忍び駒


作  七浦とし子

 【その6】


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 おさらい会の前日は稽古はなしにした。出演する弟子たちには自宅で軽くさらっておくようにと告げ、自分も舞台の衣装や三味線の小道具を確かめなければならない。

 師範の免許を持った者は、看板をいただく時に家元から揃いの着物を贈られる。淡いふじ色に金茶色の裾模様のはいったもので、おさらい会などの舞台ではこれを着る。襦袢の襟には裾模様の色に似た渋茶色の半襟をかけた。三味線は演奏中に糸が切れることのないよう、前日に取り替えてよくしごいておく。予備の糸も用意し、ばちや駒も忘れずそろえる。

 いつもならこうした舞台のある前日は、明日の本間との呼吸が指に脈うってきて楽しい。でも今日は指が脈を忘れていると、知香は支度の手をとめてはぼんやりとした。代里子は来られるだろうか。同じ事を本間も考えているだろうか。きっちり止まったはずの天秤の片方から、自分がふらふらと身を外しているような気がした。

 こんな事に拘るのはあたしの柄じゃない、知香は三味線のケースをぱたんとしめた。着物の包みを部屋の隅に寄せて、風呂を済ませて寝ようと立ち上がった時、家の外に慌ただしい気配がした。ばたばたと人が走り、息せききって何か言い合っている。普段から静かな通りで、ましてもう時間も遅い。いやな予感のする慌ただしさだった。

 緊張する足で庭におりて庭木戸をあけると、とたんにきな臭いにおいが鼻についた。黒い人影が走って行く先を見ると、家並みの向こうの空が赤くそまっている。すぐそこの交差点だと叫んで誰かが走って行く。通りの向こう側だともう一人の声もした。比較的大きな交差点が少し先にある。あの通りをはさんだ向こう側なら、こちらに火の手が届くことはまずないけれどと身をすくめて、知香ははっと息をつめた。交差点の向こう側には、名倉の家がある。方角もその辺りから火の粉をまじえた煙が吹き上がり、同時にけたたましいサイレンの音が聞こえてきた。

 咄嗟に庭木戸をしめ直して知香は駆け出していた。背筋がふるえだしていた。サイレンの音は二つ、三つと聞こえてくる。夢中で交差点に近づくと、きな臭い匂いはいよいよ強く、赤い煙ははっきりと炎が見え、ぱちぱちと何かのはぜる音まで聞こえてきた。

 集まった人垣をかき分けて通りを見ると、まさかと思った名倉の家から炎は上がっていた。店の戸口一面にめらめらと炎があがり、脇の窓からも赤い煙を吹き出していた。

 ぞっとするその光景に知香が立ちすくむ間に、消防車のホースが放水をはじめた。二本、三本と炎に向けてとんで、細く見える水もしかし確実に火の手を弱めて、次第に白い煙にかわってきた。

 代里子はどうしているのか・・・。ようやく知香は我れに返った。火の手が治まって、店の部分が焼け崩れたのが分かる。身動きの戻った目で代里子の姿を捜した。気がつくと隣りで気遣わしげに辺りを捜しているのは本間だった。そしてほとんど同時に代里子らしい人影を見つけた。かけつけようと足を踏み出すより一瞬早く、他の人影があたふたと代里子にかけ寄っていた。

 「名倉よ」

 知香は本間の腕をひいてとめた。名倉はどこか出先からかけつけたといった格好で、代里子に一言二言声をかけるより早くくいと肩を小突いた。よろめく代里子に何やら激しく罵声をあびせているのが、暗がりにも見てとれる。代里子は身をすくめきり、それにつかみかからんばかりの名倉の声がこちらにまで聞こえてきそうだった。

 隣りで本間の腕がわなわなとふるえ、ついに足を踏み出しそうになった。知香はあわててその腕をつかんだ。本間がこんなふうに感情を昂らせることはあまりない。こんな本間を今名倉の前に行かせたらどこまで制御が効かなくなるか、知香にも止める自信はない。それでなくとも、本間は名倉の前に姿を見せない方がよい。咄嗟に知香はそう思った。

 幸い、二人の影に消防署員らしい影が近づいて行った。知香は力まかせに本間をひっぱってその場を離れた。いくら知香が引き止めても、男の本間がその気になれば造作なく振りきれる。それでも辛うじて知香に従ったのは、本間のぎりぎりの理性だったのだろう。喧嘩をした子どものような鼻息をはきながらも本間はおとなしくついてくる。

 「今は何を言ったって仕方ありませんよ。裕さんが顔をだす筋合いはないんだから」

 物見高い人込みから離れると、知香はようやく本間の腕を放した。

 「あたしだって気にはなるけど、とりあえず火事は治まったし」

 焼け跡は無惨だったものの、何とか店の部分だけで済んだ様子だった。

 「明日になれば様子は分かりますよ」

 その明日はおさらい会である。本間の心境を考えればそれどころではないだろうが、他に言うべき言葉が知香にはない。

 「明日はおさらい会だけど、寝坊してしまいそうだわ」

 火事に気づいたのが十二時近くて、それから二時間は経っている。本間は黙ったまま知香の肩にぽんと手をおいて、その手を軽く振って帰って行った。

(続く)

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[「文学横浜」23号に掲載中]

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