俎板の上の恋


作  金田清志

 【その7】


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 結婚式まであと二週間と数日となった。日出子によればアパート探しを除けばもう準備万端、後は当日俎板の上の鯉になるのみだった。アパートも心積もりの物件が見つかり、念のために今度の日曜日に私に見てもらい、それで決めたいと言う。駅から歩いて十分以内だと言うから、私にはそれ以外に強く主張する事はなく、もう決まったようなものだ。

 前日、日出子の友人の君枝夫婦と会い、そして今日は私の友達と会う手筈になっていた。昨日と続けて人と会う事になるが、お互いの友人同士でもあり、結婚式でスピーチを頼む手前、是非紹介しておきたかった。

 日出子は私が愛した女には違いないが、心の中に萌した『この女とやっていけるだろうか』と言う思いは依然私の心の中にある。無論私が愛した女は日出子だけではない。日出子と一緒になるのは私がプロポーズして、受けてくれたからに違いない。どうしてプロポーズしたかと言うと、今になって振り返っても意味のない事だが、或いは激情からなのかも知れない。私を刺激したのは日出子への欲情であり、表面的な華やかさであり、取り分け日出子を取り巻く男達に対する対抗心だったのかも知れない。そうした事が私を日出子に夢中にさせたのは確かだ。一方、表面的な華やかさに対する危惧が当初からあった事も事実だ。夢中になっていた頃はそんな事は忘れていたが、日出子の躰を知り、取り巻く男達の憂いがなくなった今、私は初めて日出子と向き合うことが出来る。

 友達と逢う前に一度日出子と待ち合わせて、それから友人との待合せ場所にいく積もりだった。三人の友達のうち田中は出張中で、高橋と木戸と逢う事になっていた。

 日出子とは六時に待ち合わせる事になっていたから、三十分前に会社を出れば間に合う。私はその積もりで五時を過ぎた頃から時間を気にしながら出る準備をしていた。同僚の山田が今日もデートかとひやかすように言った。

 日出子から電話が掛かってきたのはそんな時だった。

「私、今日は行きたくないわ」

 と出るなり言った。

「どうして」

「だって今日は忙しくて、それに昨日はよく寝られなかったの。髪もバサバサだしお化粧ののりもよくないからこんな恰好じゃみっともなくて…」

「そんな気をつかうことない、大丈夫だよ」

「駄目。それに私とっても疲れているの。だから勘弁して」

「そんな急に…。友達に紹介するって言ってあるから…、出て来れないかなぁ」

 私は説得するように言った。

「駄目。今日はそんな気になれないわ。もうくたびれちゃって、あなたの代わりに式場に行って衣装のチェックをしたり毎日忙しいのよ。だから一人で行って。お友達には宜しく言っといてね」

「しょうがねぇな…」

 私は電話を切った。

 日出子が疲れていると言うのは本当かも知れない。しかし出て来れない程疲れているのか私には合点がいかなかった。私の友達とはいえ知らない人と会うのは気が進まないのか。考えたくはないが、私の友達を軽視しているのだとしたら、いやそんな事はない。ただ疲れていただけなのだろう、と自分に言い聞かせた。

 高橋と木戸との待合せ場所は駅の中にあるコーヒーショップだった。中に座れる場所もあり、コーヒーを飲みながら待っていられる。彼等と会う時はそこが待合せ場所となる。

 私が行くと二人はいた。

「悪い、申し訳ない。急に用事が出来て来られなくなったんだ」

 私は会うなり言った。色々理由を考えてみたが結局そう言った。

「なーんだ、どんな女か見てやろうと思ったのに、」と独身の木戸。

「この時期は色々と忙しいんだよ」と高橋。

「ご免、ご免。宜しくって言われた」

「残念だけど、しょうがねぇな。福島と会うのも多分独身では最後になるな」と木戸。

「まあ、そうだろう」と私。

 私達はそこを出た。日出子がいる事を考えて、行く店を想定していたが、男同士のいつものメンバーになると自然足は飲屋街に向う。

 高橋が結婚した時は、結婚式の前に田中も含めて五人で会った事がある。確か式の一月ぐらい前だった。その時の事を何故か思い出した。初対面の私達に気を遣いながら、高橋に寄り添うようにしていた婚約者の姿を思い出す。あれから二年経った。高橋の自宅に電話すると、

「あらしばらくです。お元気ですか」と言われて挨拶の苦手な私はしどろもどろに応える。

「ちょっとお待ちください。今主人に代わります」

 高橋は独り者ではないのだと私は改めて思う。

 立ち寄った店は学生時代から何度か入った事のある飲屋だった。繁華街の外れにあるこじんまりとした店で、店員のおばさんとも顔馴染みだった。日によっては座れない事もあるが、その日は空いていた。

「お前、あの女とはどうなったの?」

 とビールで喉を潤して木戸が言った。あの女とは村田友紀の事だ。木戸は私が友紀と付き合っていた事を知っている。

「もうとっくに切れちゃってる。何処にいるのか連絡もしてない」

「振られたのか? それとも…、いやお前が振るって言う事は考えられないから」

「そんな事はいいじゃねぇか」

「過去の女をいい加減にしておくと、後々問題になるぞ」

 と木戸は私を脅すように言った。

「そんな、問題になるような事はしてねぇよ。お前にその気があるなら連絡を取ろうか。そろそろ考えた方がいい。ずっと一人でいる積もりじゃないんだろ。早く一人前になれよ」

「こいつ、自分が結婚するんで、」

 木戸と私は笑い合った。

「過去の女の事はスピーチでは絶対に言うなよ」

 と高橋が言った。

「言わない言わない。二人でソープランドに行った事も言わないから…」と木戸。

「おいおい、そんな事を言うと福島の顔が引き攣って来たぞ」と高橋。

 私はにやにや笑いながら聞いていた。事実であり、木戸と共有している秘事の一つには違いない。何れそんな事も日出子の前で笑いながら話す日も来るかも知れないが、今は友達同士で話して、酒のつまみにするのみだ。

「もう何は済ませたんだろ」

 と木戸は私が日出子ともうセックスしたかと訊いた。二十代の頃は男同士で集まって飲むと、そう言う話題ばかりではないが、真偽こもごも盛り上がったものだ。

「そんなのどうだっていいだろ」と私。

「待ち切れないだろうな」

 と高橋もからかうように言った。

「そういう事はノーコメント」と私。

「処女だった?」と木戸。

「知らない知らない」

「やっぱり、もうしたじゃねえか」

「お前は付き合っている女はいるの。もしいないなら会社の女を紹介しようか」

 私は話題を変えようと木戸に言った。

「若い女?」

「自分の年も考えろよ。余り年が離れていると大変だぞ」

「俺はやっぱり若い女がいいな。ピチピチした女が…」

「そういう事じゃ当分だめだ。おじさんは相手にされないよ。うちの会社に三十前の女なら何人かいるから、今度紹介しようか?」

「美人?」

「普通以上だと思う。だけどそんな見た目だけで判断すると、後で後悔するぞ」

「それは、お前の事じゃないの?」

「いや、おれのはそんなに美人じゃないから…、」

 と私は言葉を濁した。

「こう言う事は高橋に聞いた方がいい。少なくとも俺達より経験があるから」

「そりゃあ気立てのいい女がいい。俺なんか家ではもう女房に頭が上がらない。もう参っちゃうぜ」

 と高橋が言った。その言い方がおかしかったので木戸と私は思わず笑った。結婚する前に逢った、無口でか弱そうな印象だった高橋の女房の事を思い出した。結婚した男なら誰でも経験する事かも知れない。女も一人でいた時と変るのが当り前なのだ。

 二時間近くそこにいただろうか、そこを出た。木戸がもう一軒行こうと誘ったが、高橋が帰ると言うので私も帰る事にした。木戸は独身最後だからと、しきりに私をからかって誘った。最後までつき合いたい気持もあったが私は断った。このところ人と会う事が多く、少々疲れていたのだ。木戸とは独身同士で、悪い事も含めて色々と思い出がある。

 アパートへ帰る道筋、もう今更後戻りは出来ない、と私は改めて思った。二人の前では言えなかった事だが、日出子との結婚式が近づくにつれて、これでいいのかと言う気持と、もうレールに乗ったのだと言う気持が複雑に絡み合う。止めようと考えた事もあった。さすがに今はそう思わないが、複雑な心境なのは確かだ。他人に言えば、男のくせに女々しいと言われるかも知れない。男が一度惚れた以上、とことん惚れ抜けと言われるかも知れない。高橋や田中の場合はどうだっただろう。やはり私と同じような思いはあっただろうか。それともそんな思いより新しい生活への期待感の方が強かっただろうか。日出子はどう思っているだろう。

 その日の夜、恐ろしい夢を見た。私は一人結婚式場の新朗席に座っている。私の隣の新婦席には誰もいない。式は始まろうとしているのに空席のままだ。式場に集まった人達がそれに気付いてざわざわと囁きあっている。見ると新婦側の席から一人また一人と席を立って出ていく人がいる。見る見るその人数が多くなり、気付くと派手な衣装をまとった私一人がぽつんと座っている。そこでぱっと目覚めた。なんと目覚めの悪い夢なんだ。

(続く)

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[「文学横浜」30号に掲載中]

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