涙を既に枯らしたのか、樹の目には潤いが無かった。
由紀子はじっとその目を見詰めた。樹が望んでいることだから。
言葉で伝えるのには辛過ぎることなのだろう。
樹の最後ともいえる心の叫びを受け止める。

樹はこの一週間、休みを取って実家に帰っていた。
その時に何かがあったのは間違いない。
もしあるとしたら、両親に何かを言われたに違いない。
それが、樹に由紀子との別れに繋がるものだった。
それしか考えられない。……が、何を言われたのだろう。

さすがにそこまでは由紀子も樹の瞳からは読み取れない。
ただ、ヒントはある。実家に戻っていたのだから、
倉橋家でおそらく由紀子との別れに結びつく出来事があった。
由紀子と樹が親友であることは樹の両親も知っている。
だから、今の暮らしをやめさせることはあまり考えられない。
由紀子と樹を別れさせるようなこともしないだろう。

以前から樹の母親の具合が良くないと言っていた。
今回の長期の休暇は見舞いを兼ねていたはず。
樹は両親が年をとってから生まれた一人娘だから、
大事にされていたし、普段は両親のことに無関心を装っているけど、
樹も両親を大切に思っているに違いない。

それらを全てを踏まえ考えて出る結論…

「イッちゃん…お見合い…婚約ね…」

「由紀子…こうなることを知っていたら…私は家に戻らなかった」

「だから…宿星…」

「両親を捨ててとも考えた。二人で駆け落ちして、静かに暮らすのもいいって…
でも、選べなかった。反対できなかった。そしてそのまま…」

樹の母親の望に一人娘の結婚が入るのは親として自然なこと。
いつまでたっても「いい人」の話が無いのに樹の父親が業を煮やし、
以前から知っている知人の息子を家に迎えるために手を打った。

樹には母親の具合が悪いので、様子を見て欲しいと呼び出した。
実家に帰ると、母親の顔色が良いのを訝しがる樹に、
見合いの話は伏せて食事に連れ出した。

日本庭園が綺麗な料亭の一室。見知らぬ家族が既に席についているのを見て、
樹は全てを悟った…時遅し。無口な樹を「物静かなお嬢さん」と思い込む相手の母親。
父親同士は親友とも言える間柄なので、自分達の話題で忙しい。
そして肝心の見合い相手の男性は優しく樹に微笑んでいた。

なんとなく樹と由紀子の関係を察しているはずの母親に救いを求めようとしたが、
口元がほころび、目元に涙を浮かべるその姿を見て、何も出来なくなってしまった。
(由紀子が私にはいるんだ!誰にもそれを邪魔はさせない!)
心の中で叫ぶも、声には出来ず、そのまま食事会と称した、見合いは終っていった。

家に戻ったあと、母親に両手をつかまれて、
「幸せになって…」そう言われた樹に何が言えようか。
(由紀子…ごめん、私には出来ない…クッ…)
混濁と化した樹の心とは裏腹に澄み切った夜空を見ながら、
何度も何度も謝る樹。同時に、自分の心の弱さと、
由紀子に対する愛情を本心からのものだったのかと疑った。

すぐに由紀子に全てを話そうと考えたが…出来なかった。
由紀子への裏切り…由紀子が許そうが…自分自身が許せない。

「…イッちゃんにそれは出来ないわよ」

樹は誰よりも由紀子のことを愛しているし、死ぬ瞬間まで一緒にいたいと考えている。
でも、それと同時にいつも悩んでいた。樹は一人娘。しかも、父親は資産家なのだ。
それを抜きにしても、自分の幸せを優先することで、周りが不幸になるのではと常に苦しんでいた。
そんな樹が由紀子を単純に選ぶという行動に出るとは考えられない。

「どうしたらいい?」

もうどうしようもないのはわかっていた。
いまさらということも…それでもすがるしかなかった。
怒られようが、罵倒されようが、捨てられようが……。
樹は由紀子に自らの行動の是非を決めて欲しかった。
もう、自分では判断することさえ出来ない。

由紀子にしたら、樹が望むなら、
全てを捨てて樹と暮らすことを選んだだろう。
たとえ、それが棘の道であったとしてもだ。
樹がいればそれも乗り越えられる。

望めば…だ。

「病んだ星の厄払いの方法はあるの?」

三国志演義には、病んだ孔明の宿星を厄払いすることで、寿命を延ばそうとする場面がある。
蝋燭を立てた祭壇の前で、七日七晩、死をつかさどる北斗七星に祈るのだ。
自分に見たてた蝋燭がその炎を絶やさなければ寿命が延びるのだが、
孔明の寿命は天命に定められたものとなったのだった。

「わからない…あるのかな…」

樹の脆さ。
それが愛しくてたまらない由紀子。
自分が守る。自分にしか守れない。

「イッちゃん、私は構わないわよ。嫌いあって別れる訳じゃないし。
それに、イッちゃんが愛せるのは私だけだって知っているから…」

「由紀子、私が他の人のものになってもいいの?」

自分が由紀子に何も相談せずに起きた今回のことを棚に置く樹。

「いいわけないじゃない。でも、私が愛せるのはイッちゃんだけだし、
イッちゃんも同じなんでしょ?それが変わらないのなら…私は良いわよ。
一生、イッちゃんのことを想って過ごすのも悪くないわ」

由紀子は本心からそう思っていた。
樹が婚約を破棄出来ないのなら、それを尊重しようと。
自分は樹しか愛することが出来ないだろうし。
それなら、樹との思い出を宝に、生涯独身で過ごせばいい。

「由紀子…私は…死にたい…」

「ダメよ」

「由紀子以外の人と一緒に暮らすなんて相手の人を不幸にするだけだし、
かといって、婚約を破棄すれば、今回の婚約を誰よりも喜んだ母親の寿命を縮めることになる。
由紀子と駆け落ちすることも同じ…」

「一緒にに死のうよ…死んで幸せになろうよ」

「死後の世界を信じていない樹の言葉とは思えないわね」

由紀子の顔から自分の顔を背ける樹に由紀子は言葉を投げつける。
死ぬなんて許せない。それだけは絶対に。

「死んで幸せなんかになれないわよ。生きて幸せになるの。
一緒に暮らさなくても、私達の絆は切れないし、離れていても、二人は一緒なのよ。
樹が周りのことを考えて、結婚をするというのなら、それに反対はしないわ。
あなたは私だけの人だもの。友達として堂々とあなたの新居に行くわよ。
そして、あなたには私だけだってわからせてあげる。こうやって…」


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