窓の明かり


作  金田清志

 【その5】


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 昼食から戻ると机の上にメモが置いてあった。佐藤様から電話があり、また掛ける、と書いてある。仕事の関係で知っている佐藤は一人いるがそれなら「XXの佐藤」と書いてある筈だった。誰かなと思いつつそのメモを棄てた。電話が掛かってきたのは三時頃だった。

「お仕事中、いいかしら」と美知恵だった。

 いいですよと言って、先程は不在で失礼しましたと言った。

「あのぉ、今日逢えないかしら」と美知恵。

「解りました。前と同じ場所にしましょうか。その方が分かり易いでしょ」

「よろしいんですか」

 きっとまた何か愚痴を言いたいのだ。夫の帰りが遅いとか、結婚した当初はもっと愛情があったとか、今みたいに自分勝手ではなかったとか…。美知恵は人妻だし、外で逢っても変な気遣いは必要ないが、私は倫子に女の人と逢うからとは言えなかった。友達と逢うから遅くなると電話で知らせた。多分夕食はいらないと言うと、多分じゃ判らないから、いらないのねと言った。ちょっと前は、判りましたと言っただけなのに、倫子も私との生活に慣れてきたのだ。

 待ち合わせの喫茶店に行くと美知恵は来ていた。

「ご免なさい。本当によかったんですか。奥様、お食事作って待ってらっしゃるんでしょ」

「うちは共稼ぎだからお互い勝手にやってます」

「あら、羨ましい。私も仕事したいわ」

 美知恵は前回もそうだったが、二人の子供がいるようには思えない身なりだった。どう見ても主婦らしく見えない。それが今回は自然な感じがした。

 食事はいらないと倫子に言った関係で何処かで食事をしたかった。美知恵からの誘いとはいえ、家族のいる美知恵を食事に誘うのはどうかなと迷ったが、誘うとそうしましょうかと言った。子供達の食事はいいのかなと思ったがその時は訊かなかった。

 美知恵は外に出ると、奥様に悪いわねぇと言った。まだ新婚気分なんでしょとも言った。とんでもない、と私は応えた。

 赤提灯の出ているような店に入る訳にはいかないから、繁華街を歩きながら何処にしようかと迷った。倫子と二人で行く店には行きたくない。別に悪い事をしている積もりはないが、倫子の好みの店には行きたくない。

「中村」と言う店がある。繁華街の外れで、隣がゲ−ムセンターになっている。倫子は一度入った事があり、よくないと言って二度と入りたがらないが、私はまだ入った事がない。そこに入った。

 私はカウンター席でもよかったが、テーブル席に案内された。

「奥さんとよくいらっしゃるの」

 向かい合って座ると美知恵が言った。

「たまにですよ。結婚する前は色々行ったけど…」

「いいわねぇ、私なんか全然行かないわ。結婚する前だって連れてってくれなかったわ。もっとも十年以上も前だからお金もないし、時代も違うわね。今はいいわね、羨ましいわ」

 だいたい美知恵は早く結婚した事を後悔しているようだ。言葉の端々からそんな感じを受ける。それは今の自分に不満があり、夫との関係に不満があり、自分自身に不満があるからに違いない。

「相変わらず亭主は帰りが遅いんだ」

「そうよ、何をしているのか判らないわ」

「男ってね、大変なんだよ。仕事がなくても遅くまで残っていなければいけない時もあるし、付き合いだって断れない時もある。外で仕事をしていると大変なんだ」

「そうかしら。中山さんもそうなの?奥さんだって外で働いているんでしょ」

「私は優秀な社員じゃないから、何時もそんなに遅くまで残っていない。何か注文しようよ」

 しばらくメニューを見つめて迷っていたが、美知恵は二品、私も二品頼んだ。飲物はビールでいいかと訊くと、いいと言うので二本頼んだ。私としては少し気になった。昔の美知恵の事はもう覚えていないが、ビールにしろお酒を飲んでいるのを見た記憶がない。

「お酒は大丈夫だよね」と一応訊いた。

「日本酒は飲まないけど、ビールなら少しぐらいは飲むわ」

「これから帰って、夕食の支度をするの?」

「もう終っているわよ。ちゃんと夕食を作って、上のがもう高校生だから自分でやるわ。部活で遅くなる日もあるけど、自分でやらせるようにしてるの」

「しっかり主婦している訳だ」

「あたり前でしょ。してないのは…」

「してないのは?」

「内緒」

 店員がビールを持って来た。美知恵が私のコップに注ぐ。

「なかなかいい手付きじゃない。家でも注いでやるの?」

「しないわ。だいたい家では飲まない人なの」

 私はビール瓶を受け取って美知恵のコップに注いだ。

「いいじゃない。家で飲むとだらだらと食事の時間が長くなって、片付かないから止めてほしいって、弟の嫁さんが言ってた」

「毎日外で飲んで帰ってくるぐらいなら家で飲んでほしいわ。中山さんは?」

「俺は少しは飲むよ。うちの女房も」

「いいわねぇ」

「君だって家で一緒に飲めばいいじゃないか。そうすりゃあ話もできる」

「うちの夫は駄目よ。私なんか家政婦のようにしか見てないから」

「そんな事ないだろ」

 美知恵と夫の佐藤信夫は大恋愛の末に結ばれたと聞いている。もう十五年も前の事だ。すぐ子供ができて、それからは二人で外出したのは実家に顔を出すぐらいしかなかった。それ程に外出する機会はなかった。子供が小学生の頃、子供会の行事で親も参加しなければいけない時でも、夫は仕事第一で出なかった。近所付き合いを積極的にしていた訳ではないが、同じ子供をもつ親同士では顔見知りになり、いい気分転換になったと言う。下の子供が中学生になると、そうした活動とも疎遠になった。世の中の動きから取り残されたような気がする。早く結婚した為に青春時代が余りに短かった。遊んだ時間も短かったような気がする。一人で家の中にいるとなんだか悔しくなってくる。子供が大きくなれば、自由になる時間が沢山できていいじゃないかと他人は言うが、その分私は年を取ってしまう。二十代はただじっと夫の帰りを待って、夫の生活のリズムに合せて生きていた。若い頃はお給料も少ないから、家族で出掛ける余裕なんてなかった。そりぁ楽しみが全くなかった訳ではない。小さい頃の子供は本当にかわいい。狭い家の中でも私がちょっと離れると泣きだして、私が必要とされているのが実感できる。中学生ともなると親離れと言うか、子供には子供の世界ができてくる。私は家の中に取り残されたままだ。

 処で、と私は思った。先程から美知恵が話しているのを聴いているのだが、私にどんな用があるのだろうか。ただ愚痴を聴かすために私を呼び出したのだろうか。それならそれでいいが、と美知恵の話に頷きながら聴いていた。

「中山さんは浮気したことあるかしら」

 といきなり私に言った。ないですよと言うと、まだ結婚したばかりなのよねと言い、

「でも、男の人って結婚したらすぐ浮気のことを考えるって本当かしら」

「それは、何を浮気って言うかだろうな」

 それもそうよねと言って、美知恵は夫の信夫が外で浮気をしているのではないかと言い出した。そんなことはないと打ち消して、どうしてそんなことを心配するのかと訊くと、そんな気がすのだと言う。本当のことは私には判らないが、女房が心配する程亭主は外ではもてない。心配する必要はないと一応は打ち消した。そんなに何時も忙しい訳ではないのに、夫は帰宅が遅い。だからきっと外で浮気をしているのだ。それは仕事熱心で仕事第一人間なのだと私は言った。そういう人は仕事がなくても上司や同僚が職場にいれば残っているし、上司や同僚に付き合いを誘われれば断れない。それだけ熱心に働いている。私は美知恵の夫がまさにそういう人間であるかのように言った。

「君たち家族のために一所懸命に働いているんじゃないか」

「そう思うのは男の人のエゴじやないかしら、結局は自分のしたいことをしてるのよ」

 美知恵は少し酔ってきたのかも知れない。あるいは心の中に何か満たされないものが有るのかも知れない。

「私、女に戻りたい」とぽつりと言った。

「……何を言ってるの、」

「中山さんの奥さんはお若いんでしょ」

 年は美知恵より三つ下だけど、日常生活では年のことなど気にしたことなどない。

「君だってまだ若いじゃないか。そんなに違わないよ」

「あら、上手ね」

 と言って美知恵は楽しそうに笑った。私は女に戻りたいと言う美知恵の言葉が気になっていた。どういう意味だろうか。子育てを終えて、と言うより子供に余り手が掛からなくなって、もっと自由になりたいと言うことだろうか。それとも夫婦生活がうまくいってなく、心に不満を抱いているのだろうか。

(続く)

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[「文学横浜」29号に掲載中]

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