「文学横浜の会」

 読書会

評論等の堅苦しい内容ではありません。
小説好きが集まって、感想等を言い合ったのを担当者がまとめたものです。

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2023年 7月05日更新


「堕落論・続堕落論」坂口安吾

担当者 寺村

「掲示板」に書き込まれた内容

【 坂口安吾との出会い 他 】

大学は封鎖されていて授業は無く、むなしく下宿に引きこもっていた学生時代のこと ‥‥ 大学はじつは休みではなく公式にはやっている、これを何というのか、営業中とでもいうのか ‥‥ だから学生は郷にかえるわけにもいかない。しかし大学構内には入れないし授業もない ‥‥ というわけで、来る日来る日を、引きこもりよろしくむなしくなんとかやり過ごしていた。実際このころ何をしていたのか、よく憶えていない、思い出せない ‥‥ 暇にまかせて読書でもしていたのだろうか ‥‥ 思い出せないが、物理的時間だけは毎日正確に刻まれていった。

そんなある日、いつものように、することもなく友人の部屋で駄弁っていたところに、自分には初対面の男が訪ねてきた。その男は中肉中背だが、少し大きく感じられる ‥‥ 色黒で、にもかかわらず両目がらんらんと輝いていて、なんとなく普通ではない雰囲気を醸し出していた。

それから始まった彼を含めた会話は、はじめはドストエフスキーについてのもので ‥‥ 彼はしきりに『カラマーゾフの兄弟』を押していた記憶がある。また安吾の話も話題に上って、彼は『青鬼の褌を洗う女』に感心していた。どういうわけか、この時のことが不思議に鮮明に思い出される。彼は、封鎖で通えなくなっている大学の学生ではなく、また下宿仲間でもなかったが、どういうわけかそこにいて仲間に加わっていた。

彼は「屁は燃えるぞ」といって、会話の途中、突然頭を下にして尻を上にもちあげて「よく見てろよ」といってマッチを擦り ‥‥ 「おおっ、やった、やった」と悦んでいた。火が点いたかどうか、自分には確認できなかったが、そんなに明るい火が点くわけもないだろうから、「おおっ」といって悦んだりしていた。そのサービス精神は、退屈を紛らしてはくれた。彼は、青森県出身で、永山則夫とは幼馴染だとも云っていた。

永山則夫と云われても、わからない人が多いと思う。昭和43年(1968年)日本を騒がせた連続殺人犯で、4人の犠牲者を出した。翌年逮捕されたが、彼の成育歴から同情する人も多く、その後、関係する書籍が多く出版されている。

この男のことは、遠い昔のことで名前も記憶にないが、この日この時のただ一度きりの出会いであるにもかかわらず鮮明に思い出される。それもある種危険な雰囲気と共に思い出されるのは、永山則夫のことがあるためだろうか。

この部屋の主も安吾のファンであったから、そんなことが安吾を読むきっかけだった。それから『青鬼の褌を洗う女』と『白痴』など読んでみたが、その頃の自分は幼稚でよくわからなかったのだろうと思う、ほとんど記憶に残っていない。『堕落論』の方は、どれほど理解できたかはともかく感動はした。それからは愛読書の一つとなり、通して読むのは今回で5〜6回目にはなるはずだ。

以上のようなことが安吾を読むキッカケだった。このキッカケ自体なんとなく危険で暗い印象があるが、だからとも言えないが、この出会いは安吾を読むための舞台づくりとしては、出来過ぎではないかと思われてくる。

安吾は、読むたびに何ほどかは心をゆり動かされる ‥‥ だから私は安吾のファンなのだが、しかし何に動かされるのか、よくわからないところがある ‥‥ この秘密は何だろうか、と思ってきた。今回読み直してみて気付くことだが、安吾の筆の運びには停滞するところがなく流れるようだ。読み込んでみると、かなりの名文家であることに気が付いた。彼は名文家であり、かなりのアジテーターだと思う。安吾自身は自分のそんなところが好きではなかったようだ。

子供のころはガキ大将で、海岸の砂丘ではいつも十数人の子分を引き連れて、いたずらのかぎりを尽くした、と記されている。子供とはいえ、それだけの子分を纏めるにはかなりの弁論術を要しただろう。彼の名文家としての、またアジテーターとしての能力は、ガキ大将の頃に身に付けたものだろうか。

安吾の僚友に太宰治がいる。

太宰は戦争中、空爆下の東京で『お伽草紙』『新釈諸国噺』『盲人独笑』などの最高傑作を次々に生み出した。安吾は、敗戦を迎えるまでは無名といってもいい作家だったところ、敗戦から一年も経たない昭和21年4月に『堕落論』を発表して、一躍文壇に躍り出ることになった。価値観が180度ひっくり返って、どう生きていけばいいのか、人々が道を失っていた時期のことであった。

二人に共通して言えるのは「平和(?)」というか、世の中が秩序と言われるものにしたがって一応安定した表情をみせているときには、その真価を発揮できない。しかし戦争という、一般的には混乱の極致と思われる環境になってみると、不思議なことにその聖なる本領を発揮している。しかし戦後の混乱もおさまり、世の中が次第に落ち着いてくると、生きる場所を失ってしまったのか、太宰は、昭和23年6月に心中という自殺を遂げる。安吾はそれより後になるが、敗戦後ちょうど10年目の昭和30年2月に、世に捨て去られるように死去する。二人は、一般には落ち着いたと目される巷間の汚辱に満ちた世界では、うまく生きていけるようにはできていなかったのだと思う。

【 課題図書に押した訳 】

候補として、はじめは一押しで又吉直樹『火花』を考えた。しかしこれはすでに課題図書になっていたので没。芥川賞などほとんど関係なく暮らしていたころ、どういう風の吹き回しかこの時だけは、芥川賞受賞作品を手にとって読んだのだった。顧みるところ、又吉は大阪出身でお笑い芸人だというところで手にとる気になったのだと思う。自分も大阪育ちだからお笑いは大好きだし、そんな又吉が、純文学の芥川賞を受賞したというサプライズが、そんな気を起こさせたのだと思う。

次には松本清張『書道教授』を考えた。本などあまりなかった我が家のちいさな本棚に、どういうわけかこの本だけは、ずっと置いてあったので子供の時に何回か読んでいた。今回改めて読んでみると、面白いけれど課題図書に押すほどのものではないと思った。他には、大岡昇平『野火』、林芙美子『浮雲』なども考えたが、大岡昇平は頻繁に課題図書になっているようだし『浮雲』は長すぎた。

というわけで坂口安吾に落ち着いたわけですが、小説だと『白痴』『青鬼の褌を洗う女』など考えられたけれど、安吾という作家は、小説よりも評論の方がおもしろいと常々思っていたので『堕落論・続堕落論』としました ‥‥ 『堕落論』と『続堕落論』です。別稿になっているけれど、続き物と考えてください。どちらも10頁ぐらい、併せて20頁ぐらいの量です。角川文庫、新潮文庫、文春文庫、岩波文庫などあります。

【 課題テーマ 】

(1)本編で、安吾は(太宰を含めてもよい)「平和な世の中では真価を発揮できなかったが、戦争という混乱の極致の中で本領を発揮することができた」と規定しましたが、この視点について、賛成されますか?反対されますか? どちらかに応答をいただき、その理由をお書きいただければ幸いです。
(2)坂口安吾記念館「風の館」を訪ねた時にたまたま出会った女性に、安吾の話を振ると「私は、とても安吾さんは ‥‥ スゴ過ぎて、いけません。もっととっつき易い作家さんを読んでいます」とのことだった。ちょっと思いがけなかったのですが、安吾はそんなにとっつきにくい作家なのでしょうか。ご意見をお伺いしたいです。

【 まとめ 】

多くの貴重なご意見をいただき、ありがとうございました。人それぞれが千差万別であるのと同じく、同じものを読んでも各人の捉え方・感じ方・連想するものが、まさに千差万別であることに感じ入りました。とても勉強になりました。

何人かの方から「怒りの文学」ではないか、という御指摘をいただきましたが、なるほど確かにそうだと思いました。『堕落論続堕落論』には “怒り”という感情が、通奏低音のように絶え間なく流れていると思いました。

“戦争で”ではなく“敗戦で”真価を発揮できたのではないか、というご指摘もありましたが、これもそのとおりだと思います。ありがとうございました。「真価を発揮できた」の意味は「多くの読者の賛同を得ることができた」という単純な意味でいいかと思います。

どちらかというと意識したくない感情、このばあいは“怒り”というマイナスの感情、そのような感情に直接訴えかけたのが『堕落論続堕落論』ではなかっただろうか。「ウソをつけ! ウソをつけ! ウソをつけ!」というように、畳みかけるような“怒り”の表現が、敗戦で生きる道を失っていた日本人の心をつかんだ。アジテーターとしての才能が、敗戦という究極的な時代に振動数を合わせて大きく響いたのだった。それが坂口安吾という作家だったのではないだろうか。

『堕落論』は「半年のうちに世相は変った ‥‥ しかし、人間が変ったのではない ‥‥ 」というセリフではじまる。この時代=世相ということを抜きにして、一連の著作を語ることはできないだろう。

ご指摘の藤田嗣治の件では、彼はあきらかに敗戦の精神的な被害者だったと思う。映画にもなっているから御存知の方も多いだろうけれど、GHQという逆らうことのできない力が大きな要因であったことは紛れもない事実だが、しかし彼をフランスへ追いやってしまったのは、究極的には日本人の所為だろうと思う。

精神的な被害者は彼だけではなく、この時代には日本中にあふれていたと思う。だいぶ昔の話だが、自分の上司は「予科練崩れ」と噂されていて、敗戦から20年以上経った70年代にあっても荒れていた。仕事が終わると酒場へ直行という規則正しい生活を、ずっと続けていて、そんな生活が祟ったためか、80年代に入った頃には癌で死んだ。自ら進んで癌になったのではないか、と思われるぐらいであった。ましてや、敗戦後すぐの頃には、そんな人は全く珍しくはなかっただろうと思われる。

『堕落論』が、敗戦後の日本人に受け入れられ、安吾が流行作家になったのは、当時の占領軍GHQの書いた物語に合致していたから、という側面も無視できない。とくに天皇制批判においてはその通りだろう。だから大々的に発表できたということがある。しかしGHQの目的と異なっているものを書いた場合には、安吾の場合といえどもヨロシク発禁となっている(昭和22年1月『特攻隊に捧ぐ』はその例)。

当時日本の世相で安吾が広く受け入れられたもう一つの理由は、これも御指摘があったとおり、戦前戦中に書いていたものとの不整合性がない、つまり敗戦で考えが変化したということでは全くなかった、ということが大きいだろう。大きく変わった世相の中で、戦前戦中に書いたことと替わらぬ思想で、これからの生き方を説いたということだ。それはインパクトがあったであろうし、安吾にはかなりの先見性があったというか、敗戦などで変わることのない芯をもっていた、ということができるだろうか。

課題図書は評論だが、純粋に文学ということで語るならば、これも多くの方の御指摘をいただいたところで『桜の森の満開の下』や『夜長姫と耳男』は、他に類のない作品で、いずれも安吾にしか書けない世界だろう。その意味では安吾文学の頂点といえるのかもしれない。自分としては、これ等の作品について佐藤優氏のように深く感じ入る(読書会当日配布資料)ところまではいかないが、安吾独自の世界であることは間違いない。

安吾の傑作の多くは昭和21年から23年の頃に書かれているように思う。一躍人気作家になって、その時期に多くの読者を獲得したから、その後も多くの文章を書き続けているけれども、そんな中で、傑作と思しき作品の数は徐々に少なくなり、時間を経るにしたがって(私は「怒り」が収まっていくにつれて、と解釈する)、徐々に精彩が薄れていくような気がする(私ごときが生意気かもしれませんが。またそれほど多くの作品を読んでいるわけでもありませんが)。

彼はまた晩年に近づくほどに、いろんなことに首を突っ込んで「オッチョコチョイ」ぶりを発揮する。酔っぱらって留置場に宿泊したり、精神病院に入ったりもするけれど、その類のもっともいい例は、陣屋事件ではなかろうか(『升田幸三の陣屋事件について』という著作がある)。安吾は自分のことを各所で「オッチョコチョイ」といっているがその通りだと思う。等身大で見るにおいて、坂口安吾という人は結局死ぬまで「オッチョコチョイ」で、また「ガキ大将」だったのではないのかな、とそんな風に思われてくる。

以上 寺村 記


 出席者(リアル)順不同、敬称略
  遠藤、金田、河野、佐藤(杉田)、篠田、寺村(港)、福島(由宇)、高木、武内(原)、
  中谷(池内)、野田(十河)、藤原(上終))、中川(野守)、酒井(里井)

 ・「掲示板」からの参加(敬称略)7/1現在
  港、阿王、里井、後藤、遠藤、藤原、池内、石野、杉田、野守、原、金田、成合、大倉、十河、由宇、保坂、和田

◆8月の読書会はありません。

◆9月の読書会
   テーマ:「旧約聖書 ヨブ記」岩波文庫
   < 担当者より>ページ数は163ページです。大半が詩形式で書かれていますので、比較的読みやすいと思います。
   担当者:野田さん

(文学横浜の会)


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