忍び駒


作  七浦とし子

 【その2】


戻る次ぎへ


 知香は結婚してじきに夫に病死された。子どももできないうちのことで、悲しみの実感さえもてない早すぎる未亡人になった。

 贅沢をしなければ経済的には困らなかったとはいえ、生涯を共に過ごすつもりだった相手に先立たれたのは、若い身には辛かった。でも若いだけに、泣き暮らすばかりでなく一人で生きる気力ももてた。

 元々、気性が前向きで陰にこもっていたくない知香だったから、夫の死という現実からを早く離れたかったし、とにかく何とかしなければと先のことを考えた。

 たまたま家の近くに、民謡三味線の稽古場を構えている家元がいた。知香の実家の母親も三味線を手にする人で、門前の小僧の手習いで聞いて馴染んだ覚えがあるから、その家元に三味線を習いはじめた。

 気を紛らわせる意味もあってはじめた三味線だったのが、思いがけず時をわすれて稽古にうち込むようになり、間もなく家元に推されて師範の看板をとるまでになった。

 民謡界ではかなり年若い師範だったが、自宅に看板を揚げてみたら弟子入りを申し出る者が何人かいて、今では日に二、三人が稽古に通ってくる。

 芸事を習う以上は稽古は本気でしてくださいと、どの弟子にも厳しくいっている。弟子たちはそれに逆らうことなく熱心に通ってくれる。そんな毎日は女独りのわびしさを忘れさせてくれたし、張りをもたせてくれた。

 弟子をもっても家元のところへ稽古には通う。新しい曲や難しい曲には家元じきじきの指導が必要になる。その家元の稽古場に、本間がよく顔を見せていたのだった。

 全体に年齢のいった者の多い民謡仲間の中で、知香と本間は共に四十代で若い。気取らず口に裏のない本間とのおしゃべりはいつもはずんで、いつの頃からか「お知香さん」「裕さん」とよび合う仲になった。

 家元のところや演奏の場で知香の姿を見つけると、本間は「よぉ」と気軽に声をかけてくる。席をとるなら知香の隣りにすわるし、何かにつけて知香と肩を並べる。気のおけないそんな付き合いが知香はけっこう気に入っている。

 お互いに立ち入ったことは話さないが、本間には妻子があるにはあり、何か事情があって今は別に暮らしているという。

 彼が独り暮らしであることと、自分が独り身であることは単なる偶然にすぎないと、知香は自分に言い聞かせている。女の多い民謡仲間のことだから、二人の仲はよく噂さになる。一時はそれを意識して、忘れかけていた自分が女であることを思い返したこともあったけれども、いい年齢をしてと胸のうちにしまいこんだものだった。

 そんな本間が、突然に知香のところへ三味線を習いにくるという。三味線の師匠なら他にいくらでもいる。知香の家元だって本間には肩を並べることを許しているくらいだから、なろうと思えば直弟子にだってなれる。それをわざわざ知香を選んできたところが、知香には何とも面はゆかった。

 それでもとりあえず、本間の稽古日は土曜日と決めた。土曜日は六時と七時に続けて弟子が来る。その後の時間をあてた。

 稽古の時間はいつもきちんと守るようにしている。どの弟子も仕事や家事の時間をやりくりしてやってくるのだから、勝手に遅らせたり延ばしたりはできない。

 土曜日の弟子も、八時ちょうどに終わって帰した。送り出して部屋に戻るのと同時に、格子戸があいた。

 「やぁ、いいかな」

 聞き慣れた声が、少しばかり遠慮がちに聞こえた。

 「いいも何も、お稽古なんだから大いばり でどうぞ」

 今日は朝から本間の来るのを意識していたものだから、それをごまかそうと妙に威勢のよい声がでた。

 「おや珍しいこと、舞台でもないのに和服 だなんて」

 庭から上がり口に近づいた本間は、紺染めの紬姿だった。

 「何しろはじめての稽古だから、気分をだ して参上したつもりだ」

 本間の和服姿は舞台では見慣れている。なかなか粋でいつも目をひかれるけれども、羽織もゆったりと着こなした紬も男らしくて、よく似合っている。

 「まぁ、それはどうも」

 笑っていいながら稽古用の座布団をすすめた。どこかぎこちないのは知香だけではないらしく、本間も少し照れくさそうに知香の前に正座した。

 本間との付き合いは知香が師範となった頃からで、短くはない。しかし改まって二人きりで向かい合うといったことはなかった、周囲に誰かしら人がいて、その中で気がつくと肩を並べていた。居なくてもどうということはないと知香は思うのだが、居ないと傍らに妙に隙間を感じるのはどういうわけだったか。ただ本間はいつも深い静かな目をしていて、その目でひょいとこちらを見られて、一瞬そわそわと目のやり場に困ったりはした。

 そんな本間と二人きりで向かい合うと、やはり知香は落ち着きをなくした。部屋がいやに静かで、空気まで重く思える。ただの稽古じゃないかとあわてて自分にいい聞かせて、背筋をのばした。三味線を膝にかまえると、さすがに身についた世界に戻って気持ちがひき締まる。

 三味線はまず構え方とばちのもち方をしっかりと決める。これが入門の第一歩となる。構え方がくずれていてはつぼを正確に押さえられないし、ばちもしっかりと糸をはじいてくれない。

 本間はいつも演奏の場で知香や他の三味線弾きの手元を見ているせいか、かまえ方もばちの持ち方もすっかり板についていた。それに彼は尺八吹きだから、唄をよく知っている。唄の節回しが頭にはいっていれば三味線も覚えやすい。

 「裕さん、格好だけはお師範並みだわね」 じっさい和服で三味線をかまえた本間には、何ともいえない風情があった。それにはじめての稽古で曲の半分近くまでついてきたのも、知香を感心させた。

 「そうかね、しかしなかなか難しいもんだ」 「この調子で一、二曲覚えれば、あとは勘 で指が動くようになりますよ」

 「そうなってくれればいいが」

 それにしても正座が難儀だと本間は苦笑をした。肩肘はらない本間の様子が知香には嬉しく、我れにもなく胸がはずんだ。

 「とりあえず今日はこれまで。まぁ気楽に やってくださいな」

 「お手やわらかに願いましょう」

 満足そうに言って本間は帰っていった。格子戸から送り出して戻ると、庭に落ちていたらしい紅い椿の花がひとつ、部屋の上がり口にぽつんとおいてあった。

(続く)

忍び駒( 戻る次ぎへ
[「文学横浜」23号に掲載中]

ご感想・ご意見など、E-mailはこちらへ。

禁、無断転載。著作権はすべて作者のものです。
(C) Copyright 2000 文学横浜