〔2〕
腕のあたりから伝わってきていた早い鼓動が、
だんだんおさまってきている。私は、
彼女が落ち着き始めているとを知り、
声を掛けてみた。
「まだ泣きたい?」
なんの反応もかえってこない。もう一度掛ける。
「どう、私の家この近くだけど、こない?」
このまま彼女を帰すのは、私の良心がうずく。
落ち着いているようだが、まだ、涙は止まりきっていないようだし、
一人にはしたくなかった。
私を掴む手に力が入る。私はそれを肯定の返事と受け取った。
「よし、決まりね!ほい、チェス行くよ!」
少し強引かとも思ったが、彼女の肩を抱いて、
ベンチから立たせると、川を背に向け、
住宅地の方へと向かっていった。
先に歩く彼女と私の後を、チェスが
「へッへッ…」と舌を出しながら歩いてくる。
幸い、私の家までにつくまで、
誰ともすれ違うことはなかった。
「ねっ、近いでしょ。さぁ、あがって」
玄関を空ける。先に彼女に入ってもらい、
靴を脱ぐのを確認する。
「チェスを返してくるから、リビングにいて。
突き当たりのドアを開けた所だから」
うなずく彼女にうなずき返してから、
ドアを閉め、隣の家に向かう。
チェスは、私が飼っている犬ではない。
犬好きだが、犬を飼っても、仕事柄、あまり手を掛けられない。
当然、私にもその子にもあまり良い影響を与えないだろうし、
自分では飼わないことにした。そのかわりではないが、
隣の老夫婦の所のチェスを、休みの日に散歩に行かさせてもらう。
彼女が不安がるといけないと思い、
チェスが止めるのを振り切り、すぐに自宅に戻る。
リビングに入ると、彼女はベンチの時と同じように、
スポーツバッグをひざの上に置き、
目の焦点があっていない感じで、
テーブルのあたりに視線をやっている。
ただ、涙は流していなかった。
彼女の隣に座る。
「帰りたかったら、帰っていいのよ。
ここには無理矢理私が連れてきたんだし。
ただ、あなたがまだ泣き足りなさそうなのが気になって。
ここなら誰もいないし、思いっきり泣けるわよ。どうする?」
判断するだけの思考能力が今あるとは思わなかったが、
断りを入れておく。少なくとも、彼女の涙の堤に穴をあけられたらと思った。
「兵藤さん…」
私は驚いた。彼女が表札を見ているとは。
(案外しっかりした子なのかも)
「なに?」
「…初めて会う方に、ここまでしてもらって、正直、戸惑っています」
「まぁ、それが当然だと思うよ」
「でも、不思議なんです。兵藤さんと、今あったばかりなのに、
なぜか安らぐんです。すごい、落ち着けたんです」
「わからないわよ。安心させといて…かもしれないし」
「兵藤さんはそんなことしません!」
彼女の顔をよく見ると、再び彼女の目に涙があふれようとしている。
「私を信用してくれたのは嬉しいわ。ほら、また胸を貸してあげるから、
思いっきり、泣ききっちゃいなさい」
そういって、両手を広げ、「受け止めます」状態をつくると、
彼女は再び私の胸に飛び込んできた。
さっきと違うのは、彼女は大声を上げて、
感情を全て表に出していた。泣き叫んでいた。
肩を震わせ、私を掴む手にものすごい力を入れて。
この子に起きた何かに対して。
私はさっきと同じように泣かせるままにしていた。
泣きたい時は泣くべきだから。
このままずっと泣きつづけるとしても、
付き合うだけの決心はすでにしている。
彼女は、涙を枯らすことなく、しばらく泣きつづけた。
涙が私を濡らすのを感じながら、
そのつらさを我が身のことのように感じながら、
一緒にいることで、少しでも彼女の気持ちが
軽くなることを願いつづける。
その状態がどれくらい続いただろうか。
彼女が、私に再び声を掛けて来た時、
部屋は暗闇に包まれており、窓から入る街灯の
明かりのみが私たちが感じられる光となっていた。
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