曲がり屋のある家


作  こいけ 志穂

 【その4】


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 父が亡くなって五十日目の朝が来た。カーテンの隙間から洩れる陽が、障子を柔らかく照らしている。風があるのかその光は小刻みに変化している。薄暗くなったかとおもうと、急に明るくなり、まるで音楽を奏でているようである。枕元に置いた腕時計が、六時五十分を指していた。繭子は上半身を起こした。姉の蒲団はすでにたたまれて、部屋の隅に重ねられてある。

 着替えを済ませ、居間に行き台所を覗いた。すでにテーブルの上に二人分の茶碗と箸が用意され、小鉢に漬物が盛られてあった。こんろの鍋は味噌汁なのか、大根の匂いがした。繭子は勝手口を開け庭に出た。かなり霧が出ていた。その霧が今は納屋になっている曲がり屋の家を柔らかく包んでいる。姉は何処に行ったのだろう。納屋の裏にある畑にでもいるのだろうかと思い、彼女は納屋に近づいた。遠くから見ているだけで、今まで近づくことのなかった納屋の辺りは、霧のせいかひんやりと冷たかった。霧が動くと、建物が異様に左に傾いているのが見えた。手を加えなかった柱の傷みが進んでいるのだろう。表に積んである竹が、かろうじて納屋を支えている状態だった。この家で暮らしたことのない繭子にとって、曲がり屋は納屋でしかなかった。父が畑に行くための道具が仕舞ってある所。収穫した物を一時期置いておく所。

 幼い頃、暮れかけた庭の先に見える納屋は、無気味な感じさえした。こうして表から覗いてみても、厳格な祖父と母の生活を感じさせるものは何もない。姉とちがい自分には母への記憶がないからだろう。ただ漠然とした想像だけが繭子の心の中に広がった。

 湿った土を踏みながら、繭子は納屋の裏に進んだ。ざくろの枝が延びて、茅葺き屋根にトンネルのように垂れ下がっていた。畑に行くための、道らしい道は無く、朝露に濡れた草が、満遍なくはびこっている。繭子はつま先で草をはらい除けるように前に進んだ。霧が動いているのが見える。その霧の向こうに、赤い布のような物が流れたかとおもうと、次の瞬間すっと消えていった。

「幸恵姉さん?」

 囁くように呼んではみたが返事はなかった。納屋の板張りの裂け目から陽が斜めに差し、その光が霧を掻き分けていくのが見えた。白いなだらかな霧は、太陽に吸い込まれるように消えていった。途切れた霧の向こうに、幸恵が立っているのが見えた。赤い布に見えたのは幸恵のセーターだった。土を小高く積み上げた上に、三十センチ四方の平らな石が乗っている。彼女はその横に数本の花を持ちながら立っていた。石は露に濡れたのか所々黒ずんでいる。湯飲み茶碗のようなものに、白い花が生けられてある。墓のようにも見えた。

「なあにそれ?」

 亡くなった動物の墓だろうか、黙って立っている姉に近づき、繭子は足もとを覗きこんだ。そして小さくあっと声をあげた。 

「私がこれを見つけたのは十六歳の時だった。ざくろの枝が生い茂って、実をたくさん付けていたの。草が延びていてじめじめしていたわ。畑に行くときは父が均した向こうの道しか通らなかった。なぜかあの日だけはこっちを通ってみたくて入っていったの。今日のように白い花が揺れていたわ。すぐに母の墓だって分かった。先祖の墓は大久保にあったから、多分父は分骨をして毎日母に会いたかったのね」

 芳江という文字は、石に吸い込まれそうに消えかけていた。

「繭子こっちに来て」

 姉が墓の後側に行ったので、繭子も姉に従い背後からのぞき込んだ。芳江の墓と書かれた裏側に、村井とだけ書いてある。

「村井」

 そう呟いて繭子は凍りついた。

「でも、なぜ」

「そうね」

 繭子の疑問が分かったのか、姉は優しく言葉を遮った。

「墓のことは叔父にも話してないわ。これを見て、こっちの文字ははっきりしているでしょ、後から書き足したんだわ」

 かつて母が愛した男の墓が、何故ここにあるのだろう。背中合わせに書かれた文字が何を意味するのかは、繭子には分からない。

「村井さんが亡くなった年に父は東京へ行ってるの。私が観光センターの慰安旅行で二日ほど家を空けたことがあった。繭子の修学旅行と重なった日よ。会津駅で父を見かけた人がいたから。私が帰ってきた日に、父は何もなかったように家にいたの。でも冷蔵庫に作っておいた料理がそのまま入っていたので、おかしいとは思ったんだけど」

 分骨した母と村井の墓。父はあの世で、二人を一緒にしてあげようという気持ちだったのだろうか。しかし夫婦の墓にしては不自然だった。もしそうならば、芳江の側に相手の名前を書くはずである。

「この墓石は、父が前にいた陶磁器工場で焼いた物なの。なぜこの家にあるのか分からないけど、たぶん婿に入ったときに持ってきたのね」

 よく見ると土をこね、素焼きしたものに、文字を彫ったものだった。所々に大きくひびが入っている。父は自分が焼いた土に芳江と文字を刻んだ。毎日畑に行くたび、いや、母に会うために畑に通ったのかも知れない。

「二度目にここに来たのは二十三歳の時だった。縁談の話があって母の墓前に手を合わせたの。裏に回ったのは偶然だった。村井という名前に見覚えはなかった。長女だから家を継がなければと思っていたし、当然父もそうだろうと思ったわ。でも嫁に行けと言われた。墓のことを父に確かめたかったけれど、怖くて聞けなかった。叔父から母の過去を聞いたのはその頃だったの」

 村井の墓に積もった枯れ葉を手で払うと、幸恵は持っていた花を供えた。繭子の視界に、眠っていた墓が急に目覚めたように見えた。

「母が危篤の時に、父は男の人を連れてきたの。その人が村井さんだったのね。当時私は小学生だったから、その時は親戚の人だと思ったの。叔父は父のことを人が良すぎると言ったけど、それは父の優しさだったのよ。事はそれで済むはずだった。ところが手術が始まって、看護婦さんが保存の血だけでは足りないと言うので、輸血することになったの。結局あげれたのは村井さんだけだった。父は何もしてやれんで、自分が情けないって叔父に話したそうよ。あの頃からお父ちゃん、人が変わったように無口になって、何を考えているのか分からなくなったって言ってた」

 やはりという思いだった。繭子が十五年ぶりに立ち寄った駅でふと、足を止め見たポスターは、偶然ではなかった。

「以前、役場の人が曲がり屋の家を観光のルートにしたいと言ってきたらしいの。その場で父は断ったそうよ。業者が入れば墓のことが明るみになるもの。病院で父の血が拒絶され、村井さんの血が使われた。目の前でかつて愛した男の血が妻の体に入っていくのを見て、村井さんを憎んだとしたら。だからこんな墓まで建てたのよ」

 あの日から父は変わってしまった、と言った幸恵の声は掠れていた。悲しみをたくさん飲み込んだ声だった。

 夢街道に拘わってきたのは、村井に会わせたくなかった父の思いだった。それは母の過去を封じようとする姉妹への愛情の裏に、村井への激しい憎悪があった。繭子はもう一度墓を見た。芳江という文字に対して、村井という字は大きく跳ね上がっている。じっと文字を見ていると、復讐という叫びが地の底を這い上がってくるようであった。村井の死後、父は東京へ行き、母の墓に村井の遺骨を埋葬した。それは表向きで本当の父の心は、背中合わせに文字を刻むこと。あの世で二人が結ばれないようにと。繭子はあらためて墓を見つめた。二つの骨壺は決して触れないように埋葬してあるはずであった。それがどういう状態なのか想像するのが怖かった。

「私がこの家を出ようと思ったのはその時だった。父は優しい人だったけれど、あの時の父は許せなかった。人を憎んで生きたくはないもの。でも私だって家族を守るためだったら鬼になるかも知れない」

 一瞬繭子は息を飲んだ。真彦の妻の立場が幸恵なのだと思った。細波が小さな波紋を繰返している間に、多くの人の心までも波立たせるところであった。真彦と別れる勇気がなかったばかりに。

「繭子」

「なあに」

「曲がり屋の家は壊しましょう。悲しい想いでが多すぎるもの。それから貴女に、墓を一つにしてほしいの」

 一つと言った幸恵の顔はとても奇麗だった。

(続く)

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[「文学横浜」30号に掲載中]

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