やぐら太鼓


作  七浦とし子

 【その3】


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 単調な毎日の繰り返しは波風ひとつ立つこともなく、二十年をすぎても変わらなかった。そうして五年ほど前、藤千太郎一座が高砂にのぼりを上げた。千太郎の興行は客の入りがよく、舞台も連日はなやかに盛り上がった。 そんなある夜、貞吉が幕のおりた舞台を片付けて家に戻ると、民子がまだ帰ってきていない。首をかしげているところへ、民子が珍しく息をはずませて帰ってきた。座長さんの衣装がほころびてしまったのを繕ってあげていたと言い、割烹着もつけずに台所にたった。 あわただしく鍋をかけ野菜をきざむ民子の後ろ姿を、貞吉は寝そべってながめた。舞台でしなをつくる役者たちとちがって、民子の仕種はのっぺりとして気取りがない。もう四十代も半ばになるはずの民子の腰をながめながら、貞吉は食事の出来るのを待った。

 それからも民子は、よく貞吉より遅くなって帰ってきた。役者さんに頼まれて繕いものや衣装の汚れ落としを手伝っていたと言い、時には座長さんからいただいたと祝儀袋をもってきたりするようになった。

 人気のある役者が舞台に立つと、客席からかけ寄って胸元に祝儀をさし入れてくる贔屓客がよくいる。藤千太郎にもそうした贔屓客は多く、それを気前よく民子に寄越したのだろう。中には千円札五枚が入っていた。

 二人して働いてはいても、そう余るほどのゆとりはない。つましい生活にはうれしい祝儀で、たまには民子に新しい着物でも買ってやろうなどと、ごろ寝をして食事の出来るのを待ちながら貞吉は思ったのだった。

 一ヵ月の興行が終わると、藤千太郎一座は次ぎの興行地に発つ。貞吉はいつも通り大型トラックに一座の荷物の積み込みを手伝い、楽屋や舞台をざっと片付けてから家に帰った。だいぶ遅くなっていたが、民子はまだ家に帰っていなかった。

 また座長に何か用を頼まれたのかと、一瞬は思った。しかし千太郎一座はもう高砂から発っている。どこか近所に買い物にでも行ったのかと思い直し、いつものくせでごろりとその場に横になった。明日やって来る新しい一座を迎える準備などぼんやりと考えているうちに、荷物の積み込みの疲れがでたのか、そのまま眠りこんでしまった。

 じかに寝ころがった畳の硬さで目がさめたのは、もう夜があけて外が明るくなってからだった。重い目をこするうちに夕べ民子が帰っていなかったのを思い出して、貞吉はむくりと起きあがって家の中を捜した。捜すほどもないせまい家の中に、民子の姿はない。

 貞吉はぽかんとした。民子が断りなしに家をあけた事などなかったし、家と高砂以外に民子の行くところなど考えられない。ふらりとアパートを出て高砂に行き、舞台や楽屋をのぞいて回った。もう一度アパートに戻り、また劇場に戻って客席の隅々まで捜したが、どこにも民子はいない。心配よりも先にただ不思議で、貞吉は狐につままれたような気分だった。

 やがて他の使用人たちがぼちぼち仕事にやって来た。貞吉が民子を知らないかと訊くと、逆に民ちゃんがどうしたと訊いてくる。わけを話すと、便所はさがしたか、やぐらにいはしないかと自分で確かめに走る者もいたが、じきに首を横に振り振り戻ってきた。 わけが分からず首をひねる貞吉に、

「貞さん、実は…」

 使用人仲間の一人がおずおずと寄ってきた。「千太郎の舞台がはねた後、民ちゃんと座長が二人でこそこそ出かけるのを、よく見かけたんだ」

 ためらいながら声をひそめて言う。

「どこへ?」

 しばらくして貞吉はそう訊いた。訊いてからまたしばらくして、話しの意味がゆっくりと分かってきた。民子は座長に手伝いを頼まれて楽屋かどこかで用をしていると思っていたのが、座長と二人でどこかへ出かけていたという。亭主に嘘をついて男と二人だけで出かけると言えば、それは男と女の時間しかないと貞吉にも察しはつく。そんな時間を重ねているうちに、民子は千太郎から離れられない女になって、次ぎの興行地について行った…。

「そう言えば、夕べ民ちゃんらしい人が風呂敷包みを抱えて…」 後ろで誰かの話す声が聞こえた。

「俺も見た。トラックの後ろに隠れるみたいにしてて、暗くてはっきりしなかったけど、あれは…」

 夕べ、最終公演が終わってじきに民子が高砂を出て行くのを、貞吉は見かけている。あれから家に帰ってこっそりと身の回りの物を風呂敷に包んで、次ぎの興行地へ発つ千太郎について行く民子の姿が、貞吉の目にうかんだ。しかしあまりにも突然すぎて、他人事のような納得しかできなかった。まだ怒りも何もわかなかった。

 事態を察した使用人たちも、気まずく口をつぐんだ。重苦しく黙りこくった雰囲気に、通りかかった恩田社長も近づいてくる。そばにいた者が事の次第を耳打ちすると、恩田社長の顔色が変わった。貞吉を見て絶句し、やがてその背を押して事務所に率いれた。「貞さん、すまない」

 恩田はその場に膝をつきそうに深く頭を下げた。

「俺の手落ちだ、俺の目が行き届かなかったばっかりに…」

 恩田社長の驚きは、当の貞吉以上に大きかったかもしれない。はなやかな芸人の世界では色恋沙汰はめずらしくもないだろうが、一座を率いる座長が、劇場の使用人の女房をかっさらって行くなど、劇場主としては後足で砂をかけられた思いにちがいない。

 貞吉はただ恩田を見返していた。親方が自分に頭を下げる事じゃない、これは筋がちがう、そんな思いばかりが先にたって、逃げるように事務所を出た。

 新しい一座のやって来る時間も近づいている。他の使用人たちは、貞吉の様子を気づかいながらも一座を迎える準備をはじめている。貞吉も仕事にかかった。千太郎一座のポスターや写真をはがし、のぼりもはずす。千太郎の名が目につくたびに、腹の底にうずくものがあった。でもじっくりと考える間もなしにやがて一座がやってきて、トラックから荷物をおろす仕事に追われた。

 明日の初日の舞台装置も済ませて、貞吉は地に足のつかない思いでアパートに帰った。暗い部屋にはいって明かりをつけた頃になって、改めてわなわなと身のふるえる怒りがこみ上げてきた。おとなしい顔の裏で、しゃらりと自分をだましていた民子が許せない。民子をそそのかして連れ去っていった千太郎も、もちろん許せない。何も知らずに呑気にもごろ寝をして、民子の帰りを待っていた自分にも、煮えくり返るほど腹がたった。

 その夜、貞吉はそう多くは飲めない酒を浴びるほど飲んだ。飲めば飲むほどに怒りはたぎった。民子を恨み、千太郎を憎み、何も気づかなかった自分を罵って一人のたうちわめき、嘔吐しながらなおも飲んだ。

(続く)

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[「文学横浜」30号に掲載]

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