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エンター・ザ・ボイド /
Enter the Void /
Soudain le vide

Gaspar Noé

2009 F/D/I 154 Min. 劇映画

出演者

Nathaniel Brown
(Oscar - 兄)
Jesse Kuhn
(Oscar、子供時代)

Paz de la Huerta
(Linda - 妹)
Emily Alyn Lind
(Linda、子供時代)

Simon Chamberland (父親)

Janice Béliveau-Sicotte (母親)

Cyril Roy
(Alex - オスカーの友人)

Olly Alexander
(Victor - オスカーの客)

Sara Stockbridge
(Suzy - ビクターの母親)

Stuart Miller
(ビクターの父親)

丹野雅仁
(Mario - ストリップ・バーの経営者)

見た時期:2010年8月

2010年ファンタ参加作品

ドラッグついでにこちらも。

★ 普通の映画2本か、長い映画1本かの選択

ギャスパー・ノエはフランスで映画を作る人ですが、アルゼンチン人。センセーションを起こすのが好きらしいです。一種の愉快犯かも知れませんが、前の作品にはメイン・テーマの他にドラッグの弊害も扱われていました

当初154分と言われていましたが、165分だった可能性もあります。ここまで長くなると10分程度の差はあまり気になりません。ファンタは原則としてノーカット・バージョンなので、長い方だったかも知れません。監督が来ていたので、監督の意向に沿ったものと思われます。

この日のファンタは最後の2本がノエの作品を選んだ人は1本のみ、別な作品を選んだ人は21時の回と23時の回、2本見ることができるようになっていました。ノエの作品が2本弱の長さな上、最初に監督のインタビューがあり、終わった後は監督からただのビールが振舞われ、サインもしてくれるという趣向になっていて、ノエを選んだ人はたっぷり2本分の時間が必要でした。

上映直前のインタビューでは普段人気者のスタッフが過労になっていたのか、質問内容が平凡だったり、いくらか的外れの質問をしていて盛り上がりを欠きました。しかしノエはベルリン(というかファンタ)に招かれたことをとても喜んでいて、自分の作品をちゃんと見てくれる人が大多数だと思っている様子でした。確かアレックスがカンヌを皮切りに世界中からぶっ叩かれている時、ファンタからは肯定的な評価が相次いだと記憶しています。

★ 披露困憊のスタッフ

ファンタのスタッフが過労ではないかと思える理由はいくつかありました。まず何よりも会場が改装中で初日に間に合うかが大いに危ぶまれていたことがあります。そして初日オープニングに招いた監督のパスポートが期限切れになっていることが出発直前に分かり、ドタキャン。フランスからだと陸路で来ればパスポートの検査は無いのですが、空路ですと必要。その上パンフレットに印刷された後に差し替え、上映中止の作品が出、スタッフは振り回されたようです。

上映ホールの交換、作品未着などという番狂わせはスタッフ、観客とも慣れていますが、今年はいくつもの番狂わせが開始直前に重なった様子な上、持ち込んで来た作品がぱっとせず、大変だったのではないかと思います。

★ 強面のふりをしているのか

そんな中、ノエはファンタを自分をよく理解してくれる催しと感じているらしく、親しみを抱いているようでした。彼はセンセーションを起こし、酷評も受ける作品を作っているため、姿だけを見ると戦闘的な感じを受けます。ところが実際に作品の内容について質問をぶつけるとそれほど強面ではありませんでした。

頭を剃り、皮のジャンパーを着て、オートバイにでも乗りそうな出で立ちの男が最近増えていて、私は取り敢えず怖いと思うことにしているのですが、これまで話をした人はなぜか口を利くとがらっと印象が変わり、テーマに集中。例えば映画監督なら映画の話、映画の観客なら映画の感想や予備知識の交換となります。ノエもそんな感じの人です。ヤン・クーネンはドーベルマンを撮った時は映画の内容と180度違う優しそうな青年でした。最近は彼も頭を剃り、強面にしているようですが、当時の話し方は非常に生真面目で礼儀正しく、私が映画にどういう感想を持ったかを気にしていました。

そう思って思い出して見ると、これまでに話した監督ではツイ・ハークと大島渚を除いてはなぜかどの監督も私が作品にどういう感想を持ったかを気にしていました。欧州にプロモーションに来たら日本人がいたので珍しかったのか、監督というのはたいてい出会った人に感想を聞いて回るものなのか、その辺は良く分かりません。私はプレス証を持っているわけでもなく、ただの観客なのですが、監督と話をする他の人を見ていると特別感想を聞いている様子もないので不思議です。私の顔に「作品について文句があるぞ」とでも書いてるのでしょうか。ま、私に取ってはまことに運のいい事態なので、そのことに文句は全然ありません。

★ メルヘンにはしないでくれ

今回ノエが持ち込んだ作品は舞台のほとんどが日本。東京の新宿を暗示するような町が示されますが、場所がどこだと特定できないようになっています。最近行っていませんが、それでも新宿の通りは大体知っている私は一生懸命目を凝らしてはっきり歌舞伎町と分かる場所や、西新宿と見極められるシーンを探しましたが、そこは意図的にぼかしてあります。東京を見た上でああいうシーンに作り変えたようです。なぜか分かりませんがメルヘンのようにやや現実味を欠くような作りになっています。舞台になるホテルは特定の名前が無く、《ラブ・ホテル》という名前になっています。

アレックスでは鋭い所を見せた強面のノエがなぜ東京の町を夢のように描いたのかは分かりませんでした。アレックスでは全てが現実的に描かれていて、それが故に1人の女性、1組のカップル、その知人の人生がめちゃくちゃになったことが良く伝わりました。今度は現場を非現実的に描いているため、主人公の兄妹に起きた事件がほんわかとぼやけます。

★ タイトル

いくつかの解釈ができますが、1番直接的な説明はオスカー(兄)が出入りしている店の名前だということ。ここでオスカーは死んでしまい、無になります。Void には空、空虚、無効、ナッシングなどという意味のあるので、空虚さの中に突っ込んで行くという解釈も成り立ちます。麻薬ややくざの世界に入って行くとも取れますが、東京という町全体を指すとも取れます。いずれにしろ監督は東京をよく研究したようです。

★ あらすじ

描いている内容は短くまとめると、家庭の事情で子供の時別れ別れになった兄と妹が兄の尽力で再会できるようになる、その場所は兄が先に来ていた東京、妹の来日の費用を兄は麻薬売買で稼いだ、妹は都内の店でストリップを始める、間もなく兄が警察の手入れで撃たれて死んでしまう、そこから妹のさらなる転落が始まるという筋です。

ノエが描いているのは筋ではなく、そういう状況にいる人々の様子と経過。実は壮絶な転落の物語なのですが、それをノエお得意の赤っぽい画面でぼやかしながら描いています。東京がゴッタム・シティーに見えたのですが、この兄妹の人生が漫画に思えては困ります。

★ 死んだ兄

冒頭に兄が死にます。死に方もちょっと変で、日本の警察はこういう時には発砲しないだろうと思います。後でばれるある事情があって、警察が手入れに入って来ます。兄はトイレに閉じこもり、ドラッグをトイレに流してしまおうとするのですが、ドアを開ける、開けないで押し問答になり、射殺されてしまいます。冒頭に死があって時計が逆方向に進むというところと、画面の赤っぽいトーンはアレックスを踏襲しています。日本ではその後兄の魂が町をさまよい云々と宣伝されているようなのですが、ファンタの観客は輪廻がどうのという話は気づかなかったのか、気にしなかったのか、話題になっていませんでした。

ファンタの作品紹介のところに「幽霊話というのは何かの間違い。全然幽霊は出ませんでした」が魂として彷徨うというところを幽霊話と解釈すれば確かに幽霊話です。ファンタの仲間もはっきり気づかないような描かれ方だったので、この作品全体を幽霊話として売るにはちょっと無理があります(笑)。

語り部が魂だけで彷徨うオスカーであってもいいですが、第三者的なナレーションでも良く、全く解説無しに経過を描写しても構いません。作品上では監督は《兄が妹とした約束》にこだわっていますが、欧米的な考え方を嫌と言うほど見て来た今、私にはこの兄妹の結びつきはやや嘘臭く見えます。文化の違いか、宗教の影響かは分かりませんが、家族の結びつきはたとえ両親を早く失っても日本人ほど強くならないのではないかと感じます。その日本人も私がいない間に家族の結びつきは希薄になったようです。

★ アレックスとやや違う時系列

アレックスでは時系列的に見ると最後から始まって事件前で終わりますが、エンター・ザ・ボイドではほぼ真中から始まって、過去を見せ、その一方でオスカーの死後の妹を追って行きます。過去の部分では時たまご幼少の頃の話を出して、なぜオスカーとリンダ(妹)の仲が強く結ばれているのかを説明します。今年のファンタにはもう1本似たような話があったのですが、2人がまだ小学校に入るか入らないかという頃に両親が交通事故を起こし、死んでしまいます。その後一時期は祖母に預けられていますが、間もなく別々に里子に出され、2人はその時に再会を誓います。

ここは無論感動のストーリーですが、オスカーは自分が彼女を自分の所に呼び寄せるという風にだけ考えます。リンダは兄が自分を呼んでくれるとだけ考えます。なぜかそれ以外の方法は思いついていません。

子供時代のシーンは少なく、オスカーの死のシーンの後、オスカーがリンダを東京に呼び寄せた所からオスカーの死までの様子が長いです。再会後新宿でアパートを借り、ストリップのアルバイトをやり、ドラッグをやり、都内の外国人の生活ぶりも描写されます。オスカーの知り合いは全部が全部ジャンキーやドラッグのディーラーではありません。

オスカーの死後私の目にはリンダが身持ち崩して行くように見えるのですが、もしオスカーの魂がリンダを見守っているのならもう少しましな人生を歩んでも良さそうに思えました。

★ 妹を護り過ぎた兄

町が新宿だとはっきり出ないのと同様、兄妹もアメリカ人だとはっきりしていません。一応アメリカ人ということらしいのですが。

妹を自分の所に呼び寄せる以外の選択肢を思いつかない兄と、兄に呼んでもらうことしか思いついていない妹の関係は、時間が経つにつれ問題だなあという風になって行きます。兄は自分が妹のために金を工面するのだと思い込んでいて、手っ取り早く金を手にするためにドラッグのディールに手を染めます。というか東京は金のかかる土地なので、自分が生きて行くためにもドラッグが資金源になっているようです。そしてそもそも消費者としてドラッグに手を出してしまっているところからボタンは掛け違っています。家族(妹)を守るという清く正しい目的のために最悪の手段を取っています。

兄に護ってもらうこと以外思いつかず、ほとんど主体的に動かないリンダはアメリカ人としては珍しい種族です。守護天使の兄が死んでしまった後は親切な(!?)やくざに身を任し、彼をひもにする(!?)道を選びます。このやくざは多少なりともリンダを気遣う男で、兄の死後身を任す相手としてはぴったりです。そうなるとリンダと兄の結びつきは兄妹愛ではなく、自分を庇護する力のある者になら誰にでもついて行くと言うことなのか、それではオスカーの面目が丸つぶれではないか・・・などと思いながら見ていました。

フランスには50年代、60年代の始め頃男性の庇護を受ける女性というステータスがあり、サガンの小説にもその世代が描かれていました。その後サルトルなどの影響を受けたインテリ層が力を得、サガンもその一群の中に入り、自立した女性の世代に繋がって行きました。(当のサガンがそれほど自立した女性だったかは大いに疑問ですが。)アメリカも女性解放運動が盛んで、日本は遅れているという印象を受ける時もありました。私はアメリカ風の解放運動には疑問を持っていたので、一歩引いていましたが、結局棚ボタ式の解放は女性が望む方向とは違うという結論に達しています。

ノエはフランス人ではなく、生まれたのはアルゼンチン、時はまさにフランス式の庇護を受ける女性のステータスがなくなろうとしている頃ですので、この時代の事情を身をもって知っているとは言えません。現代のフランスの女性はドイツとは違った形で自立している人が多く、そういう人を毎日見ながら作った作品でこういう女性を主人公にしているのは不思議な感じがします。

★ ショック作りは失敗か

ノエはこの作品でも話題を作ろうとしたのか、妹の転落をその方向に持って行こうとの努力が見えます。不本意な妊娠があり、堕胎のシーンを他の映画よりはっきり出しています。最近は出産シーンをもろに出すような作品も増えているため観客が受けるショック度はデフレになって来ています。なのでそれほど大きなショック効果は無いかも知れません。

ショックと言うほどの集中した大きな衝撃ではありませんが、この作品をモザイクと見なすと、モザイクを構成しているタイルにはいくらか驚きを覚えました。その理由は現在裁判中の事件。やくざと関わりのある人が知り合いだとか、相談にのってもらっているとか、親しくしている人からドラッグを勧められたり勧めたりしているとか、裁判の証言が出れば出るほどエンター・ザ・ボイドと被っていきます。どういう風に解釈したらいいのかは分かりません。この世界はどこでも似たり寄ったりなのか、ノエはそこを十分リサーチしてこの作品を作ったのかなどと考えているところです。1つ1つは大きな事ではないのですが、日本の事件の記事を読めば読むほど似て来るので、じわっと来るショックです。

★ 監督にいちゃもん

別なページにも書きましたが、監督に「なぜ妹を自分で自分を護らない女性に描いたのか」と聞きました。答は「彼女が馬鹿だからさ」でした。この答はちょっと簡単過ぎて、もっと突っ込みたかったですが、私以外にも大勢の人がいて、それ以上は聞けませんでした。私にはこの質問を2度ぶつける機会があり、監督はこの質問を全く予想していなかったようです。2度目に聞いた時は「2人が子供の頃に両親を無くしたので、自分を守る術を教える人がいなかったということなのか」という質問もしました。監督はそういう風には考えていなかったようで、答に詰まっていました。

監督の方は私に自分が日本をこういう風に描いたことについてどう思うかと聞きました。答える時間が無かったのですが、私は日本のドラッグ・シーンはかなりひどいと思っていたので、まあこの程度の描写はアリだろうと思っていました。その時は元俳優の事件の記事はまだ発見していなかったので、表面的な解釈でしたが、数日前から読み始めた連載を見れば見るほど、エンター・ザ・ボイドと似ている点が出て来るため、「現実に近いのだから特に文句は無い」と思いました。

アレックスのような直接的なインパクトはありませんが、エンター・ザ・ボイドも色々考えさせてくれる作品であることは確かです。私は監督にアレックスの方が良かったと言ったのですが、監督は自分はエンター・ザ・ボイドの方が好きだと答えました。今まさにエンター・ザ・ボイドのプロモーションで来独しているわけですし、スポンサーの手前もあり、最新作より前の作品が好きだとは言えないでしょう(笑)。私自身たった今見たばかりのエンター・ザ・ボイドはまだ自分の中でこなれておらず、アレックスの方はこなれていたので、こういう話になってしまいました。ドーベルマンを見た時も直後に監督に聞かれ、当時まだあまり暴力映画を見ていなかった私は「あまり好きになれなかった」と答えています。どうもフランスで活躍する外国人監督が私と話をすると、色好い感想が出ず、何年かしてから気に入ったりするようです。2人には気の毒ですが。

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