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イノセンス /
Ghost In The Shell 2 - Innocence /
イノセンス: 攻殻機動隊

押井守

士郎正宗原作

2004 J 100 Min. アニメ

声の出演者

大木民夫
(荒巻大輔 - 公安九課課長)

大塚明夫
(バトー - 公安九課/攻殻機動隊
(内務省直属特殊部隊)所属、大部分が機械)

山寺宏一
(トグサ - 本庁から引き抜かれた刑事出身の男、大部分は肉体のまま、この事件ではバトーのパートナー)

仲野裕
(イシカワ - 九課の情報担当員)

榊原良子
(ハラウェイ - 検死官)

竹中直人
(キム - 身持ち崩したハッカー、バトーの昔の知り合い)

武藤寿美
(2052ハダリ)

田中敦子
(草薙素子 - 公安九課/攻殻機動隊元少佐、脳以外は機械)

見た時期:2005年8月

要注意: ネタばれあり!

見る予定の人は退散して下さい。目次へ。映画のリストへ。

2005年ファンタ参加作品

イノセンス: 攻殻機動隊はこの年のファンタでは評価が真っ二つに分かれ、最大限の褒め言葉と共に星印を大盤振る舞いする人と、「全然だめ、ありゃ何だ」と言う人に分かれました。数から言うと、誉めた人が3分の2ほどでした。

日本では 攻殻機動隊という部分はほぼ放棄して、イノセンスで通っているようですが、こちらでは Ghost in the shell / 攻殻機動隊の続編という風に考えられています。それだけ Ghost in the shell / 攻殻機動隊の評判が良かったのかも知れません。

以下はテレビ版などは見ずに書いています。

士郎正宗の漫画を押井守が映画化したそうです。Ghost in the shell / 攻殻機動隊は海外受けが良く、ドイツではカルト的存在です。まだアニメに関心が無く、高くも低くも評価すらしていなかった私ですら、ギブソン作の記憶屋ジョニイを映画化した JM より Ghost in the shell / 攻殻機動隊の方がおもしろいという感想を持ったことがありました。JM に日本のたけし、そしてわりと好きなキアヌ・リーヴスが出ているのにです。

ジャンルとしてまだ頭の中ではっきりアニメが意識されていない時期に Ghost in the shell / 攻殻機動隊が私の記憶に残っているということは、よほど個性があったのだろうと思います。押井守の作品では以前に Avalon もファンタに出ましたが、その時は上映中ずっと睡魔と戦っていました。

今年のファンタにはイノセンスCasshern が並びました。話題の両作品を1つの映画祭で見られるというのはうれしいことで、スケジュールが他と重ならないことを祈っていました。実は重なってしまったのですが、Casshern の再上映が急遽決まったので救われました。

両方とも SF だということで大いに期待していました。両作とも舞台がアジアだというのも気に入っています。ハリウッド映画などで欧米が舞台の作品はたくさん見られます。日本から来る作品が日本を始めとするアジアの土地を舞台に選ぶのは欧米人に取っては目先が変わっていいですし、私に取っては日本人が作るのだから地元を描くのは当然という気がします。

Casshern は久しぶりに日本人の俳優が見られるという意味でも期待していたのですが、それは外れました。監督の意図なのかも知れません。画面が暗く、俳優の顔にいちいち注意を払うことができません。それだけ監督は観客にはストーリーに注目してもらいたかったのかも知れません。

イノセンスはアニメなので俳優の顔がどうのという問題は起きません。画面は全体的に明るく見やすく、好感が持てました。美しい画面に気を取られてもストーリーにはちゃんと集中できます。前半から後半に切り替わる所でストーリーに直接関係ない豪華絢爛な画面を見せ、音楽で聞かせる美的なシーンが入ります。ここは十分長く時間が取ってあって、暫く思考を停止して雰囲気を味わうようになっています。事件捜査というストーリーには直接関係ありませんが、極東が文化的、社会的にどういう風になっているのかをそれとなく観客に伝えています。

ストーリーの全体の流れは
▼ 連続殺人事件捜査
▼ 舞台を移し、華麗な画面と音楽のインターバル
▼ 目星をつけた事件関係者との対決、証拠確保、証人救出
となっています。

これが表面的な流れで、その背後にずっと哲学的な、人間、人形の存在についての疑問が提示されます。時代は変わり、生物的要素だけでできた人間のみではなく、肉体の一部、あるいは大部分を人工的な物質で置き換えた半ロボット、半人間も混在した世界になっています。それがちょうど私たちが最大限生きて普通なら寿命をまっとうするあたりの年。あまり他人事と斜に構えていられません。

後記: どちらがどちらをパクったのかは判然としませんが、ターミネーター 4 に暗〜い話が出て来ます。

突っ込みを入れるとすれば、2006年の現在でも世界に人があふれ過ぎていると考えている人がいて、強引に減らそうとする人までいるのに、この先50年もしない時代に、人口問題はいったいどうなっているんだろうとは考えてしまいます。大怪我をした人の手足を機械で補うのだとすれば、人間の数がそれほど多くないのではと考えるのが当然の成り行き。ということは2006年以後、2050年以前に何か大きな異変があって、人口が減っているんだろうか、嫌だなあ、そんなの・・・と心配になってしまいます。例えば間に Casshern のような時代を経ているんだろうか・・・。「友達、身内は死んでもらいたくない」という理屈を拡大すると、「誰にも死んでもらいたくない」という風になるのが自然な感情だと思うのですが、甘いか。

後記: 事実、ニューヨークのビルが襲われて以降、大地震、津波、伝染病など1度にたくさんの人が死ぬ出来事がやけに頻繁に起きています。近年暗い内容の SF が多くなっていましたが、2001年以降はフィクションに追いつけとばかり、ノンフィクションの世界にこういう事件が増えました。

画面の方は全体的にはピクセル・アニメでなく、系統としてはクラシックなアニメ映画です。主人公が通りを歩くシーンなどではエイトマン鉄人28号などを思い出します。しかし冒頭の出演者、スタッフ紹介のシーン、上に書いたインターバルのシーンは豪華な凝り方をしていて、要所要所には非常に近代的に見える美しい画面が用意されています。クラシックな系統だとは言っても飽きる暇はありません。コンピューターで計算をして登場人物の動きを好き放題に柔軟に表現するタイプのアニメでないことを考慮すると、この種のアニメの究極に達したと言ってもいいかも知れません。ルパン三世などのアニメを見て、「楽しいけれど技術的にはこれ以上には行かない、あとはストーリーで勝負するしかない」と思ったこともある私に取っては、イノセンスのような方向に進み新しい画像を作り出したことは驚きとしか言い様がありません。

白い紙に墨の濃淡だけで豊かに情感を表現できる人もいますが、その同じ国に絢爛豪華に白梅紅梅の図を描く人もいる、あんな昔にそういう人が生まれる国だから、現代ピクセル・アニメでないメディアを最大限駆使して美しい画面を作る人が出てもおかしくないのかも知れません。日本人というのは個人の芸術家ではそれほど名の挙がる人が多くありません。複数の人が後ろで仕事をし、名前の出ない工芸という世界では世界一流の才能を持っています。どこかに制限を受けると、閉じ込められた範囲の中で却って他では考えられない物を生み出す力を持った人が出ます。アニメというのは絵ですから工芸品とは違いますが、イノセンスを見ていると、伝統工芸に負けない気合が感じられます。

ストーリーは後でご紹介しますが、一言でまとめるとただの刑事事件捜査なのです。時代が未来だ、ハイテクだ、刑事の体が大部分機械だというのが湾岸署や87分署の刑事と違うだけです。その上にクラシックな系統のアニメだと言われると、普通は何か規模の小さい、地味なものを想像してしまいます。ところが見終わるとたった今魔法から覚めたかのような、何かすばらしい世界を一巡して現実に戻ったかのような錯覚を覚えます。

使われている音楽もすてきです。伝統的な民謡風の発声の曲が何箇所か重要な所で流れ、また逆にモダンなジャズ風の甘くだるい歌声も流れますが、使い方が上手で心に残ります。そして、簡素なクラシックなアニメのシーンもあるのですが、細部にまでこだわった絵になるシーンもあり、例えば大立ち回りが起きるコンビニのシーンなどは見物です。1画面をそこからはずして壁に貼っておきたくなるような色彩、構図のきれいな絵になっています。井上さんに大分前に予告編を見せてもらったのですが、その絵を見ただけでうっとりしました。大スクリーンでなくてもいいですが、是非映画館で見ることをお薦めします。

ストーリーは Casshern の方は世界政治に関わるスケールの大きな問題、イノセンスの方は1つの都市の中で起きた犯罪事件ということで小さな話です。ところが見終わってみると、Casshern のストーリーは最後に個人的な次元までたどり着く尻すぼみになってしまい、イノセンスの方はバトーの個人的な感情から世の無常という大きな次元に上がってしまいます。そして私の心には1人(1台)の捜査官(捜査機械)から大きな悲しみが伝わって来るのです。Casshern が上げ底だったのに対し、イノセンスは大げさにならないのに話が深い所に向かって行きます。

ただの捜査だったはずの話が進むに連れ深くなって行くというのはブレードランナーと似ています。ブレードランナーは処分されるべきロボットを追う捜査官の話でしたが、期限が切れた時に止まる(死ぬ)べきロボットが予定より長い命を望むところから事件に発展して行きました。普段名優とは言えないルトガー・ハウアーが一世一代の演技で人生を愛しながら死んでいくロボット、ロイ・バッティーを演じていました。その上ロイを追って処分するリック自身がロボットかも知れないという疑いが出てのショーダウン。なかなか凝った作りでしたが、イノセンスと共通する余韻が残り、見終わった後で人は考え始めます。そう言えばブレードランナーの冒頭にもアメリカなのか香港なのか分かり難い中国風の町並みが出て来て、エキゾチックな趣を添えていました。

イノセンスはバトーの日常生活の中から悲しみがそれとなくただよいます。俺も、あいつも、彼女もサイボーグ、体の一部、大部分が機械。中にはネットの彼方に消えてしまった人までいます。一方でなぜそこまでして生存するのかという疑問が浮かびます。他方で子供を生む代わりにペットの人形を買う人が多い世の中になり、そちらにも疑問が。人形については全編で哲学とも取れる理論が展開されます。

話をストーリーの冒頭に持って行きましょう。犯罪捜査は未来の世界で内務省の公安関係者が事件を追うというパターンで展開されます。舞台は日本だろうと思われる東アジアの国の都市。攻殻機動隊 (1) が出た頃にはまだモデムが使えるザウルスなどが新製品のような扱いでしたが、その後日本では公衆電話でもモデムが使えるようになったりして、攻殻機動隊 (1) が当時近未来の実生活の予告をしたかのようになっています。ちなみにドイツの公衆電話は発展が遅いようです。2人の刑事 - あるいは2台の刑事ロボットと言うべきなのでしょうか、ま、ここでは2人と言いましょう - 2人は犯行現場に赴き、その後担当官から検死の代わりのロボットの構造分析を聞き、犯人とおぼしき人間を追って行きます。

捜査官のバトーとトグサが公安9課の上司に言われて捜査をしているのは、人形(ガイノイド)が持ち主を襲う事件です。ペットとして設計された特定のモデルで、アンドロイドの女性版です。それがなぜか狂い、持ち主を殺害する事件が1週間に8件起きていました。持ち主を殺した後、人形たちは自滅します。

イノセンスのストーリーの中心に出て来るのは、加害者に当たるガイノイド、捜査陣側では脳が自前で体のほとんどが機械のサイボーグになっているバトー、そして体の大部分が自前で脳だけが人工のトグサの3種類です。ガイノイドとアンドロイドは男女差があるだけで同じ物をさしますが、バトーとトグサを同等に考えていいのかは私には分かりません。また、サイボーグというのを心臓のペースメーカー、義足、義手を極限まで拡大したものと考えていいのか、あるいはそれをさらに越えたものと考えるべきなのかも難しいところです。義足や義手をつけているだけの人は脳の思考・記憶内容を他人と共有しませんからね。イノセントでは極端な事を言えば、脳に記憶されている内容の共有、入れ換えも可能らしいのです。

ガイノイドは人間を襲わないような設計になっているはずだったので、今起きている事件は実は大変な出来事です。イノセントにもアシモフのロボット三原則が出て来ます。あの《人間に危害を加えず、命令に従い、その範囲で自分自身を守る》という規則です。ところが第2項と第3項には《但し・・・》という条件があり、この事件にはその《但し・・・》が巧妙に織り込まれていて、その結果死体がごろごろ。

にも関わらず被害者から届けがきちんと出ず、会社のと示談がすぐ成立してしまうのは、この人形たちがアダルト人形だったためです。愛玩用で、使用目的には数年前に実際に数カ国にまたがって起きた複数の誘拐、失踪事件に似た背景がちらつきます。そういう意味では生きた子供を犠牲にせず、極端に発達したダッチワイフに当たるガイノイドを登場させるのは、モラルに合っているじゃないかと思う向きもあるでしょう。問題なのはその製造過程だったのです。

事件は新たな展開を見せ、ロボットの製造元の検査官が殺されてしまいます。動機ははっきりしません。発見された車は暴力団の物。暴力団ではボスが殺されています。

前半の終わりはバトーが起こしたコンビニでの大立ち回り事件。捜査の過程でバトーは強引にやくざに殴り込みをかけ、機関銃で数十人を撃ち殺していました。そしてある日仕事が終わり、犬の餌を買いにコンビニ入った時、賊に襲われます。で、立ち向かおうとしますが、コンビニの主人を撃ち殺そうとした瞬間、それまでバトーを監視していた同僚のイシカワにスイッチを切られてしまいます。気がついたら修理工場(病院)のベッドの上。

イシカワによると、バトーがハッキングされ、自分の体に銃を5発撃ち込み、店をめちゃめちゃに荒らし、あと一歩で主人を殺すところだったというのです。誰かがバトーを狂わせた目的はスキャンダルを起こすこと。やったのはやくざの側だろうという話。ただでさえ刑事たちから、仕事を横取りするなと嫌な目で見られていたバトーたちは、この後公式には仕事ができなくなります。

で、場所を変えて悪徳の街へ。退廃しきったかつての近代都市へ移動します。ロボット製造元に乗り込んで行きますが、そこでまたハッキングが起き、同じシーンが3回繰り返されます。しかしヤバイ時になぜかぴったりのタイミングで現われる草薙素子の助けを借り、危ういところで幻想を見破り、間一髪で逃げ出します。向かう先は沖合いに泊めてある船。家族持ちのトグサは陸に残り、バトーが1人で船に向かいます。

ただでさえこの経済特別区の所属国が明確でなく、司法管轄が定まらないため犯罪がはびこっていたのですが、さらに法の目をくぐるため、公海上に船を泊め、そこで違法ロボットを作っていたのです。製造過程で人間の脳が破壊されてしまうため、法律ではこのタイプのガイノイド製造は禁止されていました。やくざは人間の子供を拉致し、工場に閉じ込め、ロボットに子供の思考をコピーするために洗脳を段階的に行っていました。

子供の1人はそこから逃げたかったために、助けを期待してロボット三原則を破ることを画策したのです。製造会社の検査官が死んだのはそれに絡んでのことでした。しかし女の子の望み通りバトーが救いに来たわけです。ここでバトーが「犠牲者が出ることは考えなかったのか」と怒り出します。

この作品中理解できなかったのがここ。子供をこういう風にさらって、こういう目的に使う輩が悪いのだから、子供がここから逃げ出したいと思うのは私には当然に思えます。その過程で何十人も死人が出たことも確かですが、だから我慢しろと子供に言える次元の問題ではありません。子供は「私は人形になりたくなかった」と言って泣き出します。描き方は身勝手な駄々をこねる子供というトーン。草薙素子の方からは「人間になりたくないロボットもいるだろう」という発言。2006年ですと、子供の方に理解を示す人が多いでしょうし、草薙素子の方は無茶な発言ですが、サイボーグがここまで発展した世界では、人権だけでなくロボット権、アンドロイド権、ガイノイド権、サイボーグ権も考慮しないとポリティカリー・インコレクトになるのかも知れません。そう言えば鉄腕アトム(1952年漫画、1963年アニメ)が差別と戦っていたなあ、鉄人28号(1956年漫画、1959年ラジオ、1963年アニメ)のように単純ではなかったなあ、エイトマン(1963年漫画、アニメ)はバトーに近かったなあ、などとため息をついているところです。しかし日本人はあんな昔からそういう事を考えていたなあ・・・ふむふむ。

攻殻機動隊 (1) が出たのが1995年。私がイノセンスを見たのが2005年(公開は2004年)。約10年経っています。その間に攻殻機動隊を見てひらめいた監督が続出。イノセントは引用の嵐で、台詞の至る所で世界中の有名人を引用しています。その屁理屈合戦も愉快なのですが、俳句、和歌のリズムでしゃべっている部分をどうやって外国語に訳すのかは大きな問題。ファンタでは原語でした。

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