窓の明かり


作  金田清志

 【その7】


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 私にとって山本の出現は降って湧いたようなものだが、倫子との関係ではいささかの変化もなかった。いや結婚後に初めて二人で共に対処したことで、より一体感が生まれたと言ってもいい。倫子は私の妻であり、私達は夫婦なのだ。山本がなんと言おうとよけいな事は考えない。もし私達がまだ結婚もせず恋愛中の仲だとしたら、山本を見る目も違っていただろう。倫子の心とは関係なく山本に対する対抗心が沸いていただろう。今は山本を冷めた目で見れる。

 倫子を思う気持に変りはないが、過去の一端に触れて改めて倫子を思った。私と出会う以前に恋愛した事はあっただろう。そうでなければおかしいと思いつつ、どの程度の恋愛をしたのかと知りたくなる。どんな男を熱愛したのかと。そんな事を知ってどうなるものでもないが…。

 美知恵に電話をしたのは取引先の会社でパート職員の募集があると聞いて、働きたいと言っていたのを思いだし、伝えたかったからだ。出掛ける機会があれば気分転換にもなるだろう。一度も働いた事がないのが気になるが、子供に手が掛からなくなったら外で働くのもいい。最も美知恵がなんと言うか判らないし、パート職員として採ってくれる保証はない。

 電話をすると美知恵が出た。

「有難う電話してくれて」と美知恵は言った。

 パートの仕事があると言うと、美知恵は興味を示した。どんな仕事なのか知りたいと言う。興味があるなら詳しく訊いてやると言うと、

「明日でもいいけど、今日でもいいわ。電話よりお会いしたいわ。ご迷惑でなかったら」

 と言った。そんなに家を空けてもいいのかと訊くと、家の事はちゃんとやってるし、子供がなんでも自分でするようになったから大丈夫だと言う。

「なんだか野中さんとデートするみたいだね」

 とわざと美知恵の旧姓で言うと、笑った。私はもう一度電話をすると言って切った。

 早速取引先に電話をして、パートの仕事内容その他について聞き出した。すぐ美知恵に連絡して会う約束をした。

 三度目に会った美知恵は、ますます若くなり、意識してなのか主婦らしさを消しているように思えた。私は仕事の内容を説明し、会社の所在地と連絡先を書いたメモを渡した。

「直接電話して自分で聞いた方がいい」と言うと、

「有難う、電話してみるわ。外で仕事がしたくて仕方がないの。一度でいいからOLっていうのをしてみたいのよ」

「そんなに楽じゃないよ」

「どんな事が大変なの」

「そりゃあ職場によって違うけど、色々大変な事がある」

「私に続けられるかしら」と心配そうに言った。

「大丈夫、最初は慣れるまでは大変だけど…。そんな事より、亭主はなんて言うだろ。外で働いてもいいって言ってるの」

「絶対そんなこと言わないわよ。私の事は全然関心がないから。あの人は会社の仕事だけ。会社から帰って来ても家で食事をないの、ここ何年も。あの人には会社が全てなのよ」

「そんな事ないだろ」

「そうよ、あの人は。中山さんも会社人間?」

「私は違うと思う。そんなに意味もなく会社に残ってないし…」

「あの人、課長なんですって。同期では一番最初だったって、家でも自慢して言うの。昔はそんなこと言わなかったのに、会社の役職にすごくこだわるの。もうすぐ部長になるんだって必死よ。聞いていて解るわ」

「凄い、優秀なんだね」と私。

「そうかしら。会社ではそうかも知れけど、どうなんですかね。男の人ってみんな役職にこだわるのかしら。そんなに出世したいのかしら」

「そういう人もいるけど、皆じゃない。でも亭主が出世すれば嬉しいだろう」

「それだけだったら淋しいでしょ」

「でも結果的に、家族の為になっているんじゃないか」

「それだけかしら」

「どういうこと?」

「エゴもあるわよ。本能的に出世の事しか頭にないのよ。権力欲が強いのよ。あいつは気にくわないから違う部署に廻すとか…。会社の話と言えばそんな話ばかり。自分がそんなだから会社を離れるのが恐いんじゃない。この前なんかお前は女房で、女じゃないって言うの。自信たっぷりに言うの、悔しいじゃない。毎晩遅いのも仕事上のお付き合いもあるんでしょうけど、それだけじゃないのよ」

「たまにはいいじゃないか。外で働いていれば色々なストレスがある」

「あら、ご免なさい。私の愚痴話になって」

 その喫茶店を出たのは八時近くだった。繁華街を駅に向かって歩きながら、美知恵が私の腕を取った。

「新婚の奥さんに見られたら大変ね」と言った。

「年も年だし、そういつまでも新婚気分じゃない」

 お互い年を取って結婚したためか、世間で言う程の新婚生活と言った実感は余り感じなかった。必要な家具電化製品もすべて揃っていたし、住宅にしても最初っから3LDKのマンションで、すぐ子供が出来ても十分な広さだった。共に働いているから金銭的にも余裕があった。言ってみれば別々に生活していた二人が共同生活をしている、そんな感じだった。

 美知恵に腕を組まれると私としても妙な気持になる。倫子に見られたらと言う思いも少しはあったが、このまま帰してはいけないような気持になった。

「もう帰らなければ遅くなる?」

 と言うと、何時かしらと美知恵は時計を見て、

「まだ平気よ」と言った。

「じゃあ少しビールでも飲む?」

 美知恵は迷って少しだけならと言った。

 飲屋へとも思ったが、これと言った店が思い浮かばず、かと言って探し廻る余裕もなかったので近くにあった店に入った。ビール一本づつぐらいで出る積もりだった。美知恵は遅くなっても平気だと言うが、私の方に遠慮がある。

 美知恵は店に入ると、おそる恐る店内を見ていた。

「こう言う処でお酒を飲むのね」

 と言って私に促されて空いていた席に座った。

「私は学生時代にはお酒なんて飲まなかったし、結婚してからも外でお酒なんか飲んだことないから、こういうお店に入るの初めて」

「ここは飲屋と言うより、食堂と半々かな」

 私は店員が持ってきたオシボリで手を拭きながら、ビール二本と摘みを適当に頼み、美知恵にも何か頼むように言った。美知恵はメニューを見て迷っていた。その間、店員はビールを取りに戻った。ビールが運ばれてきてもまだ迷っていたが、店員にこれにしてとメニューを指した。

「亭主と外に出掛けないの」と訊いた。

「結婚した当時はお給料も安かったし、子供が小さい時は大変なのよ。やっと子供に手が掛からなくなったら、もう私はおばさん扱い。それに仕事仕事で、働いてくれるのはいいけど、感謝しなければいけない事だけど、お給料も新婚当時と比べるとずっと良くなったのに…」

 私は美知恵の言葉を遮って言った。

「いいじゃないか。贅沢な悩みじゃないか」

「そうかしら」

「リストラって知ってる」

「ニュ−スで聞くし、うちの人も言うわ」

「そのリストラで職を失う人もいるし、会社でも仕事がなくなっちゃう人もいる」

「そうなんですってね」

「それに、亭主元気で留守がいい、って言うだろ。君の所はまさにそんな感じだろうが」

「中山さん、結婚してちゃんと奥さんを愛してらっしゃる」

「なんだ急に」

「結婚してからも同じように愛していらっしゃるの」

「当り前だろ」

「いいわね。奥さん幸せだわ」

「結婚してまだ一年経ってないんだよ。子供もいないし、君だって幸せじゃないか。もしそう思っていなかったら、間違いで、自分で幸せだと思えばいい。君は十分に幸せなんだから」

「そうかしら」

 私は美知恵のコップにビールを注ぎながら言った。

「亭主が浮気をしているとでも言うの」

「多分、してると思うわ。私の事をおばさんと言ってるんだから」

「おばさんと言われたぐらいで、そんな事ないって。君はまだ若くてきれいだよ」

「あら、山中さんてそんなことを言うようになったの」

 と生き返ったような表情をして美知恵が言った。

「私、二十歳で結婚して、恋愛したのも一回きり。普通は何回も経験するんでしょ」

「別に経験したからって、それがどうしたって感じだけど…」

「中山さんは経験豊富な方なの」

「豊富かどうかは…」

「前に恋愛した人の事は気になる?」

「思い出す、ぐらいかな」

「どういう時に」

「ぼけっとしている時とか、似ている人と出会った時とか…」

「奥さんの方もそうかしら」

「多分そうだと思うよ。ひょっとしたら俺より多いかもしれないな」

「気になる?」

「全然気にならない。そんなこと聴いたって、俺達の関係には全然関係ないじゃない」

「そうよね、もっと恋愛したかったな。これからでも遅くないかなぁ」

「おい、危ないこと言うなよ。そりゃあ不倫だぞ」

「だってうちの人は自分勝手なことばかりで、自分のやりたい放題。仕事か遊びか判りはしないわ。自分の趣味にはどんどんお金を使って、自分が稼いだんだからいいじゃないかって大威張り。それはちゃんとお金は入れてくれるけど、生活費に不足はないけど…」

 美知恵は夫以外の男と接する機会が少なかったに違いない。初めての恋愛で結婚し、子供が生まれてずっと狭い世間の中で生活している。子供が大きくなって手が掛からなくなり、ふと気づくと夫は自分とは違う世界の人のように感じた。少なくともそう思っている。

 私は美知恵の言う夫が、解るような気がする。私のいる会社にもそんな社員がいるような気がする。浮気をしているかどうかは兎も角、典型的な夫婦であるように思う。

 店に入って一時間近く経った。美知恵はまだ居てもいいような事を言ったが、私は店を出た。

「中山さんって優しいのね」と美知恵は言い、私の腕を取った。

「恋愛したいな。嘘でもいいから…、私を抱き締めてくれる人いないかな。私みたいなおばさんじゃいや?」

「おい、あぶねえなぁ。俺は新婚だぜ」

 美知恵はふふっと笑った。

(続く)

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[「文学横浜」29号に掲載中]

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