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恋愛適齢期 /
Something's Gotta Give /
Was das Herz begehrt

副題: 分かりにくい話

Nancy Meyers

2003 USA 128 Min. 劇映画

出演者

Jack Nicholson
(Harry Sanborn - ラップ系レコード会社のオーナー)

Diane Keaton
(Erica Barry - ニューヨークの舞台作家)

Keanu Reeves
(Julian Mercer - エリカの別荘の近くの医者)

Frances McDormand
(Zoe Barry - エリカの妹)

Amanda Peet
(Marin - エリカの娘)

Paul Michael Glaser
(Dave - エリカの前亭)

Rachel Ticotin
(Dr. Martinez - ニューヨークの医者)

見た時期:2004年7月

ストーリーの説明あり

人形町界隈の人や私のように現在という時間がまだ自分の手の中にある人間には、恋愛適齢期の前提が理解しにくいのではないかと思います。主人公の女性エリカはニューヨークという世界的な町で成功した舞台劇の脚本家。まだかなり売れている人。お金もあり、成人した娘もおり、離婚後も仲良くしている前の亭主がおり、側にいてくれる妹もおり、何不自由無い生活をしています。よりによってこういう人物が、自分の恋愛適齢期はもうとっくに過ぎたと固く信じて生きているのです。それでも脚本は売れている、受けているということですが、いったいどういう話を書いているんだろう、いったいどこからテキストをひねり出すのだろう・・・。アメリカなのでアップルを使ってテキストをひねり出しています。ドイツでは使っている人は少ないですが、アップルはあまりフリーズしないという評判なので、物書きにはいい仕事道具かも知れません。

★ あらすじ

物語は誤解から始まります。娘のマーリンが年の離れた恋人ハリーと週末を過ごしに別荘へやって来ます。白人、63才のハンサムでもないおやじですが、ラップ系の会社を持っていて、大成功、(仕事の関係もあるでしょうが)若い人しか相手にせず、恋人は全員30才以下。レコード会社の社長となれば、寄って来る人は数知れず、63才でも相手に不自由しません。エリカの娘マーリンもそういう中の1人だったようですが、マーリンは歌手になる予定は無く、大人の男性に憧れたり好奇心にかられてのことらしいです。ルンルン気分で別荘に到着したまではいいのですが、母親エリカと叔母ゾエとはち合わせ。成人した娘のことですから「だめ」とは言いませんが、「もうちょっと年の近い人にしたらどう」と言いたそうな顔。

のっけに強盗と間違われ、娘の恋人としては母親にも叔母にも気に入ってもらえず、一悶着の後、取り敢えず家の客人として落ち着きます。いよいよこれからセックスという段になって、ハリーは心臓発作を起こし、病院に担ぎ込まれます。全編ジョークの連続なのですが、翻訳の途中でいくらかおもしろ味が失われた可能性があります。ドイツ語で愉快になるのは入院のシーンあたりから。医者に色々訊かれている時に、近くにマーリン、エリカ、エリカの妹のゾエが立っているので、ハリーは見栄を張って「ビアグラは取っていない」と言うのです。「ビアグラは心臓発作のために投与するグリセリンと組み合わせると命にかかわる」と言われ、ハリーは慌てて点滴の針を引き抜きます。その後最後まで至る所に中年老人ギャグがちりばめてあります。

ここでチラッと登場する医者がキアヌ・リーヴス。マトリックスの後こういう作品に出演するのは戦術上とてもいいです。あの人間とは思えない3作で出来上がってしまったイメージをわざわざぶち壊す必要はありませんが、あれだけに固まってしまっては行けません。自分の役に殺されてしまう俳優が多いですが、リーヴスはマトリックスの直後に、普通の青年を演じています。変てこりんな黒装束は着ていませんし、無論空を飛んだりはしません。

「暫く医者の目の届く場所で安静にするように」との指示で、ニューヨークに帰るわけにいかず、近所に自宅はないので、ハリーはエリカの別荘に居候することに決まります。マーリンは仕事があるのでニューヨークに帰ってしまい、派遣された看護婦は即刻首にされ、エリカがハリーの世話をする羽目になります。エリカは自立した女性。ハリーの男尊女卑的な発言や生活態度は全然気に入りません。ハリーは要約すると脂ぎったマッチョのウーマナイザー。エリカはかつて美しく魅力的だった花で作った押し花のような状態。

★ 台本はまあまあ

いろいろいちゃもんをつけたいですが、脚本が上手く書けていることだけはプラス。筋には落第点をつけたいですが、枝葉のテキストやジョークでしっかり最後まで持たせるような台本です。自立した、解放された女性を自負するエリカですが、良く見ていると《つい》甲斐甲斐しくハリーの世話をしてしまうのです。頭ではガタガタ文句を言いながらも、ここで断ったら世間ではどういう風に見えるかつい考えてしまったり、不健康な生活をしているハリーからタバコを取り上げたりと、つい昔の習慣が先に出てしまうのです。

《30才以下の女性しか相手にしない》と豪語しているハリーは、世話好きの女性は嫌いなのかも知れませんし、30才以下では《甲斐甲斐しく・・・》という人はいないのかも知れません。ハリーはエリカの取る態度にやや戸惑いながらもまんざらではない様子。2人とも表に大きく出している看板に反して、昔ながらの男女の関係に徐々にはまって行きます。

ドイツで解放された女性を見ていると似ているなあと思います。1968年を境に大きく女性の進出を言い出したまではいいのですが、生まれてから学生になるぐらいの年齢まで親から受けていた教育を無視して大風呂敷を広げてしまったのです。背伸びし過ぎて倒れてしまったようなケースが多いと思えます。自分たちが育った環境、習慣からそう簡単に抜けられるものではないので、戦前、戦後すぐ生まれた人たちは自分が家事や子育てをいきなり放棄する世代になるのではなく、自分の子供が家事、子育て以外に必ず社会の動きに目を向けるよう薦め、女の子が学校に行きたい、仕事をしたいと言い出した時に賛成するという姿勢を打ち出すべきだと思っていました。女性が男性の真似をすればいいというものではありません。家事などはできた方ができないよりプラスになります。1人で放り出された時でも自分で買い物ができ、食事が作れるというのは大いに役にたちます。次の世代は親の世代よりさらに前に進み、職場での女性の割合も増えて行くでしょう。職場で起きる摩擦にも徐々に慣れて行くでしょう。この世代は、手にした権利を再び失わないようにするべき。そうすれば次の世代は男女がどこへ行っても半分ずつという状況に慣れるでしょう。いきなりガラっと変えてしまうと、その世代の男性が変化に納得しない、ついて来られないなどで、必要以上の摩擦も起きます。女性革命を起こした人たちは一旦やってしまえば後は自然に良い方向に動くと楽観していたきらいがあります。ドイツに比べると日本の主婦の方が一見主婦などという古い商売をやっているように見えながら、実質では男性を納得させてから先に進む傾向も見えます。

★ 納得する場所が違う

この作品を見ていると、その辺の背骨、方向がしっかりしておらず、ただ単に50代の女性が散々解放運動などを体験した後、昔式のさやに収まり、当時の価値観で適正とされる年齢のパートナーを得、結局それが幸せなのだという納得の仕方が見えます。そしてキートン演じるエリカがラップのレコード会社の社長をしているハリーが浮気をしたと言って、ひどく傷つくシーンには驚きました。エリカ自身ニューヨークの芸能界に関わる仕事をしている人。50を過ぎそういう世界に生きる人が50年前の小娘のように傷ついてしまうのはちょっと脚本に無理があるのではと思います。彼女は50年前小娘だったのは確かですが、色々な時代を行き抜いて成功した女性ではなかったのか・・・。

せっかくの話が・・・と残念だったのがキアヌ・リーヴスとの恋愛。図々しく反省の色のない男尊女卑男ニコルソンとのやり取りは元気で楽しいのですが、そこへ現われるのが好青年ジュリアン。ハリーの面倒を見る医者です。ドイツ語の翻訳では彼の台詞がつきなみだったのですが、ここにももしかしたら何か愉快な台詞があったのかも知れません。彼は30代で独身の医者。プライベートにはエリカの劇作のファンだったものですから、エリカの知り合いが入院したのを知って俄然エリカにアタックして来ます。どうも身持ちのいい男性らしく、看護婦をつまみ食いしたりという習性はありません。ニコルソンが医者だったら、病棟の若い看護婦は危なかった。ハリーを最初エリカの夫か恋人と間違い、それが娘の恋人と分かったものですから、デートを申し込みます。

ここで独身、自由の身のエリカはためらう必要ゼロ。しかし彼女は恋人関係になるのには反対します。その時の理由が世間体らしいという点が行けません。ジュリアンの性格や趣味がエリカに合わないというのですと納得しますが、その辺の問題が無く、マザコンでもなさそうなジュリアン。なぜためらうのかと映画を見ていていらいら。せっかくのチャンスは掴むべき、相手がキアヌ・リーヴスならなおのこと・・・。この人は皺や白髪がどうのとは言いそうにもない・・・。チャンスが向こうからやって来たのに・・・。

この辺アメリカの方が難しいんでしょうか。ドイツはあまりその辺ためらいがありません。20近くの年齢差というのは確かに少ないですが、時々そういうカップルはいます。10才以内の差ですと、北ドイツではわりと一般的。南ではやや少ないです。とはいえ、かつての日本のような男が年上という固定観念のある国から来ると、やはり最初は戸惑います。私も最初そういうカップルに会うと、《この2人は何か特別な理由があって》と思い込んでいました。それが本などを読んでみても結構昔の話に女性が年上のカップルなども出て来るので、徐々に慣れて来ました。

ただ、キアヌ・リーヴスのようにエリカの人格と能力を全面的に認めてという素敵な状況はそうそう多くありません。ドイツの人は相性が良ければ年齢が障害になると考えないだけ。エリカは年齢にあまりこだわりがないのに加え、自分の人格をここまで尊重してくれる人に出会ったのですから、有頂天になってもいいはず。それが一生懸命断る理由を探し始めるのです。もったいない。結局アメリカの社会はそれほど自由ではなかった、女性はそれほど解放されていなかったということなのかも知れません。恋愛適齢期は女性解放を応援しているのか、女性はやはり年上の男を選んで、ある程度花を持たせろと言っているのか、男より年の行った女と結婚するのは何かに反していると言いたいのか、監督の意図がどこにあるか分かりにくかったです。

リーヴスは気の毒にも振られてしまうのですが、役どころとしては好青年。ピエロをやらされているのはニコルソンの方。しかしそれをばねにして個性をしっかり発揮する、そういう脚本です。前回メル・ギブソンのおもしろい面を出させるのに成功した監督ですが、ニコルソンにも俳優としての色々な能力に加えファッション面でも素敵な面を出させています。

ニコルソンぐらいの大物俳優というとアル・パシーノが思い浮かびますが、ニコルソンの方が1枚上手だなあと思います。彼がどのぐらい上手かは作品を見ていただくとして、ステテコ、パジャマ、寝巻き姿のシーンと上手に対比させ、カッコ良くスーツで決めて来るシーンもあります。

キートンはベテラン俳優という点は認めますが、ニコルソンと対決するにはやや力不足。ニコルソンのエネルギーはお腹から出ているように見えるのですが、キートンは上っ面をかすめたように見える時があります。長いキャリアがあり、監督などもできる人なので無能ではありませんが、画面に才能を持ち込む力が不足。

最後のパリのシーンは先が見える演出。パリにエリカが1人で来ているのではないのがすぐ分かり、最後身を引くのが誰かもわりと簡単に分かります。探偵物ではないのでそれは構わないのですが、2000年代に入ってこの決着のつけ方では、女性が自ら昔に戻れと言っているようで、あまり後味が良くありませんでした。それでも一見の価値のあるシーンが色々出て来ます。見て損ということはありません。

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