忍び駒


作  七浦とし子

 【その4】


戻る次ぎへ


 代里子は以前に、家で稽古をしていると夫がよい顔をしなくてともらした事があった。それで知香は忍び駒というのをすすめた。普通の駒の替わりにそれを糸の下にはさんで弾くと、音がかすれて響かなくなる。人の耳を気にしなければならない時にはよく使われる。 何も悪い事をするわけではないのだから、内緒で弾くことはないと知香は思っている。しかし人にはそれぞれの家の事情というものがある。代里子のような奥さんが夫に気がねしいしい弾いている姿は、容易に想像がつく。そうして忍び駒をすすめた頃から、代里子の演奏は目に見えてしっかりしてきた。

 彼女くらいの弾き手なら、もうとっくにおさらい会に出演をさせていてもよかったのだが、そんな夫の居る事情を考えて、今まで声をかけた事がない。当然、民謡の関係で本間と顔を合わせる機会があったとは思えない。本間は古い知り合いだと言っていたから、それを間にうければ民謡を始める以前に付き合いがあったことになると、知香はその夜、寝つけぬままに想像を巡らした。あれほどびっくりしたところをみると、その古い付き合いには何かよほど深い経緯があったとしか思えない。

 でも、と知香は寝返りをうった。代里子は知香と同じ町内に住んでいて、本間はその隣りの町内に住んでいる。お互い顔を知っていても考えてみればそう不思議ではない。顔を知っていれば、代里子が知香の許に稽古に通っているのを知っていた事もありうる。それで自分もここへ通って来る気になった・・・?。 そこまで考えて知香はぞくりとした。あの本間が代里子との再会を計って知香の許にやって来ると、我ながら呆れ果てるような詮索をはじめている。あぁいやだと頭から布団をかぶった耳に、隣の座敷の時計が二時をうつのが聞こえた。

*

 三味線の稽古は月三回で、四週目はない。でもおさらい会が近づくと、出演者には四週目も稽古をする。総稽古までにみっちり弾きこんでもらって、家元の耳にかなう演奏をさせたい。それも師匠としての誇りになる。

 代里子には、総稽古の方は無理をして来なくてもよいと言っておいた。総稽古もおさらい会も日曜日のほぼ一日がかりで、主婦の中には出かけ難いという者もいる。代里子の場合はとくに気がねらしいから、無理強いはしなかった。

 「このぶんなら総稽古なしでも大丈夫だわね」

 総稽古の前の週の稽古で知香は代里子に言った。予定の二曲はもうあらかた仕上がっていて、あとは歌い手の呼吸が聞き取れれば問題はない。

 「すみません。都合がついたら行きたいのですけれど」

 「無理はしないでちょうだい。要は当日ちゃんと弾いてくれればいいんですから」

 念のために家では軽くさらっておくようにと言いそえた。

 「そういえば・・・」

 話しを変えてさらりと知香は訊いた。

 「あなた、裕さんを知っていたのだったわね」

 本間と代里子が出会ってからこちら、その話しを知香はしていない。日がすぎたせいか代里子はとぼけているのでなくわからないらしい。

 「いつか会ったでしょう。本間の裕さんですよ」

 意識してそんな呼び方をして知香は笑った。本間にもあれ以来この話しはしていない。これきり黙っていれば二人も何も言わないにきまっている。それではどうも知香の気が治まらない。

 あぁと代里子は分かった様子で、あわてて目をそらせた。案の定な狼狽えようだった。

 「知らなかったわ、あなた方が知り合いだったなんて」

 ますますさらりと知香は笑った。

 「だいぶ古い知り合いなんですって?」

 代里子はあいまいにうなづいて、まるで悪いことをして言い当てられたように身をすくめる。何をそんなにびくびくするのさと知香の性分が言いかけた。でもさすがにそこまで意地悪くはなれない。

 「おさらい会には裕さんも出るから、ゆっくり会えますよ」

 そう言って代里子を帰した。気がかりはなくならず、残ったのはいやな気分だった。本間に直接訊くのは憚られる。しつこく詮索する自分を見せたくない。だから代里子に訊いてやれという、そんな自分が実際いやだった。

 −勝手になさい・・・

 ぶつける相手のないふてくされを起こして、知香は一人三味線を膝に構えた。おさらい会の曲に身をいれるつもりが手も指も上の空で、最後まで続かなかった。

(続く)

忍び駒( 戻る次ぎへ
[「文学横浜」23号に掲載中]

ご感想・ご意見など、E-mailはこちらへ。

禁、無断転載。著作権はすべて作者のものです。
(C) Copyright 2000 文学横浜