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Casshern

紀里谷和明

2005 J 142 Min. 劇映画

出演者

寺尾聰
(東光太郎 - 遺伝子研究者)

樋口可南子
(東ミドリ - 植物学者、東博士の妻、病弱)

伊勢谷友介
(東鉄也、キャシャーン - 東博士の息子、志願兵)

小日向文世
(上月博士 - 分子工学者、東博士の友人)

麻生久美子
(上月ルナ - 上月博士の娘、東鉄也の婚約者、幼馴染)

宮迫博之
(アクボーン - 新造人間)

佐田真由美
(サグレー - 新造人間)

要潤
(バラシン - 新造人間)

西島秀俊
(上条 - 陸軍中佐、将軍の息子)

及川光博
(内藤薫 - 貿易商社の社員)

寺島進
(坂本 - 陸軍兵士、鉄也の元上官)

大滝秀治 (上条将軍)

三橋達也 (医師)

唐沢寿明
(ブライ - 新造人間のボス)

見た時期:2005年8月

2005年ファンタ参加作品
以下はこの作品のみを見ての感想で、アニメなどは見ていません。

この年のファンタでは評価が3つに分かれ、最大限の褒め言葉と共に星印を大盤振る舞いする人、まあまあ、全然だめ、ありゃ何だという人に分かれました。数から言うと、褒めた人が2割ほど、だめという人が2割5分、残りがまあまあという評価でした。

腹立ったなあ、もう・・・。

のっけから暗い雰囲気で、それを最後まで通した作品。いったい何を訴えたかったのと聞き返してしまいます。世間の評価が《凄く良い》と《凄く悪い》に分かれたのも納得が行きます。

これだけの規模の人材、撮影技術を使って仕事をするのだったら、せめて観客に何が言いたいかを明確に示すべきではないかというのが私の意見の中心です。142分付き合わされ、出るか出るかと待っていても結局何も出て来ませんでした。それに比べるとテーマを絞ったイノセンスは作戦勝ち。

常識から言って、監督は戦争を奨励しようとして作ったのではないでしょう。勝手な推測ではありますが、戦争に反対の意思を伝えたかったのかも知れません。それにしては画面で軍国調が最初から終わりまで強調され過ぎ、口で何か言っても見せられるのは暗い兵器のシーンや破壊された世界ばかり。まだ(幸いにも)壊れていない隣近所を横目で見ながら、「監督は世界を最終的に映画の画面に出て来るようにめちゃめちゃにしたいのか」とかんぐってしまいました。

反戦を訴える映画というのは色々あります。ディア・ハンターにも過酷な戦場のシーンが出て来ます。前半の田舎の生活のシーンからあっという間にベトナムの戦場、しかも捕虜になっている兵士たちの苦しむ姿にシーンが変わります。あれを見ているのも楽ではありませんでした。しかしディア・ハンターでは「平和に逆行するのが戦争なのだ」とはっきりメッセージが伝わり、婚約者が行方不明になったメリル・ストリープの苦しみを通じて、被害者は戦地で撃たれる地元の農民、抵抗勢力、そこへ派遣されていった外国の兵士だけではないとはっきり分かるようにしてありました。

それに対し Casshern では皆が沈黙。口を閉ざすシーンが多いです。良く見ていると誰一人嬉々として戦争に参加したり、拡大を奨励したりはしていません。皆重苦しそうな表情。しかし誰一人はっきり反対の姿勢を取らず、だんまり。科学者は自分の方針が採用されるというので黙りながら協力。下層階級から上がって来て大きな会社を動かしている八雲ベッシー君は上昇志向最優先で、世界情勢よりそちらの方が大切。夫が学者で裕福な生活ができる女たちは悲しそうな目をしていてもだんまり。環境問題に関わっているとは言え、夫を説得しているわけでもなく、画面に出て来る限りでは自分の研究に没頭。抑圧を跳ね返したい新造人間たちはと言うと、これまた復讐心に駆り立てられ、相手をやっつけることしか頭に無い。台詞で何を言っても、画面が思考を圧倒してしまい、見終わった人に残るのは目で見たイメージの方。

Casshern などというタイトルがついていましたが、東青年が主人公という印象は残らず、頭に残ったのは戦争シーンや破壊された町のシーンと暗さだけでした。

もう1つ気になったのは、《これが悪》として出されているもの。ナチや第2次世界大戦までの日本軍を出しておけばいいという安易さが感じられました。出されたシンボルはナチのシンボルをアレンジしたような色、デザイン。アジア的な部分は旧日本軍を想像させるようになっています。ナチを出しておけばそれでいい、人間が小さな存在に思えるような大きな建物をドカーンと出しておけばいいという時代ではなくなっているのですが。

この傾向は Casshern に限ったことではなく、他の監督もよくやりますが、見る人はそこで足止めを食ってしまい、その前、その後の悪が素通りしてしまいます。ナチの成立、発展、崩壊には複雑な欧州、国内、アメリカの事情があり、大学教授が一生をかけて研究するようなテーマです。せっかくドイツでない国がナチの何がまずかったのかを考えるのだったら、戦争のやり方に悪い前例を作ってしまい、後続者が出るきっかけを作ってしまったという点も考えてもらいたいところです。なぜかその点を掘り下げた作品はまだ見たことがありません。

Casshern ではユーラシア大陸がECのように地域として一まとめになったという前提になっています。直接具体的には描かれてはいませんが、世界がいくつかのブロックになったという設定なのでしょう(ヨーロッパとユーラシアしか扱われていませんでしたが)。これは今後の世界の課題ですが、ロシアがアジア側に入るのか、日本が東アジアの連合に加わるのか、オセアニアはどこにつくのかなどタイムリーなテーマです。そういう連合に関連して一般人が夢見るのは国が国でなくなり、州のようなつながりになり、前よりずっと隣近所で仲良くする世界です。ところが Casshern ではそのユートピア的な夢が見事につぶされていて、大戦が50年続いているという設定です。ドイツ人はまだ参加していないイラク戦争にすでに嫌気がさしているので、Casshern を喜んで見る人が出るだろうかという疑問が出て来ました。

戦争に勝っていながら中身は敗者、勝利のメリットを味わっていないという皮肉も、観客にあまり効果的に伝わって来ていません。勝っても得るものが無かったという点をはっきりさせるために何か手の打ちようがありそうに思いますが、言葉で「勝った」と言われても視覚的には勝ったように見えず、まだ負けの奈落を落下中という印象になってしまいます。Casshern の弱点は語られる台詞と見せられる画面が別々の方向を向いていることではないかと思います。

視点をもっと小さい所に移し、東博士の境遇を考えてみます。彼は長い間自分の研究が事態の解決に適していると言い続けていましたが、誰にも相手にされませんでした。人間の体の部分を作り出すという技術は、地雷で足を失った人に代替の足を与え、弾丸が肺に当たった人には代わりの肺を与えるような方法のことで、やや違った形ではありますが現実の世界でも部分的に実用化されています。

先日事故に遭い大きな皮膚の損傷が生じ最新技術を持つ医療チームの世話になったのですが、以前なら何週間も入院となりそうな怪我でもあっという間に全工程の3割ほどが治ってしまいました(3割治ると保釈になり、制限はありますが、自由に動き回れるようになります)。損傷のあった部分にアップリケをするような具合で、他の場所から持って来た皮膚を張りつけ、ホッチキスで止めただけ。幸い提供する面積が足りたので私の場合は増産する必要がありませんでしたが、もし体全体の7割、8割などという傷を負った人がいたら、健康な部分から取った材料をラボで増産し、2、3週間経ってからそれを傷ついた部分に張りつけるという作業になります。それを繰り返して行くうちに健康な皮膚の面積が増えるという仕掛けです。これは SF ではなくて実用化されている技術です。フィクションの方の東博士はそれを皮膚だけではなく臓器、手足などに拡大しているという設定です。既得権を持った学者に阻まれせっかくのアイディアも採用されないままになっているというのが物語りの冒頭です。

立派な研究なのかも知れませんが究極の目的が私的で、大きな間口を広げドーンと飛び出したテーマが、尻すぼみになるとの印象がぬぐえませんでした。夫人が病気でその治療をしたかったのです。皮肉なことに彼の研究は夫人に使うより前に息子に使わざるを得なくなってしまいました。親子の反発からか息子は婚約者がある身で志願兵として前線に赴き、戦死。その彼を再生するのに研究を使うことになりました。さらに皮肉なのはこの青年、必ずしも生き返りたいとは思っていなかったのです。

皆から無視されていた博士の目の前に現われたのがベッシー君。一生懸命悪役をこなそうと努力していましたが、いかんせん、八雲さんのイメージも重なり、ずるい人間には見えませんでした。もう少し演技の勉強して悪魔のような男になった方がいいのか、それともせっかく持って生まれた楽しいイメージを大事に保った方が良いのか、役者になるのだったら難しいところです。それとも音楽の世界にとどまるか。私は明るく二枚目半で行ってもらいたいです。他の人がやるとわざとらしくなりそうなシーンでこの人は自然な笑いが取れます。宇野重吉の息子の寺尾聰は性格俳優のはずですが、その彼も Casshern ではあまり深い演技はしていません。そう言えば彼も音楽畑から来た人ですが、役者歴も長く、もう俳優と呼ぶべきでしょう。しかし今回は不完全燃焼。ですからベッシー君があまり悪人に見えなくても許してしまおう。

皮肉に次ぐ皮肉で、暗い映画は明るくなる望みもないまま続きます。私があまりなじめなかったのが東親子、東夫妻、そして東青年と婚約者の関係。日本人の父親と息子というのは欧米に比べ相手をとことんつぶすとかとことん支配するという関係に行かない傾向があります。木更津キャッツアイの床屋のお父さんのように息子の健康を陰ながら心配したり、タイガー&ドラゴンのやくざのように息子が前に進めるようにあれこれ気をもんだり、自分に逆らって反物屋になりたがる息子のために借金をしたり、ま、流行の話ばかりにこだわっては行けませんが、子供を支配という発想が無い人の方が多いように思うのです。ドイツに住んでいて男親と息子の葛藤をちょくちょく見かけるというか、日本のような路線を見たことがないので、Casshern の親子関係があまり日本的に思えません。結局最後まで見ると、東博士の妻はあまり夫と語り合わないし、東青年と婚約している女性も自己主張ゼロのタイプ。博士が良かれと思ったことを通しているという印象だけが前に出て来ます。それが環境破壊を心配する優秀な科学者という夫人のステータスと矛盾し、どうなっているんだろうという疑問が浮上。

監督が現状を反映しているつもりだったら悲しいことです。最近まで掛け声だけは大きかった女性解放運動ですが、経済破綻がはっきり見えるようになってからドイツでは家庭に戻らざるを得ない女性が続出。つい最近まで子供を生むことを奨励して各種の補助が出ていたのもどんどん厳しい状況に追い込まれ、女性が伝統的な役割に戻る例が増えています。それでも仕事に打ち込みたい人は子供を断念。しかしそこへ失業の波が襲ってくると、まず首を切られるのは女性です。私は女性が子供の世話などで家にいるというのも1つの形だと思うので反対ではありませんが、目と耳と口はしっかり開けて、社会生活に参加すべきだと考えています。知っていても黙ってしまうのはだめですが、見ない、聞かないようになってしまうのはもっとだめ。悲しそうな目をして無言で夫を見つめてもあまり役に立ちません。そこまで考えると、Casshern にはこの先どうするのかがはっきり打ち出されておらず、不満が残ります。

私は何でも最後まで見て文句がある時はブツクサ言う性質ですが、これほど負のイメージを見せられてしまい、冒頭に書いたような結論になりました。

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