File19

- ギター少年 -




私の愛機
YAMAHA S−11
表・裏 スプールス単板、側板 ローズウッド
ピックアップを自分で付けて、アンプから音が出せるようにしてある。

 私がギターと出会ったのは、高校受験を間近に控えた冬だった。実はこの時、私は体を壊して入院をしてしまった。受験までわずか1ヶ月前の事で、私は自分の不運を嘆き、かなり落ちこんでいた。そんな私を見て、隣のベットで入院していた青年Mさんが「気晴らしになれば...」と私にギターを貸してくれたのだ。私はそれまで楽器というものには無縁だったが、Mさんの弾くギターの音色に惹かれ、少しづつ練習を始めたのだった。楽器というのは少しでも弾けるようになると楽しいものだ。コードが押さえられるようになると私はそこが病院であることも忘れ夢中になってギターを弾いた。もちろん、そのうち苦情が出始めた。それでも、私は頭から布団をかぶり練習をした。

 何とか高校に無事入学できると、私は従姉からアコースティックギターを譲り受けそれで練習を始めた。ところが、かなり痛んでいたため、すぐにそのギターは壊れてしまった。そこで小遣いを貯めてギターを購入することにした。楽器店に何度か通い、カタログを見たり、試奏して購入したギターはYAMAHA製のS−11というモデルだった。これは安いギターであったが、ボデイの表裏が単板で「弾き込むほどに音が枯れていい音になる」と店員の薦められたのが購入の決め手となった。事実、今弾いてもとても響きが良く、繊細な音色がするので、私の選択は正しかったようだ。

 このギターを使って、私は当時流行していたニューミュジックと呼ばれる、一連のミュージシャンのコピーをした。長淵剛、松山千春、さだまさし、など今では日本の音楽界の大御所になっている人たちだ。彼らの弾くギターをコピーして、そして大声で歌ったものだ。おそらく近所では失笑をかっていただろう。
私が得意としていた奏法は「スリーフィンガー」という3本の指を使って速いスピードでアルペジオを奏でるもので、当時はかなり正確に音を刻めたと思う。友人も私のことを「スリーフィンガーの鬼」と呼んで一目置いていたようだ。当時もう一つの趣味であった天文観測が出来ない夜は、スリーフィンガーをひたすら練習していたような気がする。

 その内、私は洋楽の方に関心が向けられるようになった。きっかけは、当時再結成して話題になった「サイモン&ガーファンクル」のライブを見てからだった。美しいハーモニーとポール・サイモンのギターサウンドに私はたちまち虜になってしまった。以来洋楽の方をよく聞くようになり、ギターのコピーもそちらが中心になってきた。

 天文部が廃部になってから、私はますますギターにのめり込んでいった。そんな時、同級生からバンドのメンバーにならないかと誘いがあった。彼のバンドがコンテストに出場することになり、音の厚みを出すためにサイドギターを募集していたのだ。私はアコースティックギターしかやっていなかったし、大学を受験するつもりだったので、この誘いを断ろうと思ったが、友人の「ギターはメンバーのものを格安で譲るし、コンテストが終るまでの期間でいいから」という言葉に乗せられて、しぶしぶOKをした。

 さっそく練習が始まった。メンバーはギター2名、ベース、ドラム、キーボード、ボーカルの6人編成で、オリジナル曲をやる事になっていた。私は主にコードを弾いてリードギターをサポートする役割であったが、仲間と一緒に演奏するという楽しみをこの時、初めて知ったのだった。私たちはコンテストの日まで懸命に練習していった。

 コンテスト当日、私たちは自信満々で会場に向かった。それまでかなり練習を重ねたし、私のアイディアでコーラスも加えた。それになんといってもオリジナル曲だ。私たちは上位入賞を確信していた。しかし、楽屋に入るなり私たちはその自信をいきなり崩される事になった。他のバンドのメンバーがリハーサルをしていた。その技術はプロ並だった。誰かが「帰ろうか...」と呟いた。私も思わず逃げ出してしまいたくなった。結局リーダーの「結果はともかく全力を尽くそう」という言葉で気を取り直し、コンテストに出場したのだった。結果は予選落ち。しかし、私は初めてステージに立てたことで興奮していた。私はすっかりバンドの魅力にとりつかれてしまったのだった。

 大学に進学して、私はすぐに「フォークソング研究会」というサークルに入会した。フォークソング研究会といってもフォークソングをやっているバンドはほとんどなく、演奏しているのはロック中心だった。このサークルは名古屋の主な大学の音楽サークルと連盟を結んでおり、精力的に活動していた。大きな会場でのコンサートも行なっており、ステージの魔力にとりつかれた私は、再度バンド活動をしたかったのだ。

 先輩からのしごきとも取れる教育期間を過ぎた後、ようやくバンドの結成を許された。私はギターを希望したが、他のメンバーの方が私より数倍もギターがうまく、結局私は「声がでかい」という理由でボーカルを務めることになった。

 私の大学時代は、バンドの活動に費やしたといっても過言ではない。毎日のように練習をし、多くのステージに立ち、毎日が充実した日々を過ごしていたように思う。しかし当然大学卒業とともにバンドは解散し、メンバーは全国に散らばっていった。

 ところが私は社会人になっても大学の連盟で知り合った仲間とバンドを結成し、しばらくの間音楽活動を続けていた。このバンドでも私はボーカルを務め週末に集まって練習をしていた。しかし、社会人になるとなかなかメンバーの都合がつかず、全員が集まって練習できることはまれだった。その内、メンバーの一人が転勤となりこのバンドは自然解散してしまった。これを機に私の私の音楽活動は終焉を迎える事になった。

 以後、しばらくの間私はほとんど無趣味のまま何年かを過ごす事になるのだった。


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