忍び駒
作 七浦とし子
【その3】
本間はそう口数の多い方ではない。周囲でにぎやかに話しがはずんでいてもそれに軽く相づちをうつくらいで、大抵はのんびりと聞いている。それなのに彼の回りには何となく人が集まる。とびきり話しをはずませるわけでもないのに、そんなふうに人を寄せつけるところが本間にはあった。 知香の家元にしても、自分よりずっと年齢の若い本間を芸事のしきたり抜きにして肩を並べることを許している。本間は弟子というものをもたず、自分の尺八ひとつを楽しんでいる男だから、そんな一匹狼のような存在が家元の気に入ったらしい。演奏の場に尺八がほしい時はまず本間に声をかけるし、何かにつけて本間をよぶ。そうした場所で顔を合わせることから、知香との付き合いも始まったのだった。 付き合いといっても特別な仲といえるものではない。本間はどんなに知香に心を開いても、女の部分には踏み込んでこないのが知香には分かっている。だから知香もそうしている。それで満足しているし居心地もよいと思う。でもその反面で、時にはもの足りないと思うこともある。いくら男女の意識をもたないといっても、やはり二人が男と女なのは事実なのだから。 そんな知香にとって、本間が毎週三味線を習いに通ってくるのはとにかく楽しみだった。 土曜日の稽古の日には、八時までの弟子が帰るのと入れちがいに本間はやって来た。格子戸をあけていつもの調子で「やぁ」と声をかけて来る。はじめのうちはその声の聞こえる瞬間まで、知香は子どものようにそわそわした。でも稽古にはいればさすがに気を取り直して三味線を構え、ばちを握った。 本間の方は稽古にけっこう真剣で、知香の指使いに倣って無心に曲の一くだりまでついてくる。そしてうん、なるほどとひとり満足そうにつぶやいたりする。仲間うちでは飄々として折れず譲らずの男として知られている本間のそんな姿が、知香には何ともいえずおかしく、楽しくもあった。 * 知香の家元の率いる民謡会では、年に一回おさらい会というのを開く。家元の直弟子から孫弟子まで全門下生の中である程度の稽古を積んだ者が舞台に立つ演奏会で、歌い手にはプロの歌手も出演する。今年もそれが近づいていた。 「再来月はうちのおさらい会だわね」 稽古を終えて三味線をしまいながら、知香はその話しをした。 「またお座敷がかかるだろうか」 「そりゃそうですよ、うちの家元は何といったって裕さんが頼りなんですから」 「そんなもんでもないが」 民謡には三味線と尺八の伴奏で唄うものと、尺八だけで唄う長ものとがある。いずれも尺八はなくてはならない鳴り物で、本間は家元の演奏の場に呼ばれないことはない。 「お知香さんは何を弾く?」 「あたしはいつもの岡崎五万石。あとはお弟子さんと何曲か弾くつもりだけれど」 民謡には長唄からとった粋な唄もあって、そのひとつの岡崎五万石という曲を地元愛知県出身の歌手が例年唄うことになっている。家元と親しいその歌手は伴奏はいつも知香を名指してきて、一本弾きをする。 「あれはいい、楽しみだ」 本間はふっと目を細めた。何とも言えない和んだそんな表情を、本間は時々見せる。いい目をしてくれると知香はよく思う。 「総稽古にも裕さん、来てくれるでしょう」 おさらい会の前に当日の出演者が全員揃って、家元の前で演奏曲の稽古をみてもらうことになっている。 「いずれ呼び出しがあるだろうから、伺いましょう」 「家元にいってみようかしら、裕さんに三弦も弾かせろって」 知香が冗談をいうと、 「それはないよ、お知香さん」 本間は声をあげて笑いながら帰っていった。 家元の傘下には三十人をこえるお師範がいる。それぞれが自分の弟子をもって指導をしている。 師範ともなるとやはり自分の弟子の演奏は自慢したいから、おさらい会のような時には出演する弟子を選ぶ。 知香も出演する弟子を数人きめていた。腕の確かさと音取りの確かさも念頭において選んである。民謡は歌い手の音域の高さに糸の調子を合わせて演奏する。それぞれの喉に合わせて尺八がその調子の音を一吹きするのを聞いて、素早く三弦の音を調弦しなければならないから、音の取れない者には大きな舞台には立たせられない。 今年のおさらい会の出演者の一人に、名倉代里子という弟子を予定している。同じ町内の和菓子屋の奥さんで、おとなしくて地味な弟子だが稽古には熱心で、覚えもよく丁寧な演奏をする。ぜひ舞台で弾かせたいと思ってすすめたら、商売の都合があるから主人に訊いてみなければということだった。おさらい会は日曜日である。店は休みではないのかと何の気なしにたずねたら、悪いことでもしたように身を小さくして、主人に訊いてみますと同じことを言った。 商売の都合とかで代里子の稽古が土曜日になった日、済みませんと頭をさげて稽古にやって来た代里子に、 「どう、ご主人はおさらい会に出してくれ そう?」 知香は返事を訊いてみた。 「大丈夫だと思います。話しはしてありますから」 代里子の答えはおとなしさがすぎて頼りない。 「無理だったらかまいませんよ。押しつけ るわけじゃないから」 話しの筋は右左さっさと決めてほしい性分の知香だから、あいまいな相手にはぽんと答えを催促する。 「いいえ、ぜひ弾かせてください」 代里子はあわててそう言い、ますます身を小さくした。 代里子の夫には、あれでは奥さんが気の毒だといった類いの噂さがある。暴力をふるうまでには至らないらしいが、とにかく横暴だという。その辺りがこんなふうに代里子をおどおどとさせているのかもしれない。 「それじゃあ頑張ってちょうだい。あなたなら二ヵ月弾きこめば十分仕上がるでしょ うから」 はっきりしない人だと焦れることもあるけれども、名倉の家には家の事情があるのだろう。でも本人が弾くという以上は余計な詮索をするつもりはない。 この日は土曜日の七時の予定の弟子が来られないと連絡がはいっていて、替わりに代里子の稽古にあてた。おさらい会では代里子の出番は二曲予定していて、その練習につい熱がはいり、ではそれまでとばちをおいたのがちょうど八時だった。代里子が三味線を片付けにかかったところへ、庭の格子戸が開く音がした。本間であろう。やぁといつもの声をかけてこないのは、まだ弟子が居る気配を察したものらしい。 「裕さん、こちらは終わったところだから どうぞ」 知香は声をかけた。代里子は腕がよいし音取りもたしかな弟子で、おさらい会に出る弟子として本間に紹介するのもよい。 代里子はあわてて三味線をしまい、座布団を伏せて知香に挨拶をした。上がり口からあがって来る本間にも小声でお先にと頭をさげて、立ち上がろうとした。そして一瞬、本間の顔にしばらく目をあてた。 「やぁ」 本間は代里子にそう言った。いつも知香にかける声とはちがう、妙にくぐもった言い方に知香には聞こえた。 「しばらくだね」 本間に言われても、代里子はまだ焦点が合わないかのようにただ相手を見返し、それからやがてその目をまじまじと見開いた。 「あなた方、知っているの」 知香も驚いていた。代里子は知香の許に通いはじめて四、五年はたつ。でもおさらい会に出たことは今までなかったし、本間と顔を合わせたこともないはずだった。 本間は黙って笑っている。気づくと代里子は耳たぶまで赤くなっている。 「お先に、失礼します」 かすれた声で言って、代里子は逃げるように帰って行った。 話しは後でと思ってとにかく稽古にはいった。本間は代里子を知っていた。知香のところに代里子が居るのを驚きもしないで、もとより知っている顔つきだった。弾きながらそんなことを考えていたら、一の糸のつぼをはずした。知っているなら一言あたしに言ってくれていたっていいはず・・・。そう思った拍子に三の糸をはじき損ねた。代里子はまったく知らなかったらしいが、それにしてもあの驚きようはどうだろう。あれは並みな驚き方じゃなかった。耳まで赤くして・・・。そんな事まで思い返していたら、とても本間と向き合って弾いてなどいられなくなった。 「あーぁ、今日は稽古が詰まってたもんだから」 ぽいとばちを傍らに置いた。置いたというより投げ出したといった方がいい。演奏に関して本間の耳は鋭い。その本間にまるで上の空な演奏を聞かせてしまって、まともに顔をあげる勇気もなかった。 「お茶でもいれるから、裕さん、話しなさいよ」 ずいとお茶の道具を引きよせて、宇治の缶を開けて支度をした。 「話せって・・・?」 本間はあっさりと訊き返す。 「決まってるじゃありませんか、代里子さんの事ですよ」 「あぁ」 「知っていたんでしょう」 「彼女か、昔の知り合いだよ」 「知り合いって?」 「それだけのことだよ」 知香は熱い湯飲みを本間の前においた。 「そうならそうと、初めに話してくれたっていいのに」 「べつに改まって報告することでもあるまい」 「そりゃそうですけどね」 意味のない受け答えをして、それでも知香は面白くなかった。どう考えてもさっきの二人の出会い方は、何か曰くありげな再会というふうに見えた。 「あたしはただ、今年のおさらい会には代里子さんにも出てもらうから、それで裕さ んに紹介しておきたいと思っただけですよ」 実際なにがこんなに面白くないのか、知香自身にも分からなかった。本間と代里子が自分の知らないところで知り合いだったからといって、腹を立てる筋合いはない。でもどうしようもなく面白くなくて、そのせいでばちをしくじったのは事実だった。 「まぁいいけど、彼女もいい弾き手だし」 またもや意味のない事を言って知香はお茶をすすった。本間は片手でくいと粋な飲み方をする。いつもながらいい姿だな、と知香はさり気なく目をそらした。
(続く) |
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