途切れてしまう』(9)

 “推し”はファンの投票結果で1位から5位に転落してしまう。これがあかりの大きな転機になる。
もう生半可ではできない、あたしは“推し”以外には目をむけない。自分はどうなってもいいとすらの強い決意をして、
留年から退学になる。ここで教師が言う台詞も秀逸だ。

『疲れた?』『どうして疲れたの?』『勉強がつらいの?』『どうしてできないと思う?』(頭の悪い教師が、
生徒の立場に立ったつもりでよく使う台詞だが、そんなことに答えられるくらいなら、
そもそもこういう事態にはなっていないだろう。)

 3月に中退、母の不眠、祖母の訃報。あかりの携帯には、家族や友達の写真はほとんど入っていない。
しかし膨大な“推し”の情報はすべてものすごく整理も管理もされている。
そして父からの宣言。『ずっと養っているわけにはいかないんだよね、おれらも』『働かない人は生きていけないんだよ』『なら、
死ぬ』『ううん、ううん、今そんな話はしていない』逃げる父親。誰にもわかってもらえない。
『働け、働けって。できないんだよ。病院で言われたの知らないの。あたし普通じゃないんだよ』
『また、そのせいにするんだ』そんな会話のあと、あかりは祖母の家で援助されながら一人での生活に入る。
バイトは無断欠勤でクビになった。

 ここからは“推し”一色の生活が始まる。まともな生活能力が失われ、“推し”のインスタライブを見ながらの食事、
この時だけ少し食欲がでる。インスタントラーメンのお湯を沸かすのを忘れ、洗濯物を雨ざらしにしてしまう。
そして“推し”は結局グループを解散し引退を宣言し結婚まで匂わせる。
“推し”はとっくに自分を壊したかったんだと悟るあかりちゃんは、自らも壊そうと“推し”の家を突き止め、
そこに実在のただの男の影を感じて絶望する。ラストは綿棒をぶん投げて、それを自分の骨を拾うごとくに集めていく。

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 私がこの作品を評価というか注目する点は、以下の三点です。

 @ 表現の独自性や新しさ
 A “生きる”ということへの執着並びに真摯さ。
 B 取り囲む時代状況(の特殊性)

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 〈 @  表現の独自性について〉

 例えばチョコレートのたくさん入っている袋をほぼ無意識に食べていて、
誰かから「それ最後のひとつだよ」と言われてしまった時。
ハッと気がついて、ああそうだったんだ、これが最後でもうないんだ、と思った時の唐突な空疎感が、
祖母が死んだと言われた時の感想なのだ。この感覚は、今時の子たちの多くが、特に肉親や他者に感心のない子の多くが、
意外とすんなり共感できるのではないかと思う。

  その他には、以下のようなものがある。

 一点の痛覚からぱっと放散するように肉体が感覚を取り戻してゆき、粗い映像に色と光がほとばしって世界が鮮明になる。(11)

 蝉が耳にでも入ったように騒がしかった。夥しい数の卵を産み付け、重い頭のなかで羽化したように鳴き始める。(24)

 車酔いをしていた。額の内側、右の眼と左の眼の奥に感じる吐き気は、根深く、抉り出せそうになかった。(28)

保健室にいる時や早退した時に受ける、あの時間が半端にちぎれて宙ぶらりんになったような感覚(75)

単純化された感情を押し出しているうちに単純な人間になれそうな気がする。(82)

闇は生あたたかくて、腐ったにおいがした。(116)

夜明けは光で視認するのではなく、夜に浸していたはずの体が奇妙に浮くような感覚で認識する(117)

 ふるえて崩れそうになる脚をふんばった。お盆の時に茄子や胡瓜を支える爪楊枝が浮かんだ。(119)

 二足歩行は向いてなかったみたいだし当分はこれで生きようと思った。(125)

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 〈A “生きる”ことについて

 あかりちゃんはあまり勉強のできる子ではない。と言って名がつくような深刻な精神障害や精神病を患っているわけでもない。
それは、彼女のブログを見ればわかる。内容は理路整然と冷静で、
むしろ他者を思いやる優しさももち、“しっかりした子”と思われているからだ。
それがあかりちゃんの本当の姿なのではないかと、私は思っている。だから、“推し”を失って自滅的になっても、
自殺には向かわない。時間はかかるだろうが、また違う“推し”を見つけ、
少しずつでもバイトを始めるか、あるいは流行のユーチューバーになって小銭を稼ぐくらいのことはできるだろう。
愛情に恵まれた家族関係にはないようだが、それでも母はなんらかの手を差し伸べてくれるようにも思える。

 特筆すべきなのは、あかりちゃんの本当に“恐れていること”にある。それは本当に無気力になり、
心底から何もしたくなくなることにある。その無力感の深さだ。
だから“推し”はなくなると立っていられなくなる“背骨”になっている。
“推し”を取り込むことは自分を呼び覚ますことであり、だから見返りは求めないし、独占したいとも思わない。
強烈な生きがいとでも呼べばいいかもしれない。

【 推しは命にかかわるからね。(6)

  推しを推すときだけあたしは重さから逃れられる。(9)

  その目を見るとき、・・・自分自身の奥底から正とも負ともつかない莫大なエネルギ  ーが噴き上がるのを感じ、
生きるということを思い出す。(15)

  全身全霊で打ち込めることが、あたしにもあるという事実を推しが教えてくれた 】

 例えばピアノやバレーや野球やサッカーに、時に子どもたちは夢中になる。それなりに時間も金もかかるし、
それを懸命に続けたからといって、将来プロになっていくらかでもお金を稼げることはほとんどない。
それと全く同じだとは言えないかもしれないが、主人公はただ、毎日を楽しくワクワクしながら充実した時間を過ごして、
生きていたいだけなのだ。そこを理解することは、まず大前提だと思う。

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 〈B 取り囲む時代状況について考える

 SNS(ソーシャルネットサービス)の世界では、実に多くのアイドルが活躍している。
(テレビの情報は今や中高年向けになってしまった)韓国のBTSは法律まで変えてしまったが、
アイドルが莫大な金を産むことを知ってしまった業界は、あの手この手で次の“推し”を作り続けていく。
(個人的にはジャニーズ事務所は落ち目だと思う)

 続きは当日レジュメにて

2月例会 まとめ

 従来の課題書とはかなり毛色の違った作品を選んでしまったので、皆さんからの不評を覚悟していたのですが、概ね反応は良かったように感じました。

 やはり表現力への評価が高く、特にたたみかけるような文章の力や隠喩のうまさなどの指摘がありました。あとは、今を生きる子どもたちの生きにくさへの共感、人間は生きが いがないと生きていかれない動物だという指摘、これは現実逃避の物語だ、などいろいろな読み方があって、有意義な時間でした。

 江藤淳的な読み方(数字的、メタファー的、真幸くんの人間宣言)を紹介された方もいて、意見は様々に多様に展開されました。

以上 原 記

 ・読書会出席者(リアル)順不同、敬称略
  阿王、金田、佐藤直(杉田)、清水(いまほり)、武内(原)、寺内(港)、中谷(池内)、  野田(十河)、林、藤原(上終)、森山(大倉)、山下憲(上条)、、澤曲

 ・「掲示板」からの参加(敬称略)2/4現在
  成合、いまほり、森山、石野、池内、港、阿王、金田、藤原

◆3月の読書会
   日 時:3月4日(土)17時〜
   場 所:神奈川県民センター内、会議室
   テーマ:「城崎にて」志賀直哉
   担当者;清水さん

(文学横浜の会)


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