「文学横浜の会」

 読書会

評論等の堅苦しい内容ではありません。
小説好きが集まって、感想等を言い合ったのを担当者がまとめたものです。

これまでの読書会

2023年 9月05日更新


「旧約聖書 ヨブ記」岩波文庫

担当者 野田

「掲示板」に書き込まれた内容

【1】「ヨブ記」を選んだ理由

 今年2月6日にトルコ・シリアで起こった地震はマグニチュード7.8と規模が大きく、死者は56,000人に及んだ。多くの建物が崩壊して、懸命の救助にもかかわらず、命を落とした人が多かった。ここまで被害が大きくなったのは、建築物の設計や建設の質に問題があったとの指摘もある。必死の救助でがれきの下から生存者を助け出した時、人々は「アラー・アクバル」をくり返した。各国から駆けつけた救助隊の映像や、またその横で肉親を失い衣食住すべてを失って路上に投げ出された人々の嘆きの映像は記憶に新しい。悲惨だが、それはまた世界各地で大地震などの自然災害が起こった時に見る映像と似通ったものだった。

 地震発生から数日後、わたしは被災した男たちがどこからともなく集まり、ガレキの上にマットを敷いて祈りを始めるのをテレビで見た。その時「えっ、この期に及んでまだ神に祈りをささげるのか?」と思った。むしろ、この人たちは神に対して怒り、棄教すらするのが当然ではないか? あるいはそもそも神なんかいないと判断すべきではないかと思った。

 しかしそう思う一方で「ああこれが人間なんだよな、こんなにひどい目にあっても、なお神を信じようとする。中東の地だけでなく世界中でそうだ」と思った。そして、なぜ人間には神が必要なんだろう、との古くて新しい疑問が湧いてきた。

 自然災害だけでなく、こうした不条理な出来事に遭うことはわたしたちの日常生活にあふれている。「なぜ自分だけが早くに両親と死別しなければならなかったのか? なぜよりによって夫の車が通っている時に崖が崩れた? なぜ友人の子供は、小児ガンで長期療養を余儀なくされるのか? etc.……」5月の読書会で取りあげられた谷崎潤一郎にも次のような記述がある。

 「誰が己を、天に逆って生きなければならないような人間に生んだのだ。善に対して真剣になれず、美しき悪業に対してのみ真剣になれるような、奇態な性癖を己に生みつけたのは誰なのだ。己は己の背徳について、天罰を受ける覚えはない!」

彼はいかにもしてこの不当なる天罰に反抗しなければならなかった。神が打ちおろす懲らしめの笞(むち)を甘んじて堪え忍ぶ事は出来なかった。     (『異端者の悲しみ』)

 こうした自分に非がない事柄に突然巻きこまれて呻吟する人間を扱ったものに「ヨブ記」がある。内村鑑三はこの本について次のように言う。

 「人は何ゆえに艱難に会するか、ことに義者が何ゆえ艱難に会するか、これヨブ記の提出する問題である。……この問題の提出方法が普通のそれと全く異なりおるがこの書の特徴」、「ヨブ記は文学書にあらずしてしかも世界最大の文学書である。」  (『ヨブ記講演』)

 古来多くの文学者に影響を与えてきた本であり、読書会でとりあげるのもあながち見当違いではないと思って、今回取りあげた。

【2】―1:「ヨブ記」について

 若いころから時に応じて読んできたが、謎の多い、理解しにくい文章。現代日本とは場所も時代も異なる宗教書であることや、書かれた後に複数の人間による加筆訂正がなされたのが、その一因。序曲と終曲が散文なのに対し、まん中の部分が韻文であることも、後世の手が入っていることを示す。

 旧約聖書「知恵文学」5書の中で最初に置かれ、思考のレッスン書ともいうべき一面も持つ。

 ―2:「ヨブ記」のつくり
〔1〕ヨブは「全くかつ直く、神を畏れ、悪を遠ざけ」る生活をしていた。サタンが神の許しを得て、ヨブに試練を与える。1度目は家畜等の財産と10人の子供たちや家が滅ぼされる。しかしヨブは「裸でわたしは母の胎を出た、/裸でわたしはかしこに帰ろう。/ヤハウェ与え、ヤハウェ取りたもう。/ヤハウェのみ名はほむべきかな」と神をたたえ、信仰を変えない。

〔2〕2度目の試練。サタン、「ヨブの足の裏から頭の天辺まで悪い腫物で彼を打った。そこでヨブは陶器のかけらをとって体をかきむしり、灰の上に坐っていた。彼の妻が彼に言う、『あなたはまだ自分を全きものにしているのですか。神を呪って死んだらよいのに。』ヨブは彼女に言った、『……われわれは神から幸いをも受けるのだから、災いをも受けるべきではないか。』これらすべてのことを通じてヨブはその唇をもって罪を犯さなかった。」事ここに至っても、ヨブの信仰は揺らがないように見える。

〔3〕三人の友の訪問。「彼らは遠くから眼を上げたが、ヨブであることがわからぬほどなので、声をあげて泣き、それぞれ着物を裂き、塵をその頭の上で、天に向かってまき散らした。彼らは七日七夜ヨブと一緒に地に坐っていたが、一人も一言も彼に話しかける者はなかった。」

 以上、わずか数ページよりなる導入部。しかし詩想豊かで筆致は勁く、読者はこの部を読むだけで突然地の裂け目から奈落を覗くかのように、生存の根幹をゆすぶられる。

 ここまでの記述が散文で以降が韻文だが、本来は逆でこの部分が韻文であるべきと思わせる。「ヨブ記」を「ヨブ記」たらしめるのはこの序曲にあり、次の討論以降は物語として成立させるためのもの、そしてそれを聖書の中に入れるために体裁を整えただけのものとすら思われる。

 ちなみに内村鑑三の『ヨブ記講演』はヨブの時代の後に登場したキリスト教を信じる者の立場からした講演で、教条的でイマイチ。

〔4〕三人の友との長い討論。最後にエリフも加わる。
   友人たち⇒「……誰が罪なくて滅びたか、/正しいもので亡ぼされた者が何処にあ
        る。」(P.18)などと言い、ヨブの災難はヨブの罪が招いたものとする。
        そして、悔い改めるように言う。
   ヨブ⇒「わたしの間違いをわたしに悟らせよ。……君たちの非難は何を非難するの
       か。」(P.27)「……わたしがどんな罪過を/あなた(=神)に犯したという
       のか。」(P.30)と、神に自己の災禍の説明を求める姿勢を崩さない。

 討論はずっと平行線で、かみ合わない。それぞれの主張を続けるのみ。エリフが加わっても、状況は変わらない。神はあまりにも偉大で、神慮を人間がはかり知ることはできれない。神にたてつかず、人間としての分際をわきまえろ、という。それに対してヨブは折れず、「神への挑戦」(P.112)を続ける。

 真理をひとり訴え続けるヨブはここで「考える葦」のようである。生成AIは、どこから持ってきたのか「ヨブが発した言葉は、実存的文学の“さきがけ”」と言うが、それはこうしたことをいっているのだろう。

〔5〕ついにヤハウェが登場する。

 「この無知の言葉をもって/経綸(はかりごと)を暗くする者は誰か。」(P.142)しかしその言葉は、3人の友人やエリフの言葉と同じように、「地の基いをわたしがすえたとききみは何処にいたか。」(同前)などと、正面からヨブに答えようとしない。

 ヨブが知りたいのは、なぜ義(ただ)しい生活をしていた自分が神から打たれなければならないのか、という疑問への答え。この至極真っ当な問いかけに対してしかし、神までも答えをはぐらかしつづける。代わりに、地球上のあらゆるものから宇宙までの創造主としての自分の偉大さを言って、答えとしようとする。「天が下のすべてのものはわたしのものだ。」(P.159)とまで言う。

 それなのにヨブは、せっかく神と対峙できたのに、「わたしは自分を否定し/塵灰の中で悔改めます。」(P.160)と自分の主張を引っ込める。

〔6〕後日談
 ヤハウェ、「わたしの怒りは君と君の2人の友人に対して燃える。君たちはわたしに向かって、わが僕ヨブのように正しいことを語らなかったからである」(P.162)とエリパズに向かって言う。

 それからヤハウェは「ヨブの運命を転換された。ヤハウェはヨブのすべての持物を2倍にして返された。」(P.163)「ヨブは……140歳まで生き、……日満ちて死んだ。」(同前)

【3】読書会の進行

―A:最初に、テキストに関しての参加者全員の発言。(以下の質問への回答を適宜おり交ぜながらの全体的な感想。いつものように順繰りに発言してもらう。短く、まとめて。)
Q1:神が姿を現した時、ヨブは自分の疑問を投げかけず、言いたいことも主張しなかった(P.153、P.160)。腰砕けになったのはなぜか?この対応でよかったのか?

Q2:ヨブとの対話の後で神は「わたしの怒りは君と君の2人の友人に対して燃える。君たちはわたしに向かって、わが僕ヨブのように正しいことを語らなかったからである」(P.162)と言う。この文をどう理解するか?

Q3:旧約聖書はそもそも、ユダヤ人が民族神ヤハウェへの信仰を篤くするために存在したもの。「ヨブ記」では神はヨブの疑問にちっとも答えていず、何にも解決していない。そしてその未解決は今日まで続いている。
 ユングはその著「ヨブへの答え」で、強権を発動するのみで頑是ない神は「ある意味では人間以下」であると断ずる。それならばなぜ反省することをしない幼児性丸出しの神の一面を示したこの本が、旧約に納められているのか? 信仰を篤くするのに役立つのか?

Q4:「神中心と人間中心という問題」(P.224)=応報思想について、どう思うか?
〔肯定論〕原因と結果は結びつくという思想。
 a:「ヨブは神を畏れる全き人であり、神からひどい仕打ちを受けるいわれはない。ヨブが神に挑戦しようとしても当然だ。神が“契約”を破ったのだから。」裏を返せば「ヨブが災禍を被ったのは何か罪を犯したからだ。」
 b:「人は神の故に神を信ずるのではなく、結局は自己の利益のために神を信ずるのだ」(P.225)

〔否定論〕原因と結果は必ずしも結びつかないという思想。「誰の上にも雨は降る(マタイ5-45)。」
 a’:神慮は人間の考えの及ぶところではない。浅薄な考えなどせずに、神の意思に従うべき。ヨブもそうあるべき。
 b’:人は自己の利益のために神を信ずるのではなく、神であるが故に神を信ずるべき。

―B:テキストを離れての議論。(次に、以下の質問に関する回答を含んだ、参加者の挙手をしての発言。)
Q5:神は自分に似せて人間をつくったといわれるが、実は逆ではないのか? 人間が神を作ったのではないか? これについてどう思うか?

Q6:人間は開闢以来、ずっと神と共に生きてきた。地球上どこにいても、文明が進んでいる、進んでいないにかかわらず。結果として世界には神がひしめき合っている。19世紀以降「神は死んだ」と言われても、信じることをやめようとしない。人間はどうして宗教=神を必要とするのか?

Q7:神は自分の偉大さをヨブに言う時、自分が創造神であることを強調している。自然とそこに住むもろもろのものはかくも完全で美しい。その自然を作ったのは自分なのだから、自分は完全で美しい、という論法。ここでは神≒自然。人格神である「神」を持ちださなくても、「自然」だけで成り立つ論法ではないのか?

(以上)

以上 野田 記

「ヨブ記」読書会 まとめ】

担当:十河

【1】23年9月の読書会は2日(土)予定通り行われた。
 参加者は見学1名を含み10名。いつもよりは少なかったが、課題書が宗教書であったことや文横原稿の締め切りが9月末と近づいていることなどが影響していたのかもしれない。
 前半は担当者の作ったQに対する各参加者の読後感の発表。みなさんに順繰りに発言してもらった。後半はフリートーキング。若干時間が足りなかったが、さまざまな感想がさまざまな視点よりなされた。

【2】発表された意見・感想
 課題書は「知恵文学」の一書として旧約聖書に収めてある。知恵文学は寓話・物語・対話・論争などさまざまなフィクションの形式を用いて人生や社会のことを考え、宇宙や世界の秩序を教えようとするもの。こうしたこの書の出自から、読書会ではさまざまな視点からの意見や感想が出た。この書が2000年以上の時空をへて、なお生きている証左と言える。
 発言された種々の意見を要約することは困難で、以下に箇条書きすることしかできない。

〔「ヨブ記」について〕
・応報思想を否定した神中心の書。聖書に載せるのなら人間中心では都合が悪く、これ以外の形はとれない。
・最後にヨブが初めに失ったもの以上を取りもどしたのは、つじつま合わせの気がする。現世ご利益の物語のにおいもする。
・この書は朗読劇ではないか。キリスト教の降誕劇を準備するものとして。識字率が低かった当時を思えばこれはうなずかれる。
・演劇の手法のデウス・エクス・マキナのどんでん返しと同じようなものがみられる。
・登場人物みんなが自信満々のように見える。
・神を前にしたヨブの対応にはあきれた。せっかくのチャンスを得られたのに。
・神の答えは―ない。遠藤周作『沈黙』がそうであったように。

〔宗教全般について〕
・宗教を日本では正面から教えない。その弊害か、若者が安易に新興宗教の勧誘にのってしまうなどの問題もある。
・原理主義者がこわい。
・アイヌへの言及。人は生かされているとの意識。対してユダヤ教やキリスト教は人間しか扱わない。人間だけが特別というのはどうか。
・神はいると思う。神は人知を超えている。怒ってもどうにもならない。
・一神教は砂漠地帯で生まれた。土地の肥えたところでは生まれにくいのかも。
・キリスト教は直線的な思考をするのに対して、東洋思想は曲線的ともいえる。
・時間空間的に現代日本とは離れていて理解が難しい。この神は自分には関係ないと思わせるところもある。

〔その他〕
・M・ウェーバーへの言及。カルヴィン派プロテスタントでは勤勉が推奨されたが、その勤勉とヨブの勤勉や敬神は相通ずるところがあるのではないか。
・『天路歴程』への言及。
・『カラマーゾフの兄弟』中の大審問官への言及。
・ネットでは動画などでも情報が集められるので、それらを利用して理解を深めた。

【3】まとめ
 この書は謎の多い文章で、その理解は一筋縄ではいかない。しかし神について、また神と人間のあり様について考える時に、この書は避けてとおれない。文学が人間の心を中心課題とするものである以上、そこに深くかかわってくる宗教の理解は、創作を志す者にとって必須のことと思われる。
 人間をよりよく理解するために、文学をより深く掘りさげるために、宗教と人間の関わり合いを見つめ、考える必要がある。今回の読書会はそうした観点からも、多くのことを示唆したものであった。
(以上)

【参考】

【1】生成AIによると…(7月2日時点での回答)
Q1:「ヨブ記」とは何ですか?
A:「ヨブ記」とは、旧約聖書に収められている書物で、ユダヤ教では「諸書」の範疇の三番目に数えられているそうです。義人ヨブが罪なくして子・財産・健康を失うが、絶望的苦悩のうちにあってなお神を求め、その信仰によってすべてが回復せられ神の祝福を受けるという物語が描かれています。

Q2:ヨブとはだれですか?
A:ヨブとは、旧約聖書の「ヨブ記」の主人公で、同書における主要人物の一人です。ヨブは、神を崇める裕福な男性であり、多くの忍耐の中で生き抜く姿を描いた物語です。

Q3:「ヨブ記」からわたしたちは何を学ぶことができますか?
A:「ヨブ記」からは、人生において不条理な出来事が起こることがあるということを学ぶことができます。ヨブは、神を信頼することと、自分の理解に頼らないことが、人生の困難に立ち向かう方法であることを学びました。また、「義人の苦難」というテーマを扱った文献としても知られており、義を求めて正しく生きることや、神様を信じる信仰を育てることの大切さが示されています。

Q4:「ヨブ記」が文学に与えた影響を教えてください。
A:「ヨブ記」は、文学において大きな影響力を持っています。ヨブ記の芸術的展開は、古代の伝説の散文的枠組みの中でなされており、詩文体による討論が行われています。また、ヨブが発した言葉は、実存的文学の“さきがけ”だといえます。人間から神に問いかける書という特質を持っている「知恵文学」の中で重要な位置を占めているのがこの「ヨブ記」です。

Q5:ヨブを英語で書くとJobです。これは仕事のjobといっしょの綴りですが、2つは何か関係がありますか?
A:「ヨブ」と「job」の綴りが同じであることには、関係がありません。英語の「Job」は、古代ヘブライ語の「Iyob」に由来しています。一方、「ヨブ」という名前は、古代ヘブライ語の「Iyov」に由来しています。

 おおむねまちがいはないと思いますが、文字数に制限をかけたわけでもないのにそっけない回答です。で、Wikiその他を使い、わたしの考えもいれながら、以下にもう少し詳しい案内を試みてみます。

【2】「ヨブ記」について
 日本で広く流布している日本聖書協会発行の聖書の前半「旧約聖書」は(1)モーセ5書(2)歴史書(3)知恵文学(4)予言書の並び。その中の知恵文学に「ヨブ記」は納められている。
 ユダヤ教の伝統では同書を執筆したのはモーセであったとされているが、実際の作者は不詳。紀元前5世紀から3世紀ごろにパレスチナで成立した。
 文書に不整合が認められ、元々複数の文書だったのをまとめたのではないか、後代の加筆があるのではないか、などと考えられている。

【3】「ヨブ記」の構造
(1)散文調の序曲
 ページを開くとすぐに、神の意志で、義人ヨブはいわれのない破滅につき落とされる。家畜、家財や家族などすべてを失い、果ては重い皮膚疾患に苦しむ。簡潔な筆致の中でおとずれた悲劇の大きさや深さは類例をみないもので、読者は圧倒される。とともに、テーマを身近に感じることもあって、物語にひき入れられる。

(2)韻文調の討論
 ヨブと4人の友人たちとの対話。自分の苦境の理由を直接神に問いただしたいヨブ。神の正当性と深慮をあくまで擁護し、ヨブに人としての自制を強要する友人たち。その会話は、どこまで行ってもかみ合わない。最後に神自身が登場し、短い対話の後でヨブが引きさがる。
 この物語の中心となるところだが、堂々めぐりの議論は長くてやや退屈。やはり「ヨブ記」も、旧約に収められた他の書物と同類の「お経」の一種なのか、と嘆息させるところがある。

(3)散文調の終曲
 後日談。神を受けいれたヨブはふたたび祝福されて元のように裕福になり、長寿を得て幸福な中で死ぬ。

【4】まとめ
 神の律法に従って敬虔に生きてきたヨブが、突然この上ない不幸に見舞われる。原因については何の思い当たることもなく、ヨブが「なぜ自分にこれほどの不運が?」と嘆いても当然だ。そして、異議申し立てをしようとヨブが神に挑戦することも、まったく理解できる話である。
 読者はこの、わたしたちとは時間も空間も異にする旧約中の一挿話が、現代にも当てはまることに思いいたる。自分のあずかり知らぬことが原因で精神的肉体的陥穽におちることは、生きていてふつうに起こることだし、その時できるならばその理由を全能者=神に尋ねてみたいと思うのも、当然のことだからである。
 こうして「ヨブ記」は、現代を生きるわたしたちにとても近い読み物となる。
 ただ、一読して読者はさまざまな疑問にも逢着する。そうしたことについて、読書会でみなさんとともに考えることができたらと思います。


 ◎8月上旬ごろには読書会に沿ったレジュメをupしたいと思ってますので、よろしくお願いします。
以上、野田

◆9月読書会
 ・日 時;9月 2日(土)17時〜19時
 ・場 所;神奈川県民センター内、会議室 (リアル)
 ・テーマ;「旧約聖書 ヨブ記」岩波文庫
   担当者:野田さん
 ・出席者(リアル)順不同、敬称略
  金田、篠田、寺村(港)、福島(由宇)、武内(原)、
  野田(十河)、藤原(上終))、中川(野守)、酒井(里井)、*板谷

  注)板谷さんは見学に来られた方です。

 ・「掲示板」からの参加(敬称略)9/3現在
  十河、池内、港、原、金田、里井、野守、上終、成合

◆10月の読書会
 日 時:10月 7日(土)17時〜19時
 場 所:神奈川県民センター内、会議室
 テーマ:「火垂るの墓」『アメリカひじき・火垂るの墓』野坂昭如 新潮文庫、等より

   担当者:金田

(文学横浜の会)


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