やぐら太鼓


作  七浦とし子

 【その4】


戻る次ぎへ


 それから五年、千太郎一座は高砂にやって来ていない。恩田社長にしてみれば、いかに人気役者であろうと、自分の使用人の女房を不義理の道連れにした役者を舞台に呼ぶわけにはいかない。その辺は義理の堅い恩田社長のけじめだった。

 貞吉にしても、夢にも思わなかった民子の裏切りを忘れるのには、時間がかかった。ひと頃は使用人仲間たちが陰でひそひそと噂を交わすのが分かって、血のにじむほど舌打ちをくり返した。しかしするべき仕事はした。いつもと変わらずむっつりと背中を丸め、黙々と仕事をしてみせるうちには、回りの目も逸れてくる。女房に逃げられたくらいでいつまでもくよくよしていられるかと意地をはっていれば、それもやがては空意地ばかりではなくなる。月が変わり年が変わるにつれて、風呂敷包みひとつ抱えて男の許にはしった民子の姿も、遠く薄く消えかかってきていた。

 しかし五年たった今、あの藤千太郎が再び高砂へやって来ると聞けば、腹のうちにむし返すものはある。民子はどうしているのか、まだ千太郎の許にいるのか、知った事かとそっぽを向く反面、幕を引きむしってのぞきたい気もする。

 今月の興行も最終公演を迎えている。二日後には藤千太郎一座がやって来る。やはり落ち着かなくなった貞吉を、恩田社長が事務所に呼んだ。

「一応貞さんの耳にいれておくが、民子はまだ千太郎のところにいる」

 恩田社長も確かめずにはいられなかったのだろう。

「ちゃんと籍をいれてもらったわけではないし、もちろん役者になったわけでもない。言ってみれば、座長の女房気取りといったところらしい」

 貞吉はぼんやりと目をそらせた。旅から旅へと芸の世界に生きる役者の傍らで、おっとりと目を細めて世話をする民子の姿が目にうかんだ。

「まぁ、千太郎もずいぶんと阿漕な真似をした男だが、一応いまでもちゃんと民子を連れているようだし、民子もそれで満足しているんだろうから、俺からはもう何も言わんでおくつもりだ」

 考えてみれば、一時の気まぐれで民子を口説いて連れ出しておいて、挙句がどこかでぽいと追い出す、といった事だってあり得ると、貞吉は改めて思う。

「貞さんにしてみれば、言いたい事は山ほどあるだろうが」

「こっちは、何も言う気なんてありやしませんよ、いまさら」

 貞吉は恩田の口を遮った。あれから五年の歳月を経た今、藤千太郎一座を高砂に呼ぶか否かについては、恩田社長がどれほどの思案の末に踏み切ったか、聞かずとも貞吉には分る気がする。

「尻の青い若僧じゃあるまいし、この年齢になって女に未練なんて…」

 六十にもなって逃げた女房に恨みつらみなど、冗談じゃないと貞吉は舌打ちをした。

「ですが、この興行では楽屋や舞台裏の仕事は勘弁してもらいますよ」

 自分を捨てていった女房とその相手のいる場所に、わざわざ近づく馬鹿はいない。逃げるわけじゃあないと不器用に胸をはる貞吉に、恩田はうんうんと大きくうなづいた。

「分かってる。頼むよ、貞さん」

 事務所の机には藤千太郎のポスターが届いている。粋な遊び人姿の千太郎の脇に、日本人形のような大きな目をした振り袖の町娘が寄りそって、いじらしげに千太郎を見上げている。ふんと目をそらせて貞吉は事務所を出た。自分があの千太郎のポスターをはり、のぼりを立て、そして千太郎の舞台のために太鼓を叩くのだと思うと、やはりいまいましい。だが俺は、仕事は仕事でやる男だと、荒い鼻息に意地をこめた。

(続く)

やぐら太鼓( 戻る次ぎへ
[「文学横浜」30号に掲載]

ご感想・ご意見など、E-mailはこちらへ。

禁、無断転載。著作権はすべて作者のものです。
(C) Copyright 2000 文学横浜