忍び駒


作  七浦とし子

 【その5】


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 総稽古はおさらい会の開かれる市の公民館の同じ舞台で行われる。客席の真ん中にかまえた家元を前にプログラムにそって稽古をみてもらい、リハーサルも兼ねている。家元は言葉すくなく厳しい注意をよこすから、当日よりも緊張するという者も中にはいる。知香の出番は四曲あって、一曲は一本弾き、あとはお弟子さんたちと合奏になる。

 家の用を済ませると、知香も早めに身仕度をして家を出た。ふだん家に居る時は洗いのきく着物を反巾の帯であっさりと着る。外出の時もそう改まった着物ではなく、帯は色を合わせた名古屋を結んだ。

 市の公民館は知香の家から歩いて十分とかからない。街のはずれの運河にそった遊歩道がまっすぐ公民館に通じていて、並木の桜がよく見ると小さな蕾をつけている季節だった。

 「よぉ」

 公民館につくと、本間が早速声をかけて近寄って来た。悠々と人垣をかきわけて、何の屈託もない。でも知香の方には屈託があった。代里子も本間も結局その知り合いのいきさつを話してくれない。知香に言わせれば、あたしが黙っているのをいいことにしてと気分はよくない。

 「どうも・・・」

 普段の知香だったら、民謡の仲間うちでは公認の相棒と噂さされる本間がこうして肩を並べてくるのが少なからず心地よい。でも知香は気分の悪さを帯の下に隠すのが得意でなかった。

 「今日は早かったのね、遅刻常習の裕さんにしては」

 本間はいつもどんな場所へも時間ぎりぎりにやって来る。それを軽く冷やかしたつもりの言い方が、自分でもしまったと思うほどぶっきら棒だった。

 本間はひょいと肩をひき、それからおもむろに知香の顔をのぞいた。

 「どうした、ご機嫌ななめか」

 からかうようなあやすような目をして、知香は本間のそんな目によわい。

 「べつに・・・あたしより家元のご機嫌はどうかしら」

 笑って取り繕うと、本間もいつもの調子で笑った。

 「やっこさん、今日は奥方が来ないとかで上機嫌だ」

 家元は大柄で威厳のある容貌に似合わず恐妻家で知られている。それを茶化した話しで、いつもの二人に戻った。今日の演奏曲目の話しなどしていると、楽屋から本間に音取りをお願いしますと使いが来た。三味線は一の糸から三の音まで尺八に合わせて音を取る。弾き手は舞台にあがる前にしっかりと音を合わせておくために尺八を待っている。

 本間は軽くうなづいて楽屋に足を向けた。その足をふいと止めて知香を振り向き、辺りにちらりと目をはしらせた。何か・・・?と知香が聞き返そうとした時には、本間はさっさと楽屋に姿を消していた。

 公民館のホールには次々と出演者が集まって来る。顔なじみの者と挨拶を交わし、自分の弟子を見つけて控室に案内し、三味線に駒をあてて糸を軽くしめさせ、指あての用意や舞台での注意を聞かせていて、その頃になって知香は、本間が楽屋に行く直前に一瞬周囲に向けた目の行く先に思い当たった。あれは明らかにだれかを捜している目で、それは代里子にちがいない。総稽古には代里子もこられるかもしれないと、知香は本間に話している。

 本間は周囲にどんな人間がいてもおよそ無関心で、きょろきょろすることなどまずない。あらぬ方に飄然と目をすえていて、向こうから近づいて来る者があると鷹揚なほど気さくな顔を向ける。その本間の目を、この場に居ない代里子が向けさせた・・・。

 知香は音取り前の糸を指でぱちんとはじいた。こうも本間の挙動にこだわる自分がいまいましかった。これは自分の気に入っていた本間の相棒役のする事じゃない。知香は本間の相棒役としての自分に自信があった。その自信が、あの夜の代里子の驚きようを見た時からくずれている。あれはどう見ても女の感情がゆれた顔に思えた。それで妙な詮索意識が働いてしまったことで、居心地のよかった本間の相棒役の自信がくずれたのだった。

 楽屋に知香の出番の声がかかった。弟子を促して舞台のそでに行くと、前の演奏にも尺八をつけた本間がそのまま舞台で待っている。相変わらずだれが舞台に来ようと我れ関せずといった風情で、知香を振り向くでもない。でもそうしていて知香が音取りを確かめようとすると、後ろで即座にその音を鳴らしてよこす。

 今日も音取りはぴたりと呼吸が会った。一の糸にばちをあてれば後ろから澄んだ音がくる。二の糸にはひとつ低い音がする。三の糸には深い渋い音が聞こえる。

 ハァと喉で合図をとって、テンとばちをふった。余分な意識はいっさい消えて、知香の手は無心にばちをふった。

*

 「代里子さんは来ていなかったようだね」

 公民館を出ると本間はまず言った。

 総稽古も一種のおさらい会気分があって、終わると緊張がほぐれてわっとにぎやかになる。皆てんでに腹や喉をうるおしに誘い合わせたり、前もって近間の料理屋に席を予約している仲間もいる。

 こうした時には本間は時には家元に誘われたからと言って別に帰るが、ほとんどは知香と肩を並べて会場を出る。申し合わせるわけではなく、いつも自然とそうなる。

 今日もそうして公民館を出て、最初に本間の口から出たのが代里子の名だった。出るかもしれないと知香は思っていた。でもこう待ちかねたように言ってきたのが、やはり知香の癇にさわった。

 「そのようね」

 知香はそっけなく答えた。そんな言い方をすると足取りまで荒っぽくなる。着物の裾を邪険にさばいて、知香はさっさと運河沿いの遊歩道に道を渡った。

 陽のおちた空に、河向こうの繁華街が明るい。街はずれの遊歩道は静かだった。

 「何かあったのか」

 本間が隣りから訊いてきた。知香が口もきかずにどんなに足を早めても、本間の長い足はのんびりと肩を並べてくる。

 「べつに、なにも・・・」

 無愛想に答えて、知香はすっかり息をきらしていた。

 「急ぐのかね」

 「べつに、用が済めば家に帰るだけですよ」

 「よかったらちょっとつき合わないか。腹もへったところだし」

 「へぇ」

 ようやく歩調をゆるめた。これ以上早足は続かないところだった。

 「めずらしいこと、裕さんが誘ってくれるなんて」

 本間とは演奏の後に仲間に誘われて会席につくことはあるが、個人的に誘い合うことはあまりない。

 「気心知れて子弟になった仲だ、たまにはいいだろう」

 何が気心知れたものですかと知香は思う。でもここで喧嘩をして別れてしまったら、家に帰った後が切ない。お腹も昼近くに仕出しの弁当を軽くつついただけだった。

 「でもそこいらの店じゃいやですよ。民謡の連中がいたらまた煩くてたまりゃしない」 賑やかな宴会の席で二人をひやかす仲間の声には、いつもうんざりさせられている。

 「うん」

 本間は繁華街とは反対側に橋をわたって、路地をはいった奥の小さな寿司屋の暖簾をあけた。せまいけれど落ち着いた店で、ここなら民謡の連中も来そうにない。時間が早いせいか客も少なく、座敷の席があいていた。

 腹がへったと言ったわりには、本間は運ばれてきた寿司にあまり手をつけなかった。のんびりと素朴な焼きの猪口を口にはこんで、これといった話しもしない。

 知香には予感があった。本間は何かを話すつもりだろう。寿司屋に誘っておきながら食べもしないで、きっかけに困っているのかためらっているのか・・・。

 −話すならさっさと話しなさいよ

 知香がいいかげん焦れたのを見計らったように、本間はふいに目をあげた。

 「聞いてくれるか」

 「聞いてますよ」

 びくりとした拍子に知香はおうむ返しに応えた。いつもと変わらない静かな本間の声が、何やら宣告じみて聞こえた。

 「話しがあるならどうぞ、何だって聞きますよ」

 襟をしごいて威勢よく言ってみせると、本間は冷えた酒を一口あおってからぽつりぽつりと話しはじめた。

 彼は愛知県に郷里があって、東京の学校に通うために上京して下宿生活をはじめた。その下宿先の娘が代里子だった。

 彼女はまだセーラー服姿も幼い少女で、突然に家族の一員になった本間に無邪気になついた。兄と二人男兄弟で育った本間には妹を見るような気分で、他愛なく甘えてくる代里子がひたすら可愛かった。

 二人の仲は代里子の両親にも学校でもほとんど公認で、年齢と共に生まれるべき感情が生まれ、運命的な未来を無言のうちに確かめ合うようになった。

 卒業後の就職先も決まると、本間はその報告をかねて一旦郷里に帰った。郷里では兄が父親の片腕となって事業を継いでいる。家族に代里子の事を話すつもりもあって、代里子にもそう告げてある。代里子はかすかにほほをそめて駅まで見送っている。

 久しぶりの郷里では、思いがけず父親が事業のうえで窮地に追い込まれていた。取引先の社員の不始末から相当な額の負債を負うことになり、父親は事業をたたむ覚悟さえしていた。

 本間は愕然とするばかりで、なす術もなかった。代里子の話しどころではなかった。そんな時、本間も名を知っている土地の資産家が父親に融資を申し出てきた。手広い実業家でもある彼は、形ばかりの事業上の提携を条件に負債をいっさい肩代わりするという。恵まれすぎる話しだったが、家筋も確かで信頼のできる相手であり、父親はそれにすがるほかはなかった。

 言葉通りにその実業家は実行してくれた。恩きせがましいところは微塵もなく、さしでがましいようでと恐縮さえした。そして、

 「うちの娘がえらく心配していたものだから」

 親馬鹿のおせっかいだと言って笑った。その娘は本間とは幼な友達で、子供の頃にはよく遊んだ仲だった。

 父親の事業は落ち着き、でも本間は代里子の話しをしそびれたまま東京に戻った。そうして勤めをはじめた本間の許に、実業家の娘がよく訪ねて来るようになった。父親の上京に便乗したという事もあり、一人でもやって来るようになった。

 「それで、恩ある人の娘さんを拒めなくなったってわけ・・・?」

 黙って聞いていた知香はついに口をはさんだ。他の者から聞いたのだったら、よくあるメロドラマの筋書きみたいだと一笑しただろう。でも一笑したのは逆に本間の方だった。

 「つまらん仁義を尽くしたもんだと思うか」

 じっさい自分を見下した苦い笑い方だった。

 「そんなこと思っちゃいませんよ」

 思えるものならそう思って笑ってやりたかった。普段の飄々とした本間の顔をそこに突きつけて、裕さんはこういう顔をしていなさいよと一声ぶつけてやりたかった。

 「仕方ないもの、世の中にはなりゆきに逆らえない時だってありますよ」

 本間にしてみれば辛いところだったろう。相手に恩きせがましいところはないと言っても、そういう謙虚さがこちらにとってはかえって重い負担になることだってある。窮地を救ってくれた人の娘を無碍に拒めなかった本間を、責める気にはなれない。

 「それよりも、当の奥さんはそんな事情を知っているの?」

 代里子の存在をまったく知らずに本間の妻になったのだとしたら、それもまた哀れな女ということになる。

 「知っていたらしい」

 「知っていた?」

 「あぁ、恨まれ役は承知だと、最初から言っていた」

 そんな結婚がうまくいくわけがない。恨まれるのを承知で妻の座を望むというのは、一途さを装ったただの意地にすぎない。

 「それで、今はどうしているの」

 別居した後、妻がどうしているのかまでは知香も知らない。

 「子どもを連れて郷里に帰った」

 「喧嘩ごしで・・・?」

 「いや」

 本間はいっそう苦い顔をした。

 「こうなる事は分かっていたと言っただけで、泣きも怒りもしなかったよ」

 義理ひとつで妻を迎えた男と、それを承知で妻の座についた女・・・。最初から無理だったのだろう。いっそのこと妻が泣いてわめいて醜態を曝してくれたら、本間の気持ちもいくらかは救われたかもしれない。

 「でも裕さん」

 過ぎた事より、知香には気になる事があった。

 「代里子さんにはちゃんと旦那がいるのよ」

 「そりゃ分かってる」

 「いくら自分が独り身同然だからって、亭主もちの女と再会してそれでどうしようっていうんです」

 「ちがうんだ、お知香さん」

 本間は改まった目をした。

 「あの名倉って男のことで、ちょっと気になる話しを聞いたんだ」

 「代里子さんの旦那の?」

 代里子の夫によい評判はない。家業の和菓子屋は元々名倉の両親がやっていて、一人息子が商売の手伝いもせずに好き勝手なことをするのを大目にみていた。息子に嫁を迎えてからは、代里子がおとなしいのをよいことにしたわけでもないだろうが嫁に一切をゆだね、そして両親揃って思わぬ早死にをした。しかし息子は和菓子造りのイロハも知らぬままで、妻が古い使用人とすべてをこなすのを眺めるばかりだった。それを引け目に感じる甲斐性があったものかどうか、夫はおよそ家に居ることがなくなった。出歩く先は商売がらみは表向きで、女に関わる噂さが多い。それも概ねうなづける話しを、知香もずいぶんと聞いている。

 「あの男、何に使うつもりだか銀行に融資を頼んで断られて、暴力団のからんだ不動産屋に話しを持っていったらしい」

 「融資・・・?」

 名倉の家は四、五年前に住まいを含んだ古い店を改築している。店構えは立派になったが、商売は手のかからない量産設備を整えたという。古い使用人は解雇して、代里子一人に一切を任せていると聞いている。

 「あの店の改築資金の返済にでも困ったのかしら」 

 「いや、返済は地続きの広い駐車場の収入で足りているそうだ」

 本間は建築関係の仕事をしていて、そのへんから地元の商業関係の情報には聡い。そこへ代里子の家のことを耳にすれば詳しく調べもしよう。

 「それで、一体どのくらいの額なの」

 銀行が融資を渋るというと、そう些細な額とは思えない。

 「それなんだ」

 本間は空になった徳利を脇に除けた。

 「なんでも銀行の調査で、本間の名でマンションを物色している女の存在が確かになったそうだ。そのための資金とみて銀行は断っ たらしい」

 知香は意味もなく弄んでいた猪口をとんと卓に置いた。板場からねじり鉢巻きがちらりとこちらに向く。どこからどこまでありふれた話しだ。知香の大嫌いな話しだ。本間から聞くのでなかったら、みなまで聞かずに椅子を蹴って立ち上がるところだった。

 「名倉の女の話しは、あたしも聞いてはいますよ」

 「本当なのだろうか」

 「そんな事、あたしの知ったことじゃありませんよ」

 噂さはあるいは本当かもしれない。でもかと言って、本間を相手に井戸端会議の真似をする気はない。

 「ただあの旦那は、自分は好き勝手なことをしておいて奥さんの稽古ごとにはよい顔 をしないのは事実ですよ」

 いつか知香が稽古日のことで名倉の家に電話をかけたらたまたま旦那が出て、つまらぬことで時間をつぶされると口ぎたなく言われたことがある。稽古のある日にはおどおどと夫の顔色をうかがって出てくる代里子の様子が、目にうかぶようだった。

 「今日の総稽古だって、その辺の事情で来られなかったんでしょうよ」

 本間は黙りこくり、知香も口をつぐんだ。店に続けて二組ばかり客がはいってきた。にぎやかに話しのはずむ気配に二人は腰をあげて店を出た。

 時間はもう十時をすぎていた。橋を渡って住宅街にはいると、じきに知香の家の前につく。本間の家はここから一キロほど先にある。 「つまらん話しで遅くまで付き合わせて、すまなかった」

 本間が立ち止まっていつもの調子に戻った。

 「まったくですよ。もう少しぱーっとした話しで付き合いたいのに」

 知香にもいつもの憎まれ口が戻った。こんな自分が本間には似合っている。本間に男を意識する自分の感情と、自分に女を意識する本間の感情は、どんなに微妙な天秤にかけてもきっかりとバランスを保たなければならないと、改めて知香は思う。

 本間はくすりと肩をすくめ、軽く片手をあげて暗い道を家に向かった。

(続く)

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[「文学横浜」23号に掲載中]

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