俎板の上の恋


作  金田清志

 【その8】


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 日曜日、午前中にアパートを見て、午後は日出子の出入りしているヨット同好会に行くことになっていた。アパートの方は見るのは初めてだが、既に手付金は収めて家具の一部も入れてある。私が持って行くものは衣類を除けばたいしたものはなく、日出子の好みの電化製品や茶箪笥等が入る事になっていた。もっとも私の使っていた物は、冷蔵庫を除けばどれも安物だった。これを機会に必要な物以外は全て廃棄する事にした。

 アパートを見るのは車で行くより電車を利用して、駅から実際に歩いてみた方がいいのだが、その後に出掛ける都合で車で行く事にした。日出子の実家近くまで車で行き、そこに車を駐めておく。日出子とはそこで落ち合う事になっていた。日出子の実家に寄ってもいいのだが、まだ結婚前で寄りづらい事もあるが、両親と顔を合わすだろうし、そうなると挨拶をしなければならないし、と面倒になったのだ。日出子はそんな事はいいのよと言うが、私としてはそうはいかない。かと言って近くまで行って寄らないのは、それも失礼になる。成り行きによっては寄る事になるだろうなと思いつつ出掛けた。

 アパートの下見は形だけだから私にはどうという事はないが、日出子が出入りしているヨット同好会に顔見せに行くのは気が重い。日出子がどの程度熱心に参加していたのかは判らない。私はヨットなどに縁がなかったから、どんな人達がいるのかさえ想像できなかった。海に浮ぶヨットを岸から眺めた事はある。優雅でいいなぁと思ったが、自分が乗りたいとは思わなかった。私には皆目見当つかない世界のように思う。知っている人も誰一人いないだろう。日出子にしてみれば結婚相手を仲間に紹介しておきたいのだ。会社で知っていた日出子とは違った人間関係があるのだろうか。

 アパートの下見で予期しなかった事は、日出子の母親が出てきた事だった。考えてみれば、実家が近くなら親としてはじっとして居られないのだろう。アパート捜しにしても、どうやら母親が捜し出した物件のようだ。

「駅からそんなに遠くないし、環境も静かだし、家賃だってここの家主さんは知っている方だから安くして貰ったのよ」

 と日出子の母親はまるで自分の事のように言った。

 2DKの間取りで、中は綺麗になっていた。日出子が掃除をしたと言うが、母親が来て掃除をしたという口振りだった。家具類も届いていて、炊事道具を用意すればもう移り住める。上下3棟づつの2階の一番奥の物件だった。

「ここから早く出られるようにしなくちゃね」

 と日出子の母親が言った。日出子は姉妹の長女だから、妹が結婚したら、との予感がする。私は長男だが、両親は豊橋にいる。将来こちらに出てくる可能性はないが、長男としての心積もりはある。もし日出子が近くにいる両親との同居を言い出したら、その時はその時だ。これまでそんな話は一度もした事はないが、そんな事を考えたら結婚など出来ない。結婚する前にそういう話はしておくものだと、私の両親は言っていたがついぞそんな話はしなかった。

 もともと私に物件についての意見はなく、これから私の持物を移す事にして、日出子の母親に言われて家主さんへの挨拶も済ませた。後は母親に任せて私と日出子は慌ただしく車に乗り込んだ。ヨットのクラブハウスまでは、道路の込み具合では時間が掛かるかも知れない。二時頃までには行きたいという。

 私はハンドルを握って、日出子の言う通りに車を走らせた。時折自分で車を運転して行くと言うだけあって指示は的確だった。

 十二時近く、何処かで食事をしたいと思って日出子に言うと、寄りたい店があると言う。それならばと海沿いの道を走る。海沿いの道に出てから車が多くなり、時折渋滞に巻き込まれた。有料道路を利用して行く事もできるが、距離の割りにはお金がかかるので余り利用しないと言う。目指すクラブハウスは三浦半島の観音崎近くだと言う。

 日出子が寄りたいと言っていたお店は海沿いの国道に面した場所にあった。チェーン店の外食産業ではなく、車が五台しか駐まれないラーメン屋だった。オーナーとは知り合いだと言う。

 店に入ると、カウンターの中にいたオーナーらしき男が、おゃ、という顔つきで私をみた。

「今日は」と日出子。

「今日はお連れさんと?」と男。

「紹介するわ。福島さんです。今度結婚する事になりました」

「それは、お目出とう。日出ちゃんはどんな人と結婚するのかと思っていたけど、良い人を捉まえたね」

 男はさも驚いたと言った表情をして言った。その動作から日出子とは親しい関係だと判る。私には初めての店で、何も聴いていなかったからオーナーとはどんな関係なのか判らない。

「ありがとう。だけどそれってどういう意味なのよ」

 と日出子が応えた。

「いきなりこんないい男を連れてくるから、びっくり」

「まぁ、よく言うわね」

 こんな時の常套句なのだが、私はちょっぴり気恥ずかしかった。

「福島さん、河合さんて言うの。ここの奥さんとは知り合いなのよ」

「福島です、宜しく」と私は言った。

「河合です。今うちのは妊娠してて…」

「そうなんですってね。彼女、もうお腹は大きくなったでしょ」

「だいぶ目立つようになって、ひいひい言ってる。まるで女相撲の関取みたいだ」

「悪いわ、そんなことを言ったら。誰が原因でそうなったの」と日出子。

「誰だろうな」と男は笑った。とても嬉しそうな顔をしていた。

 食事を済ませてそこを出たのは一時過ぎだった。日出子と河合は初めのうちは色々話していたが、別の客がきた関係で私達から離れた。日出子との話でも、女房がお産で当分お店に出られないからパートを捜しているが、適当な人がいないので一人でするしかないと言っていた。日出ちゃんが会社を辞めたと聴いて、少し当てにしていたとも言った。落着いて時間を持て余すようになったら雇ってもらいたい、と日出子は本心かどうか言った。いいわよねぇ、といきなり訊かれて私は笑いながら頷いた。

 河合の女房とは高校時代からの友人で、本当は彼女に一番に会ってほしかったと言った。お互いに一人の頃は旅行やスキーにも二人で行ったと言う。日出子がヨットクラブに出入りするようになったのも彼女から誘われたのだし、河合もそのヨットクラブに出入りしていて、そこで知り合ったのだと。今のお店を出したのは二年前で、それまではサラリーマンをしていたと言う。

 昼食に時間を取られて、目的地に着いたのは三時近くだった。近くの駐車場はきっと満杯だからと、日出子の言うままに国道の海とは反対側の路地道に入った。少し行くと道が広くなっていて、両脇に車が置かれている。その中の空いていたスペースを見つけて車を入れた。土地の者にしか分からない場所で、駐車場が満杯の時はここに停めるのだという。しかし夏場のシーズンになるとそこにも停めるスペースがなくなると言う。

 なんとなく妙な気分だった。これから私は日出子の婚約者として、私の知らない人達の中に身を曝すことになる。これは日出子と結婚するための儀式のようなものだ。日出子がどんな処に出入りしていたか、これからも出入りするかも知れない場所や人々を私に知ってもらいたいのだ。私にも関心はあるが、過去の事は知りたくない気持もある。ひょっとしたら付き合っていた男がいるかも知れないし、男が圧倒的に多い場所で日出子がどんな立場だったか想像できる。ちやほやされていたに違いない。心を寄せていた男もいるかも知れない。もし付き合っていた男がいたとしても、それは当然だ。当り前だと思う。と頭の中では理解できても、実際にそんな男と逢うかも知れないとなると、逢いたくない。わざわざ逢う必要はないではないか。過去の、私の知らない処で何があったとしても、例えどんな付き合いをしていたとしても、知らないで済む。顔が見えないから知らないでいられる。しかし私を連れて来る程だから、何も隠すような事はないと言っているようにも取れる。私を連れて来たのは婚約者として紹介したいのだ。ただそれだけなのだ。私は不安を抱きつつ、何処にでも行ってやるとの思いで歩いた。

 一旦国道に出て、さらに海側の路地に入って、人家の間をしばらく歩いていくと海岸に出た。遠くの砂浜にヨットが見える。そちらに向かって海岸を歩いて行く。だんだん大きくなって人の顔もはっきりしてきた。男達はヨットのセールを畳んだりマストを外していた。別の処では墨火が炊かれて、どうやら宴会の準備をしているようだ。

 私達に気付いているのに、マストをはずそうとしていた男はそ知らぬ風に作業を続けている。

「前沢さん! 遅い遅い」

 とハウスの中から宴会の準備をしていた男が言った。

「ご免なさい」と日出子は言って私を促しクラブハウスの方へ向かった。中に三人の男女がいて、そのうちの男の方に挨拶した。

「お久し振り。山田さん久し振りじゃない?」

 と日出子が言った。

「時々来てるよ。前沢さんの方が久し振りなんじゃない」

「そうかもね。このところご無沙汰だから」

 山田はちらっと私を見て、

「友達と?」と訊いた。

「福島さんです。婚約者です」

「え! そうなんだ。それはそれはお目出とう。よかったじゃない」

「有難う」

「前沢さんもついに結婚するか、」

「それってどういう意味よ」

 男は、はははと笑い、日出子も嬉しそうに笑った。ヨットの置かれている岩の出ている砂場では、二人掛かりでセールを畳んでいる人や七輪に炭火を起こしている男女もいた。ハウス内で宴会の準備をしている人達を合わせても二十数人ぐらいだろうか。女性は五人で、その内の一人とは顔見知りらしく、日出子は会うなり二人で何か話し出した。

(続く)

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[「文学横浜」30号に掲載中]

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