映画のページ

Ken Park

やや大人の反抗映画

Larry Clark / Edward Lachman

2002 USA/NL/F 96 Min. 劇映画

出演者

Tiffany Limos (Peaches)

Julio Oscar Mechoso
(ピーチスの父親)

James Ransone (Tate)

Harrison Young
(テートの祖父)

Patricia Place
(テートの祖母)

James Bullard (Shawn)

Seth Gray
(ショーンの弟)

Eddie Daniels
(ショーンの母親)

Mike Apaletegui (Curtis)

Adam Chubbuck
(Ken Park)

Loranne Maze
(ケンのガールフレンド)

Stephen Jasso (Claude)

Wade Williams
(クロードの父親、失業者)

Amanda Plummer
(クロードの母親)

Maeve Quinlan
(Rhonda - 主婦、ショーンのガールフレンドの母親)

Shanie Calahan (Hannah)

Larry Clark
(ホットドッグ屋)

見た時期:2004年5月

日本でも公開されたのかも知れませんが、セックス関連のシーンがリアルに出てくるため、ノーカットでは公開しにくい作品です。ベネチア映画祭に出たらしいですが、その頃から配給し難い作品だという評判でした。日本ではどういう扱いになったんでしょう。見た後では、それほど問題作ではなく、むしろ静かに、淡々とアメリカの家族の様子を語っているという感想になりましたが。

ドイツではインテリの人が来るような館での公開が決まったようで、テーマのまじめさが伝わったようです。海外の巷ではあれこれ騒がれたらしいのですが、ドイツで配給に力をつくした人がわりと淡白に解説していました。「これはモラリストの作った作品だ」というのがその人の言葉。見終わってなるほどと思います。アレックスなどと違い、あまり制作の意図に賛同しませんでしたが、《誰かがこういう作品を作った》、《それを見た》、《別に文句は無い》、という感じです。

暗い話で、スキャンダル性もあり、性表現は日本などに行くと、大胆だとか言われるかも知れません。ドイツに長くいてドイツ人っぽい視点で見ると、蛋白だと感じますが。ポルノとはっきり一線を画しているのは、《ストーリー上ここでセックスのシーンが出てもおかしくない》という風に、ある程度出す理由があるからです。興味本位や遊び半分で撮っているのではありませんし、セックスを描くためにわざわざ作った映画でもありません。

俳優には新人が多く、アル・パシーノ他有名俳優の《演技をしているぞ》という役者臭さがありません。ストーリーを監督が説明して、その筋を納得して、若者が主人公になったつもりで動いているという印象の方が強いです。あと1歩でドキュメンタリー映画です。

話が暗いのは暗い境遇を作り、並べてあるからです。これは映画なので1時間半ほどの間に主人公に集中的にこういう出来事が起きているのだとも言えますが、日常生活にこういう話は結構多いのではと思わせる自然さがあります。ドイツ語で Dunkelziffer (直訳: 暗い数字)と言いますが、《統計数値の陰に隠れて見えない実際の数》は以外と高かったりするのではないかと思わせるような説得力があります。

ざっとストーリーの説明に行きます。話を先に聞いてから映画館に行っても探偵物ではないので、さほど「ばれる」という話はないです。それでも知りたくないという人は退散して下さい。目次へ。映画のリストへ。

★ 登場人物

カリフォルニアの小さな住宅街。近所は皆裕福でないけれど、ホームレスになるほど困窮してもいない地域です。皆取り敢えずは家を持っています。そのうちの5人ほどが中心になり話が進みます。

母親が死んで父親と2人で暮らしている少女ピーチス。父親は信心深いですが、娘のボーイフレンドが遊びに来ると、生前の母親の写真を見せたり、和やかな雰囲気です。

クロードの母親は臨月に近く、父親は失業中。クロードはスケートボードが大好きですが、父親は(男らしい?)重量挙げをしろと薦めます。息子が消極的な性格なので、もしかしてゲイなのかとふと疑ったりします。

もう1人もスケートボードが大好きな少年。ケンはつい最近ガールフレンドから妊娠したと打ち明けられます。堕胎するか生むかで迷っている彼女。打ち明けられたケンも一緒に迷います。この少年の名前が映画のタイトルになっています。

ショーンにはかわいいガールフレンドがいますが、ついでにその美人のお母さんもものにしてしまいました。昼間父親がいない時にショーンはお母さんの方とお楽しみ。2人の需要と供給が合ってしまったのです。

怒れる少年テイト。何に怒っているかと言うと、両親でなく祖父母と一緒に暮らしていること。世代が違うためか、そういう家なのか、祖母はノックもせずに急に部屋に入って来たりします。自分のかわいい孫だからかまわないと思っている祖母と、セックスなどにも大きな関心のある年齢に入っている少年では話が合うわけがありません。少年はしょっちゅう頭から湯気を立てて怒っています。

★ 話の展開

という風に小さなどこにでもある町の若者の風景が描かれて行きます。あと1歩で退屈して欠伸が出るところ。物語はしかし妙な方向に進んで行きます。そう言えば冒頭ショッキングなシーンで始まるので、あれは何だったんだろうと疑問に思い続けている観客もいるはずです。

のっけにタイトルの少年ケンがスケートボードで公園に来て、他の少年が楽しそうにスケートボードをやっているど真ん中で頭を撃ち抜いて自殺してしまいます。これと、ポスターの(3人セックス)シーンと、退屈な町の様子、一体どこで結びつくのでしょう。

ちゃっかり母親と娘の両方を取ってしまったショーンは母親ロンダに恋をし始めたと感じ、ちょっと彼女の方にも聞いて見ます。話しているうちに、2人の間にはセックス以外は何の関わりも無いことが分かり始めます。こういう関係を続けながら、時にはガールフレンドの両親に家に招かれ、父親、自分が寝取った母親、本来のガールフレンド、最近生まれた小さな妹と一緒に食事などもします。何だか虚しい。

母親が臨月、父親が失業中のクロードは父親と全くそりが合いません。愛用のスケートボードは父親に壊されてしまいます。ここで父親に反抗的な気持ちを抱くのは普通ですが、この家では感情というものが何年も前から化石になってしまっています。父親は体を鍛え、ビールばかりを飲んでいます。友人と夜町に出て、友人が女を買おうと言い出しても、父親はその気にならず、家に戻ります。目は据わってしまって、周囲の人間が何を感じているかを感じ取る力はとっくに消え失せています。人生はビールと重量挙げだけ。それも木更津の少年のように楽しく友達と一緒に飲むのではなく、ただただあおるだけです。臨月の母親の方も子供が生まれるというのに、周囲の環境と自分の間に分厚いクッションができてしまっていて、周囲の様子がこの女性の頭の中に情報として入って来るまでに頭の方がもう麻痺しているような目つき。人生はどうでも良くなっているかのようで、目先の事すらぼーっと見ているだけです。麻薬をやっているとかいうのではありません。ドラッグやアルコール無しでも人間はこういう風になれるのだと分かるとうれしくありません。

娘のボーイフレンドもにこやかに迎える信心深いピーチスの父親。ほほえましい家族だと思っていると、パンチを食らわされます。父親が母親の墓参りに行っている間に、年頃の娘はボーイフレンドを自室に引き入れてセックス。興味深々の年頃です。刺激をというのでちょっとサドマゾの真似をしてみます。しかし2人は本当のSM人種ではなく、ルンルン。ところがそこへ運悪く父親が戻って来ます。一悶着あるのは仕方ありません。娘は母親のように結婚するまでは処 女でと思っている父親、時代はずっと先に行っているのだから自分もと、婚前交渉に抵抗のない娘では話が合うわけはありません。

次のシーンでは殴られていたボーイフレンドは殺されることも無く無事消えています。ああ、よかったとほっとしたのもつかの間。ここからとんでもない展開になります。お説教は全部聖書を引用。この人は聖書を丸暗記しているかのようです。遂には母親の結婚衣裳を持ち出し、娘に強制的に着せます。そして 始めたのが自分と娘の結婚式。牧師の言う台詞も自分で言います。全編のセックスシーンなどに惑わされず冷静に見ると、このシーンが1番恐いです。

順序不動。映画ではこの順序で出てくるわけではありませんが、このページでは最後になるのが、テイト。怒ってばかりいる少年です。親や祖母など一緒に住んでいる身内が四六時中ノックもせずにドアを開けて入って来ると、別にその時都合の悪いことをしていなくても腹が立つものです。私の家でも両親の50%は、子供がティーンになった時部屋に鍵をつけて、子供に鍵を閉めてもいいと言うような親、残りの50%は子供からその鍵を取り上げて、絶対にドアを閉めさせないような親だったので、中には子供でももう自分の部屋は自分で管理しろという親もいるのを知っています。しかし残りの50%が違う意見だったので、親子の間に距離を起きたがらない親も多いというのは知っていました。テイトの家には子供との間に距離を置きたくないという意見しか無かったようです。祖母は無頓着に好き勝手な時に入って来ます。

それで祖母に対してすでにかなりの反感を募らせていたテイトですが、今度は祖父の番。スクランブルというゲームをしている最中にインチキをやるのです。辞書にも載っていない言葉を勝手に思いついて、それで得点を稼ごうとします。私も祖父母と同居していた時期があるのですが、テイトがなぜこうも腹を立てるのかよく分かりませんでした。老人だから、楽しくあそばせてあげればと思います。ちょっとぐらいいんちきしたって目くじら立てるほどのことは・・・と思えるのは、うちには祖父母のほかに両親もいたからかも知れません。その上他にも兄弟がいた。その上従姉や伯父、伯母も時々遊びに来ていた。テイトは祖父母と自分だけの3人暮らし。セックスにはとっくに無関心になっている親代わりの祖父母と、ちょうど今大いに興味もあり、エネルギーも十分というテイトでは話が合うわけは無いのでしょう。その上、テイトはガールフレンドとの普通のセックスでなく、1人で安部定の愛人の方向へ・・・。このシーンはちょっとあくどいと言うか、えげつないと言うか。日本ではこのシーンの公開は問題になるでしょう。見ていて気持ちのいい物ではありません。しかし話のこの部分にこのシーンが出て来ることには説得力があります。それにしても周囲にテイトに関わってあれこれ言ってくれる人が、祖父母しかいなかったというのが不幸。家族の価値というのは、好きであっても嫌いであっても、周囲に色々な人がいてあれこれ言うので、子供が《人生はこれ1つではない》と感じる、この点にあると思うのです。色々子供の時に我慢しなければ行けない事があると、大人になってから前にできなかった夢を実現させようという気持ちにもなります。するとティム・バートンやニック・パークが生まれるのです。テイトの人生はそういう風に行かなかった・・・。

見ようによってはかなりえぐい映画ですが、ドイツでは公開対象の年齢がきっちり分かれているので、観客からはクレームがつきませんし、見せられた人がこれをどう解釈するかが話題になったりはしません。ただ、美しいセックスシーンというのを期待している人は大いに失望します。現実というのはこういうものなのか・・・、それほど見たく無かったなあというシーンもあります。

この映画のコンセプトは現実的なシーンのモザイク。それを通して現代社会を描いています。成功していると言えます。現実からやや逸脱かとも思えるのはこの後のテイト。レッド・ドラゴンのレイフ・ファインズを思わせる姿で、就寝中の祖父母を襲い、殺害してしまいます。怒りがそのぐらい積もっていたのだろうとは思いますが、皆が皆それだから人を殺すかというと、そういうものではありません。

★ 祝福

自殺1人、殺人1人ですが、残りの3人は家を出て一緒に暮らし始めます。3人のセックス・シーンがあるので、これまたセンセーションと騒がれそうですが、話の進み具合から言うと、死なないで良かった、問題の親から離れて良かったと、変に祝福したくなるシーンです。

実は重量挙げの父親は夜息子のベッドにもぐりこみ、性的にいたずらをしようと試みます。結構大きくなっていた息子は父親に比べ痩せていますが、猛烈に抵抗。暫くして、鞄を持って家出です。奥方がなぜあそこまで人の感情に無関心になってしまったのか、謎がチラッと解けたようなシーンです。きっぱり決心をして家を出た息子は決心ができて運がいい、とこれまた変に祝福したくなるシーン。

父親と結婚させられてしまった娘がその後どうなったのかは画面に出ませんが、新しい共同生活にはピーチスも加わっています。若者が3人でセックスをしていて、それまでの生活に比べればずっといい、と変に祝福してしまうのです。

★ 感情の化石化

はっきり言えるのは、この作品が《まだ人間の感情を持ったティーン》と《感情が麻痺してしまった大人》の対立という形で描かれている点です。この大人たちもかつては、感情豊かなティーンだったわけですが、もうその当時の記憶はない、すっかり化石化してしまっているのです。若者の生き残った確率が60%だった、犯罪者になったのが20%、死んだのが20%というのも考えさせられる数字です。

子供は親の元で育てるのが1番いいと私も思いたいです。親のいない子供はいつも《自分にも親がいたら・・・》という気持ちにとらわれます。じゃ、どんな親でもいいのかと言うと、ここに出て来るような親では幸せは望めません。これならきちんとした孤児院の方がいいではありませんか。それじゃ、悪い親の見分けがすぐつくのかと言うと、この退屈な町で象徴されているように、上辺は平和な住宅街。見分けはつきません。その上、この映画の主人公のようなはっきりしたトラブルが無くても、家庭内のトラブルはいろいろあります。そして子供の傷つき方も人によって色々。そういう事まで考えさせられる作品です。興味本位やセンセーションを狙った作品ではありません。子供の反抗する気持ちを描いた作品です。

これを見ていてふと思い出したのがスパン。インディペンデンス風なところはよく似ています。世間に反抗する若者のあまり美しくない姿を現実的に描いたという点も共通しています。違うのは監督の視点。反抗する若者というのはマーロン・ブランド、ジェームズ・ディーンの時代から映画界が好むテーマです。若者の共感を得られ、観客が映画館に来て金が儲かる。一般的には監督は反抗する若者の立場を取り、あっけなくショットガンにやられて死んでしまう男、大人をやっつけて溜飲を下げる若者、あるいは青春の苦い面を知って複雑な表情で終わる作品などを出して来ます。

ケン・パークはここがやや違います。監督は立場としては若者の方を中心に撮っています。そして時々すっかり自分たち2人で満足し切っている老人の姿、娘のボーイフレンドと情事にふける以外の時間は必死でキッチンをピカピカに磨く主婦、主婦だった母親の死後もアパートを清潔に保っている父親など大人の様子を、怒れる子供の批判的な目とはちょっと違った視点で撮っています。けちょんけちょんに批判するわけでもなく、擁護するでもなく、突き放すでもなく、最初何を言っているのかよく分かりませんでした。深読みだとの批判を覚悟で言うと、十代の時に批判的だった若者が、なぜいずれこういう大人になって行くのかを考えさせられるシーンに思えました。そこまではっきり監督は言っていませんが。

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