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Aro Tolbukhin. En la mente del asesino /
Aro Tolbukhin: In the Mind of a Killer

Isaac-Pierre Racine /
Agustín Villaronga /
Lydia Zimmermann

2002 Spanien/Mexiko 95 Min. 劇映画

出演者

Daniel Giménez Cacho
(Aro、成人)

Zoltan Jozan
(Aro、ティーンエージャー)

Aram González
(Aro、子供)

Carmen Beato
(Carmen - 修道女)

Jesús Ramos
(神父)

Mariona Castillo
(Selma、ティーンエージャー)

Eva Fortea
(Selma、子供)

見た時期:2004年8月

2004年 ファンタ参加作品

要注意: ネタばれあり!

このまま読み続けると重大なネタがばれます。見る予定の人は退散して下さい。目次へ。映画のリストへ。

幼い子供を抱える母親と仲良くなり、彼女の家に泊まりに行き、その後家にガソリンで火をつけるというシーンが出ます。話の様子ですとそういう犯行を繰り返したことになっています。その女性を憎んでいるような様子は見られず、観客はなぜという疑問と共に残されます。

これだけでは何も分からないので、レポートはさらに過去にさかのぼります。

アロはハンガリーの裕福な家に男女の双子の1人として生まれ、母親とは早く死別。父親が母親の死を長い間隠していたので、子供は母親の死を知らずに暮らしていました。母親は部屋に引きこもっているということになっていました。姿を現わさないので、子供は2人だけで仲良く暮らしていました。それが男の子と女の子だった上、躾をするはずの母親は死んでいたためでしょうか、理由はともかく2人はティーンエージャーの頃に性的な関係を持ってしまいます。結果は娘セルマの妊娠。性格的にはセルマの方が自立していて、他所の町の学校に入ったりしますが、アロには精神的にセルマに依存するような面があったようです。2人の関係を女中が目撃し父親に報告したためにばれます。2人にやっては行けない事をしたという意識があったのかは分かりません。母親が死んでいたため目が届かなかったというのが2人にとっては不運だったと言えるかも知れません。

セルマの妊娠を知った父親は速やかに娘を結婚させてしまおうとしますが、パーティーの最中に事故でセルマの衣裳に火がつき全身に大やけど。これが原因でセルマは流産。セルマはこの傷から回復せず間もなく死亡します。

アロは忽然と消え、その後ハンガリー動乱になり、行方が分からなくなってしまいます。50年代の話。実は動乱の時には船員になって国外に出ており、紆余曲折の末、グアテマラに現われます。

この作品はドキュメンタリーの体裁をしながらフィクションも混ざっているので、全部を鵜呑みにしては行けないかと思いますが、アロの不幸な人生が哀愁を帯びて描かれています。神と結婚しているのに横恋慕された修道女が冷静に状況を語るシーンでは、救われない男アロの悲しみがにじみ出て来ます。アロが愛したのは修道女ではなく、修道女を通して死んだ妹を想っていたのです。自分以外の女性の名が出たり、1つの曲にこだわるアロを見て、カルメンはアロが自分を通して誰かよその女性を想っていることを感じていたようです。アロにとってはたとえ銃殺でも死は妹の所に行く手段、安らぎを得られるという描かれ方です。

初恋、しかも一生にただ1人愛した女性が自分の双子の妹だったというのが不幸の始まりですが、父親が母親の死を隠さず、再婚でもしていたら全然話は違っていただろうと思います。その上妹に精神的に依存していたため、アロはまるで影と実体が合わさって存在している人間の実体の方を先に失って、行き場をなくした影のようになっています。そこへ修道女が現われたので、代替の実体を見つけたかのようになったのですが、修道女は彼になびきません。せっかく子供を抱えた母親を見つけ、そこから新しい人生を踏み出す可能性もあったのに、妹が死んだ時点から先に踏み出せなかったというのも不幸です。妹の体に火がついた瞬間から先に出ることができず、あの事件を自分で何度も演出してしまったのです。運命は時として人をここまで苦しめるものだと妙に納得の行く作品です。

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