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2006 USA 108 Min. 劇映画
出演者
Antonio Banderas
(Pierre Dulaine - プロのダンサー)
Alfre Woodard
(Augustine James - 高校の校長)
Rob Brown
(Rock - 落ちこぼれ高校生)
Yaya DaCosta
(LaRhette - 落ちこぼれ高校生)
Dante Basco
(Ramos - 落ちこぼれ高校生)
Shawand McKenzie
(落ちこぼれ高校生)
Marcus T. Paulk
(Eddie - 落ちこぼれ高校生)
Brandon D. Andrews
(Monster - 落ちこぼれ高校生)
Elijah Kelley
(Danjou - 落ちこぼれ高校生)
Laura Benanti (Tina)
Jenna Dewan (Sasha)
Katya Virshilas
(Morgan - プロのダンサー)
Jasika Nicole (Egypt)
見た時期:2007年12月
★ 実話続き
別にしりとりをしているわけではありませんが、ボーダータウンは実話でバンデラス、レッスン!も実話でバンデラスです。人の命には関わりませんので安心してご覧下さい。レッスン!は実際に起きた事を映像にしているという意味では、ボーダータウンより実話性が高いです。
★ 色男、さほど色には狂わない
アントニオ・バンデラスはハリウッドに来た始めの頃から稀代の色男、ラテン・ラバーと言われ、ハリウッドで有名な女性に捕まってしまい往生した人です。当時超有名な女性スターが軒並み彼に惚れ込み、強引なアタックをかけられたという話が伝わっています。同じように強引なアタックをかけられたと噂の俳優にレオナルド・ディ・カプリオがいますが、ディ・カプリオはどうやら少年と見なされていたらしいです。バンデラスの方は男と見なされていた様子。
ところが本人はあまり派手な事を好まない性格らしく、かつて10年以上スペインで結婚しており、メラニー・グリフィスと出会ってからはその女性と離婚し、グリフィスと再婚。その結婚も10年以上続いています。それどころかグリフィスが周囲につられて麻薬に戻りそうになると、頭からカッカと湯気を出して怒り、病院に入院させてしまったという話も伝わっています。退院したグリフィスに再び近づいて来た麻薬に弱い知り合いの男性をグリフィスが説得して病院に入らせようとしたという噂も伝わっているほどで、バンデラスというのは日常生活で背骨がしっかりした人なのかと、見直したことがあります。
俳優としては一応の技能を持ち、演技の他に歌、踊りもスクリーンで通用する程度にできます。ラテン・ラバーとして大スターになるためにハリウッドに呼ばれて来たみたいな形ですが、低予算の映画や子供向きの作品でもきっちりとした仕事をしています。鐘や太鼓で大騒ぎで呼んで来たのにブラックハイマー的な大作に出るようなスターにはなりませんでした。彼を取り囲んだ女性にはコネもあるでしょうから、当時現在のオーランド・ブルーム程度のスターにはなれたと思います。
私はバンデラスの中ではコミカルな面に10年以上前から注目しています。マッチョ風に威張って見せたのにそれがうまく行かない時の表情などが愉快です。彼の強みは一応水も滴る二枚目を演じられ、さらにコミカルな演技もできる点。二枚目半はぴったりです。
レッスン!には当時ハリウッドでバンデラスに熱を上げた有名女性ならため息をつきそうなシーンがあります。映画全体のテーマは社交ダンスで、その関連でタンゴが出て来ます。バンデラスがブロンドのダンスの名手と1曲踊って見せるシーンがあります。その話をする前にストーリに行きましょう。
★ 実話にかなり重なるストーリー
フランス系アイルランド人のピエール・デュレインは現在ニューヨークに住んでいます。実話ではそこに至るまでにもいくらかドラマがあるようなのですが、それはばっさり切ってあります。ニューヨークの一時期に話を集中したのは正しい選択と言えます。映画が始まる《現在》はニューヨークのダンス・スタジオで、アメリカ人に社交ダンスを教えています。
★ できのいい冒頭
そこに至る最初の数分、まだクレジットの段階の盛り上げ方がウエスト・サイド物語のような手際で、映画監督としてはあまり知らない人でしたが、何かしらの経験は積んでいるなと思わせます。
★ デュレインと落ちこぼれ少年との出会い
ある夜、自転車で帰宅中ティーンエージャーが駐車してある乗用車をぼこぼこに殴っているところに居合せてしまいます。少年が去った後に見つけたのが高校の校長の名札。車の持ち主かも知れません。それを頼りに高校を訪ね、状況を説明した後子供教育の手助けをすると言い出します。
校長はニューヨークの教育の現場を身を持って分かっている人ですから、デュレインの申し出はユートピアの出来事のようで、全く本気にしません。デュレインは車を壊した犯人をはっきり目撃していますが、その子の名前は言いません。結局あれこれ議論した結果デュレインはボランティアでダンスを教えてもいいという許可を取ります。
落ちこぼれた生徒が地下室に集められ、その子たちに社交ダンスを教えるということで話がまとまります。学校側は全く期待はしていません。生徒は全くやる気がありません。そこからコンテストに出場できるぐらいの選手を作り出すのは、タイタンズを忘れないなど一連の根性物の流れと同じです。
映画ではハッピーエンド。実話の方ではコンテストの出来は分かりませんが、デュレインは現在まで公立の高校でダンスを教え続けているそうです。小学生にも教えているようです。
★ 女性監督が何を言いたかったのか
待合室で校長との面会の順番を待っている間にデュレインがどういう考え方をする男かが手際良く示されます。彼は2007年から見ると時代遅れのような男。古い価値観を持っており、女性に対する接し方も女性解放運動が起こる前のスタイルです。
これがレッスン!の背骨になる部分です。こういう男を描いたのが女性監督なので不思議に思う方もいるかも知れません。私はドイツで吹きまくる女性解放の大嵐の中でずっと立ち止まっていました。この25年間を見ていて、解放運動が偽だったことが証明された形になりましたが、その匂いは80年代にすでに漂っていました。本物感が無かったのです。運動全体に誰かに乗せられているという雰囲気が漂っていました。
仮に誰かに機会をオファーされただけだったとしても、それをチャンスと受け取り、足が地についた発展をすればいいと思ったのですが、それも不発。ラディカルに、ヒステリックに叫び過ぎ、90年代後半から揺り戻しが来た時、自分が到達したものにしがみついて守ろうという姿勢も見えませんでした。その挙句にあっけなく失業に追い込まれたのが外国人労働者とドイツ人女性。外国人労働者は労働力不足のために契約で呼ばれて来た人たちなので、職場が減った時に首切りがあるというのはうれしい話ではありませんが理解はできます。しかしあれほど女性の解放を理論的に叫び、どんどん大学にも行っていたインテリのドイツ女性たちがあっけなく得た物を手放したのには私も呆気に取られました。棚から落ちて来た牡丹餅をしっかりつかもうという気概が無かったのでしょう。
思想的に啓蒙され自立した女性だったはずのドイツ人女性があっけなく倒れ、口を閉ざしたので私は不可解だとすら思いました。あれだけ元気良かったのだから自分たちが職を失い生活が貧しくなる中、子育ての責任は押し付けられるのだから何か言うだろうと思ったのですが、そうはなりませんでした。どんな物でも自分が必要になって勝ち得たものでないとあっさり手放してしまうのでしょう。
前半右上がり、後半右下がりの時代をそれぞれ大体半分ずつドイツ人女性を見ながら過ごした私は、右上がりの時代に料理をすることや、古いしきたりを守ることで非難がましい目を向けられたものです。面と向かっては言いませんが、「感心しない」みたいな雰囲気が漂います。外へ誘い出そうとする人、何事かの中心に据えようととする人など色々でした。しかし私はドイツ女性の言う《自立した女性》ではありません。教育をした人の年代との関係もあり根本は同世代の女性より古い考え方をします。ですから日本より10年は先を行っていたドイツ人女性と話が合わないのは覚悟していました。
私が考えたのはゴムのよう無理やりにビーンと延ばすと、後でパッと手が離れバチーンと来るぞということ。これでは女性にユートピアはありません。別な言い方をすると身分不相応な事は女性解放でも他の事でも良くないということです。自分の足で歩ける程度の速度でないとこなし切れず、後で何かあった時にあっけなく失われてしまうと思ったのです。そのため私は革命などという速度の速い出来事は揺り戻しの危険が伴うと考えるのです。それでも無理やりに通そうとすると命を落とす人が大勢出ます。良い考えは定着するでしょう。新しい考えに良いものは多いです。しかし変化はゆっくりでもいいと考えました。そのため私の速度を見てドイツの女性はもどかしかったのかも知れません。
とまあ、こういう背景があったのですが、そういう目で見るとレッスン!はおもしろいです。監督が過去に戻ろうとしていると解釈する人もいるかも知れません。そうなると非難が出るでしょう。私の目にはちょっと違って映ります。この監督を全く知らないので、本人がどう考えたかは分かりません。スペイン、イタリア、フランス系の人たちはドイツ、スカンジナビア、オランダ系の人たちより男尊女卑の傾向が強いとも以前言われていました。イスラム系の人たちはさらに酷いという事になっていました。ところが私はイスラム系の人たちとあまり違和感なく付き合って来ました。80年代にはドイツ人の女性がカッカと頭から湯気を出している男性に会いに行ったことがあるのですが、話すと問題はありませんでした。後になって考えると、私から保守的な雰囲気が漂うからではないかとと思います。この男性たちが私を抑圧するかと言うとそうでもありません。きちんと尊重の意を示すのです。それがなぜ起きるのかは当時分かりませんでした。ドイツ人女性から「イスラム系の男性と付き合うとすぐ男尊女卑に遭って抑圧を受ける」と聞いていたので、自分にもそういう事が起きるのかなと思っていました。ところがクラスの同級生から始まり、色々な人と接しましたがトラブルは皆無な上、家族ぐるみで知り合ったこともあり、ドイツ人女性との間になぜトラブルが頻発したのか分かりませんでした。
15年以上後になって、日本で躾をした身内や先生に私が示すのと同じ敬意を相手に対して払ったからだろうという話になって来ました。保守的なタイプの相手の場合こちらが相手を尊重すると、相手もこちらを尊重してムチャな事は言わないのです。マッチョ暴君にはならないのです。ここがこの監督の言いたいところだったのかと考えています。バンデラスが演じる男も30代か40代ぐらいなのですが、女性のためにドアを開けたり、まったく時代錯誤な態度。ところがそういう扱いを受けた高校生が徐々にバンデラスになびき始めます。
社交ダンスは男がリードを取り、女がそれに黙ってついて行くという風に言われていますが、そう単純でもありません。つれている女性が事故に遭わないように男性はダンス・フロアの空き地を目敏く見つけて誘導しなければ行けません。社交ダンスの場合女性はほとんどハイヒールを履いていますから、下手に他の踊り手とぶつかると脚を捻挫したりしかねません。義務をしっかり果たさないと責任は男性に来ます。下手な動きをするとパートナーの女性に拒否されてしまいます。
一定のルールの中で動くのが社交ダンス。その中での男性と女性の役割分担が嫌な人には1人で踊れるダンスとうい選択があります。デュレインが事務所のドアを開けてくれるので女性が喜びます。この女性たちは長い間誰かが自分のためにドアを開けてくれるという経験が無かった、社会で誰かが自分に構ってくれるという経験が乏しかった、つまり長い間1人で人生のダンスをしていたと監督は言いたかったのでしょう。
★ ちょっとずれるタンゴ
非常に印象的なシーンがあります。何を言ってもやる気無しで付いて来ない生徒を脅かす(驚かす=活を入れる)ために一計を案じ、デュレインは自分が教えているダンス・スクールからブロンドのダンスの名手を呼んで来ます。彼女に扇情的な(とは言ってもこの種のダンスには普通の)ドレスを着せ、まずは1人で地下室に入らせます。生徒がおやっと思ったところで自分も入り、扇情的なアルゼンチン・タンゴを踊って見せます。
アルゼンチン・タンゴというのは男と女が決闘をしているのと間違いそうな勢いで踊るダンスで、踊りながらセックスをしていると勘違いされるのが最上の誉め言葉というカテゴリーのダンスです。女性が3歩下がって男性の言うままなどという事はあり得ず、一騎討ちです。バンデラスはこういうシーンにぴったり来ます。このシーンで自分があのダンサーを演じたいと思った有名女優は多かったのではと思います。
ところで社交ダンスのコンテストでは確かコンティネンタル・タンゴが課題のはずです。それなのにセンセーショナルなアルゼンチン・タンゴで生徒を釣るのは本当はインチキ。・・・ですが、思春期の高校生を自分のペースに引きずり込むためには効果満点。元々ヒップホップで育ち、リズム感が良く、体も滑らかに動くので、社交ダンスの基礎はできているようなもの。後は猫の前に鰹節をぶら下げて・・・デュレインは成功します。
後はお決まりの特訓、家庭のエピソード、学校側との対立などを盛り込んで、ちょっとはらはらさせて最後のコンテストへ。そりゃもう全てが丸く収まるようになっています。
デュレイン本人がチラッと顔を出しています。メイキング・オブでは彼の話がたっぷり聞けます。
女性監督のできのいい作品にはこれまでぶつかったことがありませんでした。行き過ぎ、やり過ぎか、力量不足。あるいは男性と全く引けを取らない活躍をしているのですが、女性らしい視点がない場合もありました。フリードランダーは女性らしさを嫌味無く出し、作品には筋が1本通っていると感じた初めての監督です。多分に主観や趣味に左右されますので、女性でも同じ意見でない人もいるとは思います。私の目には各章をしっかりまとめ、技術的にも裏打ちがされていて、いくつもの章を集めたらそれなりにはっきりした作品ができあがったという風に映りました。この先に期待しています。
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