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「この左手の傷……なかなか消えないわね」

俺の左手を手に取り、まじまじとそこを眺めながら、葵が悲しそうな声で呟いた。
ここ数日、見舞いにきた癒しの力がある仲間は、必ず力を行使していったが、その全てが胸の治療に行っているらしく、細かい傷は消えなかった。

「ああ、自傷癖の人みたいになっちゃったなぁ」

そこを見ると、苦笑するしかない。
手首の辺りに縦に走る数本の傷、手の甲の小さな傷。これだけでも十分にヤバイ。これで包帯でも巻けば、言い訳のないほどに自殺未遂の人だ。

「元々俺は左で防御する癖があるから、傷が多くなりやすいんだよ。おまけに、この胸の傷を治すのに精一杯で、細かい所には回復力が廻らないらしい。普通の人並みの速度だ」
「私が少しでも引き受けられたらいいのに」

本気で言っているようで、ちょっと困った。
葵の綺麗な手に、こんな傷なんぞついて欲しくない。

「それは困る。俺は、葵のこの綺麗な手も好きなんだから」
「龍麻……」

紅葉は先に退院した為、今この病室には誰も居ない。ふたりきり、そして潤んだ瞳で見上げてくる葵――この状況はOKだろうと思い、その肩をそっと抱き寄せる。

が、無慈悲な声が響いた。

「そこまでだ、検診の時間だよ。まったく……病院内で交配する奴らがおるか」
「せ、先生ッ、そんな……違います!!」

いや、俺はそのつもりだったけど。つーか、交配って……。
それにしても、先生も気配レスで動けるようだ。いつものあの地響きは、わざとなんだな。




あと数日で退院できるだろう。つまらん――かなり本気の様子でそう告げると、先生は去っていった。
数日後ってことは、二十四日前後に退院か? 瀕死から退院まで約一週間……我ながら凄いと思う。

「数日後……。龍麻、クリスマスのことなのだけれど」

先生の言葉に、葵はさっきからずっと考え込んでいた。
申し訳なさそうに切り出した様子から、展開の予想がついた。

「ご家族? マリィのこともあるし、それがいいかもしれないね。俺は、数日程度ずれてても構わないし」
「え……と、その、それもあるの。マリィは家族とのクリスマスがずっと無かったから、一緒に過ごしたくて。……あなたとも一緒にいたいのだけれど」

そこで口篭もる。
どうしたのだろう。てっきり、マリィと『家族水入らずのクリスマス』の為だと思っていたのに。
……飽きられた?

「あなたは……、マリア先生を誘ってくれないかしら」

ギャグで捨てないでぇ――とか縋り付こうかと考えているうちに、葵は決心が付いたようで、続きを口にした。予想外のことを。

「なぜに先生?」
「あなたが傷ついたことで、決心が付いたのかもしれない。最近のマリア先生、日に日に心の闇が増大していくの。全てを諦めたかのように、辛そうに、とても哀しい目でクラスの人たちを見て。お願い、助けてあげて。あなたならきっと……」

狙っていた獲物が、殺されそうになったから――決めてしまったのか?
先に己がものにすると。

せつないけれど、その決心も仕方ないのかもしれない。
少なくとも、俺に止める権利はない――抵抗する権利はあるだろうが。

「それを選んだのは先生だ。選択するだけの理由を、おそらく有してるんだろう。止める権利は、誰にもないかもしれないよ?」
「それでも……、偽善でも思うの――止めたいと。あなたならできるかもしれないわ。もしも――温もりで癒すことができるなら、抱いてあげても……」



マリア先生とのことを救って欲しい――そう言い残して、葵は帰った。

泣きそうな顔をしていたくせに……、何を言っているんだか。


己惚れている訳ではないが、葵はわりと独占欲が強い。
それなのに、必要だったら『抱いてあげて』か。
それほどまでに、止めたいのだろう。蒼白になって、絞り出すような声になってでも。

その願いは叶えたいさ。勿論、先生のことだって、救えるものなら救いたい。

だが……どうすればいい?
マリア先生の根は、非常に深い。永劫に近い刻を、あのひとは人間を呪う事で生きてきたのだろう。

想像するのは簡単だよな。
人間に迫害されて――下手したら、大切な人さえも殺されて。

そんなところだろう。

問題は――それを俺にどうしろと?

葵はああ言っていたが、抱く事で簡単に解決するとは、とても思えない。
かといってゆっくりと癒そうにも、先生は既に決めてしまったのだろう。器と柳生とが闘う前に、器の力を手に入れる事を。

その短期間で、一体どうすればいい?



八方塞りで鬱々と悩んでいたら、インターホンで舞子から来客の旨を告げられた。
その名に首を傾げながら、通すようにと答える。
―――忙しい身だろうから、彼だけまだ見舞いに来てなかったことは気にしていなかった。死にかけた日は、ずっといてくれたと聞いたことだし……あの翌日、寝込んでいたのも『視』えた。
なのに、どうしたのだろう。




「見舞いにきましたよ」
「腐肉の香り!! な……何か、怒ってるのか?」

そっと上目遣いに聞いてみると、あの『フッ』といわんばかりの扇子を口元に当てたポーズを取る。

「いえ……別に、護りたい存在の端っこ程度に加えようと思った人物に、知り合って早々に死に掛けられたことが気に障っている訳ではないですよ。しかも壬生さんの話では、事前に予知していたとの事――どうして前もって、『冷静』である人間全てに周知をしていなかったのか――などとも怒ってはいません」

やべ……目がマジだ。
つーか、まさかこのイヤガラセの為だけに来たのか?

「ごめんなさい。浅慮は謝るから、それは持って帰って下さい。お願いします」

久しぶりに、本気で人に謝った。
確かに、取り寄せられるかを数日前に聞いたけどさ……、まさか本当に持ってくるとは。

「おやおや、折角貴方の見舞いの為に、スマトラ島から取り寄せたというのに。……仕方ないですね」

御門は心底残念そうに、お付きの人に下げさせた。
彼らは苦労しながら持っていってくれた。

世界最大の花――ラフレシアを。

初めて実物を見たよ。本当にデカイ。
それにしても……行動力のある金持ちは侮れん。
というか、後どうするんだろう。御苑にひっそりと咲くのか?




「あの次の日、力の使い過ぎで寝込んでたらしいね。ありがとうな」

余韻の香りも消え、御門の怒りも落ち着いたようなので、ベッドの脇の椅子に座った彼に、軽く頭を下げた。
純粋に感謝していたからで、他意は無かったんだが……焦る彼の姿は、面白いな。

「だッ、誰に聞いたのですか?村雨ですか村雨ですか村雨ですか!?」

耳まで赤いし。ここまで来ると、ある意味かわいい。からかわれる立場に慣れてないんだろう。
このまま遊んでいても楽しそうだが、後で冷静になった時に報復されるのも怖い。ラフレシアを忘れてはならない。――だから、災厄は人に押し付ける。

「そう。昨日だったかな」
「くッ」

何か屈辱のツボを突いたのか、御門は口惜しそうに唇を噛み締めていた。
その怒りの対象となる村雨が何をされるのか……一抹の不安を覚えたのだが、彼だって一応は高位の術者だ。なんとかなるだろう。
この際、御門が日本でも最高位の術者ということはキッパリ忘れておく。無論自分の精神の為に。



「ところで質問があるんだ。陰陽師の頭領」

落ち着いたところを見計らって切り出す。
呼び名で気付いたのか、御門の目に真剣な光が宿る。

「何でしょうか?」
「ちょっと心理テスト。闇は一切存在してはならない――滅するべきだと思う方である。○か×か?」
「×です」

考える様子もなく即答する。
日ごろから考えている命題なのかもしれない。

彼は姿勢を正すと、こちらを見据えながら言い直した。

「正確に返答するのならば、御門の当主としては×。どちらかに傾いてはならない、それが陰陽の理ですから」

当主としては×。
逆ではなく?

一瞬不思議に思ったが、口を挟まず待つ。彼個人の見解を。

「そして、個人としても×です。闇は遥か昔から、共に存在したものです。闇は悪ではなく、光は正義ではない。光が闇を駆逐する――それは、想像するだけで怖気だつ世界ですね」

少し安心した。そういう考えは、自分だけではないのだと。

それにしても意外だった。彼個人は、それっぽいが、陰陽寮の方は、もっとうるさいかと思っていた。
素直に、その感想を口にする。

「フッ……そのような極端な考え方は、某大宗教が盛んな西洋系のものですよ。良い例はMM機関――現代にも存在する、某宗教直属の異端審査ですが。そこの闇嫌悪などは、凄まじい事になっていますよ。ところで……それがどうかしたのですか?」

彼になら、話しても問題ないだろう。
冷静で自信家で皮肉屋でヒネてて慇懃無礼だから誤解されやすいだろうが、彼はものすごい基本のところまでいくと『良い人』だ。


「担任の先生が、アルカードって姓なんだ。ちなみに隣のクラスは、犬神先生だよ」
「……ヴラド先生とか玉藻先生などは、いないでしょうね?」
「さすがにいない」

呆れた様子で問い返されたので、それは否定しておく。ま、あの人達の姓は、正直俺もどうかと思うよ。

少し考え込んでいた御門が、顔を上げる。

「吸血鬼があなたに企むことは、虜化もしくは能力の吸収。それは、最大限に忌避すべき事態でしょう。滅するべきです。けれど――」

そこで逆接を挟むところが、やはり良い人だ。
彼の立場からすれば『疑わしきは罰しておけ』でも、おかしくはない。

「悩む余地をあなたに作るほどの人ならば――皆が慕う人物ならば、止めてみたら如何ですか。滅ぼすだけなら、あなたには最早難しい作業ではないでしょう。その前に試みるくらいは、良いのでは?」

そう、倒す事は、既に難しくない。精神攻撃を無効化する相手に、吸血鬼の能力では闘いにくすぎる。虜化なしならば、ガチンコになる。それはおそらく――相手にもならない。


闘う前に止められるかどうか――願うしかないか、聖夜の奇跡とやらを。
そのためのお膳立ては厭わない。
折角目の前に便利屋2号がいるのだから、頼んでみる。

「ミカリン、24日までにルビライトのブレスレットかペンダントを探してくれないか。あ、勿論金は払うよ」
「24日……。貴方は自省するという発想がないのですか?
それにしてもルビライトとは――なぜ、そう中途半端に稀少品を? それに、深紅の宝石――美里さんではないように見受けられますね」

そんな矢継ぎ早に蔑まなくても……。
それはそうと、ルビライトで、品が分かる辺りが侮れないな。
マサキちゃんとかが詳しいんだろうか。あ、村雨がそういうのマメそうだ。

「深紅の似合う人なんだ。だが、ルビーは高すぎて気を使わせるだろ。で、確かに葵にじゃないが、彼女公認のことだから、いいんだよ。葵には、誕生石のベビーリングのペンダントをちゃんとあげるよん」
「指輪でない辺りが、貴方の姑息さをよく表していますね」

酷い謂れようだ。
仕方ないじゃんか。指輪はまだ重過ぎる。


結局、憎まれ口を叩きながらも、御門はルビライトと――おまけにサファイアまで、写真を数種づつ用意してくれた。その中で気に入ったペンダントを頼んでおいたら、翌日には、芙蓉が品物を持ってきてくれた。

……権力者って、いるもんだなぁ。
協力もしてもらったことだし、マリア先生の説得――頑張ってみるか



―東京魔人学園剣風帖 第弐拾壱話 前編―



なんかよく分からん夢を見ていた。
柳生らしき男が例の如く高笑いしていて、女の子の苦しそうな声が聞こえてくる。

「ナニしてんだ、あのオッサン」

目が覚めて、思わず呟いた。
みつあみから妨害電波でも出てるのか、あのオッサンに関しての夢は、妙に分かりにくい。
軽く頭を振って、偏頭痛を追い出していると、横から明るい声がした。

「よォ、ひーちゃん。目が覚めたみてェだな。なんかうなされてたみてェだけど嫌な夢でも見たのかよ」

寝顔を見ていたとはスケベめ。

「よく分からん夢なら見てたけどな。おはよう、京一。こんな時間にどうしたんだ?」

今は、見事なまでに授業中のはずだ。
へへへッと得意げに笑った京一は、ニヤニヤ笑いのまま切り出した。

「俺が今日――、学校を抜け出してまでここに来たのには、理由がある。今日はクリスマスイブだぜ? お前だって、一緒に過ごしたい女の子のひとりくらい、いんだろ?」

クリスマスイブに過ごしたい女――どうしようか。
本来は、当然葵だ。だが、彼女自ら頼まれてもいる。

葵は願っていた。御門もああ言っていた。
一旦は止めようと決心し、プレゼントまで用意してもらった。

それでもまだ悩んでいた。止まってくれれば良い。だが、そう思う事自体が、今までの彼女を否定する事になるかもしれない。
……運に掛けるか。

誘いに応じてくれたら――止めよう。


「マリア先生」
「なッ!? 美里は?」
「マリア先生だ」

驚愕に叫んだ京一に、もう一度繰り返す。
そう不思議がらんでくれ。自分でも、まだ悩んでいるのだから。

「お前……本気だったのか。まあ、当たって砕けるのも青春か」

いまだ納得できない様子で首を捻りながら、京一は病室を出ていった。
そこまで言われると決心が鈍るんだが。
ま、今更だな。

ちょうど目も覚めた事だし、退院の仕度でもしておくか。


「やれやれ――、こんな早くに退院されてしまうとは、これからまだまだ、可愛がってやろうとおもっとったのに」

真顔で言われてもなーー。
病院の出口には、看護婦さんまでほぼ勢揃いで見送ってくれた。涙ぐんでいる人までいるが……何もしていないぞ。
それにしても舞子だけかと思ってたら、全員ピンクのミニスカ白衣――矛盾してるな――だった。揃われると、そーいうとこのようだ。

「ひひ、残念だねェ。まァ、調子が悪けりゃ、また、いつでもおいで」
「本当にお世話になりました。確かにまた、そのうち来るかもしれません」

そもそも来れればいいんだが。
誰かあのオッサン担当してくれないものか……。俺は止めさえさせれば良い。


「ひひ、嬉しいことをいってくれる」

先生は嬉しそうに笑ってから、ふと真顔になる。
小声で続けた。ちゃんと、生きた状態でここまで来るんだよ――と。

心がけます。死にたい訳ではないし。



「きゃッ。あッ、ご、ごめんなさいッ。あの、あたし」

悩みながらも、指定された待ち合わせ場所で待っていると、女の子にぶつかられた。
長い黒髪や控えめな態度に葵を思い出して、なんだかせつなくなっていたら、後方から不良さんたちがワラワラやってきた。

「クソッ、待ちやがれッ!! このアマ、よくも、ヨシユキをッ!!」
「手品みてェなワザ使いやがって!!」

脅える彼女をとりかこんで口々に叫んでいる彼らをボーッと眺めていた。
聖夜だっつーのに、お暇なようで。

「てめェ、もう逃がさねェ……ん? なんだァ? てめェは。邪魔するんじゃねェよ」

不良さんたちのひとりが、こちらに気付きやがった。
ところで人の思索を邪魔しておいて、その口の利き方はよろしくないな。

「邪魔した記憶はないが」
「カッコつけやがって……、これからデートかい、兄ちゃん」

素直に反応したら睨まれた。
我慢してやる義理も無いので、挑発的に応じる。

「ああ、金髪グラマー美女と。それに対して、君らは複数で女の子を追いかけていると……。ふッ、不細工な面に見合った聖夜の行動ですな。メリークリスマス」

肩を竦めてフッと鼻で笑ってあげたら、揃って茹ダコのようになった。
面白いほどに顕著な反応だ。

「て、テメェ」
「ちょうどイイや、テメェもツラ貸しな」
「このアマ、オメェもだよッ!!」

わざわざ人気の無い路地裏に入って行く。
本当に……馬鹿だなぁ。

「へへへ、ここならちっと騒いだぐらいじゃ、誰も来やしねェ。女の前に、まずてめェからいたぶってやらァ」
「へッ、憂さ晴らしにゃ、ちょうどいいぜッ!!」
「ケケッ、運が悪かったとおもって諦めな、兄ちゃん!!」

楽しそうな彼らはシカトして、女の子の方へ向き直る。

「怪我はない?」
「あ、は、はいッ」

外見は、特に傷はないようだ。
ここまで走ってこれたのだから、見えない所を殴られているってこともなさそうだ。
不良さんたち良かったな、俺の機嫌が比較的悪くはない時で。

「そっか。で、運が悪い――か。その言葉の意味を、知るのは君らだな」

嘲笑を浮かべながら、彼らの方へ振り向く。
くだらないことで罪のない人間に喧嘩を売った代償を、クリスマスが訪れる度に、後悔と――疼く後遺症とともに思い出すといい。




「なッ、何なんだよ、こいつは――」
「人間じゃねェ。こいつもバケモノだ」

失礼なことをほざきながら、彼らは逃げ去っていく。
本当はもう一撃くらい加えたかったが、黒髪少女にお礼と――気になることを言われたので思いとどまる。

「あの、もしかして、あなたは真神学園の緋勇龍麻くん?」

逢魔ヶ淵高校二年の六道世羅――彼女は、そう名乗った。
……あからさまに敵っぽい。学校名、本人名ともに。

更には、『ある人』に俺のことを聞いた。自分と同じ不思議な力を持っていると。
フーン。

「名前を聞き忘れちゃったんですけど、紅い学生服を着た人でした」

……何企んでるんだか。
最近、罠を回避しようとする気力もない。来たら破る――そんな感じだ。


それじゃあ――丁寧に礼をして去っていく彼女と入れ違うように、名を呼ばれた。

「龍麻クン―――!! こんな所で、一体、何を……、手に血が付いているわ」

そう言われて、右手を見ると、確かに小さな血痕がついていた。
珍しいな、返り血さえ滅多に浴びないのに。

一体、何があったの? ――聞いてきたマリア先生に、事の顛末を説明する。
正当防衛であることをさりげなく主張しながら。

「そう、女の子を庇って、こんなことに。そうね、それは男の子として当然のことかもしれないけど、でも、暴力で何もかも解決できるとおもわないで。アナタの拳は、危険すぎるわ……」

そ、そんな人間凶器のような言い方は酷い。
いつでも暴力を振るっているわけでは……あるか?

「それにしても、アナタには転校してきたその日から、騒動ばかりがついてまわっているわね。担任教師としては、本当に放ってはおけない存在だわ」

えーー、それはボクの責任じゃない気がする。
トラブルが次から次から次から次へと、怒涛の勢いでがぶり寄ってくんだから。

「フフ、校外に出てまでお説教じゃ、あんまりよね。体を動かした後で、お腹が空いているんじゃない?」
「確かに少々」

不満が顔に出たのか、マリア先生が笑って話を転換する。
別にあの程度の雑魚潰し、運動の範疇に入らないが、美女との食事は望むところなので首肯する。


連れてかれた先は、結構な高級店だった。
金は多目に持ってきたが、先生が食前酒にワインを無造作に頼んだ時点で、流石に顔が引き攣った。

「フフフ、心配しないで。今日はワタシがご馳走するわ」

僅かだったはずだが、先生は気付いたらしく、悪戯っぽく笑む。

確かに、少々びびったが、今の財政状況は『おっちゃん金持ってんどー』だ。
勿論、仲間の旧校舎での努力の成果だし、そのうち還元を考えてはいる。

だが、今は俺のもの。よって使う。
この状況で女性に奢らせるのは、ヒモかホストでもない限り、人として間違ってる。

「女性に奢らせるような教育は、受けていないんですが」
「フフフ……。でも、教え子に奢らせることはできないわ」

う…。押し問答になりそうだな。
ヒモになったつもりで我慢するか……、あ、ツバメがあった。
では、ツバメ扱いということで、年下が折れるか。

「ではせめて一つ、お願いを聞いて頂けませんか?」
「なにかしら」

婉然と笑う彼女にしばらく見とれる。
ひたすらに豪華絢爛だ。

我に返ってから、胸ポケットを探り、小さな包みを取り出す。

「クリスマスプレゼントです。このくらいは受け取って下さい」
「ありがとう……開けて良いかしら」

頷き、先生の白い指が、紅のリボンを解くのを眺めていた。
細部に至るまで綺麗なんだな。

御門が用意してくれた中でも気に入ったもの――小ぶりだが深い色のペンダントが、ケースから顔を出す。

「マァ。綺麗な深い――紅ね」
「先生は深紅の輝石、そういうイメージがあります」

一瞬だけ動きを止めてから、先生は今つけている金のペンダントを外した。
ルビライトのペンダントを手に取り、首を傾げる。

「付けてもいいかしら?」
「もちろん。あ、付けますよ」

テーブル越しには難しいので、ウェイターが来なさそうなのを確認してから立ち上がる。
つけやすいようにやや俯いてくれたので、髪を挟まないように気を付けながら留め金をとめる。
その時にふわりと香った香水に、倒れるかと思った。どうして、こんなにも妖艶なんだか。



先生は胸元の石をいじりながら、少し照れたように呟いた。

「綺麗ね。本当にありがとう……龍麻」

おお、好感度が上がったようだ。クンが取れた。



「マァ、クリスマスツリーね。綺麗だわ」

新宿駅西口の大きなツリーを見上げ、先生が小さく歓声を上げる。
僅かに上気した顔が、可愛かった。

「ねェ、龍麻。アナタはクリスマスツリーを飾ったことがあるかしら?」
「いや……少なくとも、物心ついてからはないと思います」

今時の日本の中流以上の家庭とは思えないが、確か無かったと思う。
別に何かポリシーがあるわけでもなく、ただ面倒なんだそうだ。プレゼントとかは普通にもらっていたし、食事もケーキに七面鳥だったが、飾りは一切なかった。

「マァ……。フフフ、それじゃあワタシと同じね。欧州の生まれなのに、おかしいとおもうでしょう?」

い、いや、理由の予想はつきますけど――なんて、寂しそうに笑う彼女に言えやしない、言えやしないよ。
先生は数歩先へ進み、更にせつないことを言い出す。

「でも、ワタシの家はキリスト教ではなかったから。クリスマスなんて言葉を口にすることもなかったわ。
だから、広場や教会のツリーがとても羨ましくて……。物陰に隠れて、よく見上げていたものだったわ」

マリィみたいな感じだったのだろうか。そんな小さな子が物陰からツリーを――。
な、涙で前が見えない……。


あまりいい想い出ではないけれど――いつか帰らなくてはいけない、一族の眠るあの土地へ

しんみりとした様子で、彼女は呟いた。
表情が見えないようにか、振り向かず、小さな声で。

「フフフ、少し感傷が過ぎたわね。龍麻には、退屈な話だったでしょう?」
「そんなことはありません」

いや、本当に涙が出るかと思ったよ。

「フフフ……。龍麻は優しいのね」


僅かに先行く彼女は、前を向いたままポツリと続けた。

「こんな風に、誰かとのんびり街を歩くなんて、なんだか、久しぶりだわ。それにヒールを履いても人を見上げるのも……ね」

ヒールはいた状態の彼女とだと、5cmくらいしか変わらないんだが、それでも新鮮なんだろうか。
犬神先生も、あんまりかわらないのにな。

少し黙っていたら、マリア先生はくるりと振り向いて、首を傾げた。

「ねェ、こうしてクリスマスの夜に並んで歩いていたら、ワタシたち……、どういう関係に見えるのかしら」
「恋人――と思いたいですね」

おそらくそう見えるはずなんだが。
マリア先生は年齢不詳だし、自分は少々ふけてるし。

「フフフ。やっぱりそうかしら。なんだか……、罪悪感を感じるわ。こんな若くて可愛い子と、恋人だなんて……ね」

可愛い……新鮮な誉められ方だ。
今までの年上の人にも言われた事が無い。年上具合が、半端じゃないからか?

「ねェ、龍麻。
これから、光の塔を見に行かない? その光がはたして聖なるものか、禍々しきものなのか、龍麻自身の目で、確かめて欲しいから。一緒に……来てくれるかしら?」
「ええ、もちろん」


「龍麻なら、そういってくれるとおもったわ。フフフ。行きましょう」

頷くと、先生はどこか辛そうな様子で、先へと進んだ。



「確か、この辺りだったはず……、アッ――これだわ。このクリスマスツリー……。こうして夜見ると、まるで、光の塔でしょう?」

広場に出て彼女が示したのは、巨大なクリスマスツリー。
ライトでデコレーションされたそれは、確かに光の塔だった。

「キレイ……と、いってしまうのは簡単ね。でも……この光が、あまりにもキレイで眩いから、人は……その隣りに寄り添う闇の存在を、見失ってしまう。光の傍らには常に闇があるのは世界の始まりからの必然なのに」


そっか。
光は常に闇とともにあったのに――人は、作り物の光を手に入れたことで、いつしかその認識を失ったんだ。

闇を存在しないもの、もしくは穢れのように扱うようになった。
闇は……それをどう思ったのか。
憎んだのか、怒ったのか――それとも……泣いたのか。

「ねェ、龍麻……。アナタの瞳には、どちらが美しく映るのかしら?」
「闇ですね」

別に闇の住人である彼女のことを、慮っているわけではない。

知っているから。闇が恐ろしいだけではないことを。
日の光の中では生きられなかった純白の女性のことも、陰に生きた不器用な単細胞の事も気に入っていた。

「フフフ。まさか、アナタの口からそんな言葉が聞けるなんて、おもってもみなかったわ」
「闇は、恐怖ではないでしょう?むしろ安らぎだと思います」

そう答えると、先生は、今までの余裕顔が嘘のように、硬直した。

別におべんちゃらでもない。本心なんだが。
暗闇に包まれる時に覚える感覚は、確かに畏怖もあるかもしれない。だが……安らぎが第一だろう?


「アナタは不思議な子ね。だから、きっと」

そこで、彼女は言葉に詰まった。

しばらく目を閉じ、それから謡うように呟く。
おそらくは心からの言葉を。

「本当は……、ワタシもそうなのかもしれない。何が真実で、何が虚構か、どちらが本当で、どちらが嘘か、とうの昔に、見失ってしまったのかもしれない。それでも、ワタシは」

なぜ『それでも』?
いいじゃないか、見失ってしまったなら。
幸せな嘘を選んでも、構わないだろう?

「見失ってしまった真実なら――分からなくなるほどに幸せな虚構なら――、虚構を選んでも、良いのかもしれませんよ。選んでも、きっと誰も責めないでしょう」
「龍麻……。もしも光と闇が、対立することなく、再び共存できたなら……」

なんて――、そんなこと、あるはずがないのはワタシが一番知っているのにね

何かを言いかけてから、首を横に振り、消えそうな声で、彼女は囁いた。
そんな未来は訪れない――そう決め付けているかのように。

なんとなく互いに黙り込んでしまったが、周囲の人達が歓声を上げたので、つられて上を見る。

「アッ…、雪が……」

しばらくふたりで空を見上げていた。
ホワイトクリスマス――関東で、こんなことがあるんだな。

聖夜の奇跡とでも言えばいいのか……。


結構悩んだ。
ここで先生に触れても良いものかと。

葵の顔も浮かんだし、先生にも失礼な気がしてきた。
まさか恋人に頼まれて、この場に来たとは考えていないはずだ。


他に想う女がいるのに――同情で抱くというのは、女性にとってどうなのか

そう理性は躊躇していたが……駄目だ、耐えられん。

本人は気付いていないのだろう。
今泣きそうな顔をして、ツリーに降り注ぐ雪を見つめていることに。


愛しさが込み上げてくる。
……ごめん、葵。


まずはそっと髪に触れる。
先生は、僅かに身動ぎしただけで拒まなかった。
次に金の髪を一房とり、それに口付けながら問う。

「嫌がらないならば――止めませんよ?」

この状況で、相手の方に選ばせるのは、卑怯だと思う。自分で決めるべきなのは分かる。
それでも彼女に任せたくなった。


まだ反応はない。だから、抱きしめてみる。

「龍麻……」

一瞬震え、それから彼女は熱に浮かされたように続けた。

「今日、いいえ、今だけは、忘れて。お互いの立場も、明日が来ることも。全部忘れて……。
今夜、だけは。龍麻、あなたと……」



イヴに、予約なしの状態でホテルが取れる訳が無い。
一応ラブホもチェックしたが、軒並み満杯なようなので、マンションへと彼女を連れ帰った。



今まで、美人しか抱いたことはない。
皆スタイルも良かった。

それでも――――彼女は、違いすぎた。

シーツに広がった金の髪、黒の下着にガーター
あまりに豪奢すぎて、しばらく言葉を失ってしまった。

「どうしたの?」
「いえ、下着が黒なんだな――と思ってました。赤のイメージがあったもので」

怪訝そうに訊ねられて、つい余計なことを言って誤魔化してしまう。
年相応の反応をしてしまいそうになった自分が、なんとなく恥ずかしくて。

「フフ……色を合わせたいので、ガーターのときは黒なのよ。赤の方がお好みだったかしら?」
「それも非常に似合いそうですね」

口付けながら、一枚一枚と剥いでいく。
胸元を飾る紅の石だけが、唯一の飾りとなる。

老いとは無縁ゆえに、大きくても広がる気配さえない胸。
抱きしめたら折れそうなほどに細いウエスト、逆に信じられないボリュームの腰。

露になった見事すぎる肢体に、息を呑みそうになる。




「好きよ、龍麻――――――今だけは、誰よりも貴方を」

今だけは――貫かれながら、彼女はうわごとのように繰り返す。
言い聞かせるように、流されまいとするかのように。

腕の中に抱きながら、こんなにも近くにいるのに、心は途方もなく遠い。




先に眠った彼女の髪に触れていたら、後悔が怒涛のように押し寄せてきた。

……まずった。本気で胸が痛い。

今まで同時進行したことがないわけじゃない。
だが、こんなに罪悪感を感じたことはなかった。

葵に本気なことはもちろん、マリア先生にも惹かれていることもその原因だろう。

第一、これだけやって、先生を止められるかというと、その可能性は非常に低い。
先生は幾度も繰り返していた。

『今だけは』と。
忘れるべき『互いの立場』も、教師と教え子のことではないだろう。

結局、葵も先生も傷付けて、何もできなかったってことだ。
さすがに自己嫌悪を感じる。どれだけ力があろうとも、大切な人のひとりを救うこともできないとは。


こんな力などいらない――そう思う事は滅多にない。
既に与えられてしまった力なら、いくら願おうと意味のない事ならば、有効に使うように心がける。
通常は、そう考えている。


だが、今は――――。



良い冬休みを――そう締めた教壇の先生を、ボーッと眺めていた。

いつまでも、この距離なら良いのに。
教師と教え子なら、立場上は何もできない。だが――何もしなくてもいい。
――倒さなくても、殺さなくても。


「明日から冬休みか」

HRも終わり、皆が寄ってくる。
そうか……冬休みだったな。

年末年始くらいのんびりしたい

しみじみとそう言った小蒔に、深く頷いた。
あのオッサンも日本人の心を持っているのなら、正月周辺はだらだらするべきだ。



葵の提案で、職員室に挨拶に行くことになった。
マリア先生と犬神先生には、色々お世話になった……確かにな。

ここで終わってくれれば良い。少なくとも彼ら関連のことは。



「君ももう、わかっているんだろう? 共に過ごした時間が、君に答えを教えたはずだ」

職員室の近くで、真剣な低い声が聞こえた。
いつもの、どこか飄々とした話し方ではない。

彼――犬神先生は、続ける。

「いつまでもつまらない理想に縛られていることはない。君は……、君の人生を生きればいい」

だが、相手――マリア先生はかぶりを振る。
その考えを素直に受け入れられるなら、悩みもしなかったんだろう。

「ワタシの人生を――ですって? 今更ッ!! ワタシの答えは、もうとっくに決まってる。これ以上は待てないわ。もう、時間がないのよ……」

叫ぶような泣きそうな声。
彼女が決めてしまった『答え』が、容易に想像できる。

「なんだか、大変なことになってるみたいだな」
「あァ。マリアせんせも、まだ焦るような歳じゃねェとおもうけどな」
「歳って……、それ、一体どういう解釈?」
「ズバリ、マリアセンセーは犬神に結婚を迫っている。信じたくねェけど」

回し蹴りでツッコミたいくらいに、それは違うと思う。

おそらくは――実行するか否かだ。彼女の計画を。
あの時、腕の中で彼女が呟いたことは、嘘ではないんだろう。だが、それでも長きに渡る憎しみの方が強いのだろうか。

「そんな感じじゃないような気もするけれど」
「でも、いわれてみればそんな気も……。ひーちゃん、どうおもう?」

どう考えても、葵の方が正しいだろう。
だが、この場合は自分で答えない方が楽だな。

「直に聞けば良い。犬神先生が気付いたようだよ」
「ゲッ」

そう、とっくに気付いたらしく、先生Sは、こちらを凝視していた。
当然だよな。
すぐに気付かなかったのは、それだけふたりとも興奮していたってことなんだろう。

「お前たち……、どうせ立ち聞きしてたんだろう?」

犬神先生の非難がましい声に、肩を竦めて答える。

「否定はしません。正確には通りかかったら、話し声が聞こえたのですが」
「まァ、いいだろう。お前は、何かききたそうだな」

おお、目付きが悪い。
怖いわ〜、教師が生徒を脅して良いのかしら。

「同じく否定しませんよ」
「どうやら、なにか誤解しているようだな」

呆れたような様子で、ニヒルに笑いおって……。
誤解しているのは京一たちで、自分は――おそらく嫌になるほど理解していると思う。

「俺とマリア先生は、お前たちがおもっているような、下世話な関係じゃあない。俺たちは―――、遠い親戚だ。そうですよね、先生?」
「遠い親戚……。まあ……そうか?」

つい小声で呟いたら、犬先生の方から睨まれた。仕方ないやん、種として近い気がしないんだよ……獣人と吸血鬼じゃ。

「そうね……。多少の語弊はあるけれど、間違いではないわ」
「まァ、そういうことだ。どうせマリア先生に用があって来たんだろう? 心配しなくとも、邪魔者はすぐに消えるさ」

嫌味っぽい。
しかし、やはり犬先生の方は、マリア先生を止めようとしてくれているようだ。
頑張ってくれ。


「せんせ邪魔して悪かったな」
「大事な話……、だったんじゃないの?」

申し訳なさそうに、上目遣いになったふたりに、先生は笑みで応じる。

「フフフ、もういいのよ。お互いの信念をぶつけ合って切磋琢磨していくことは、アナタたち生徒だけでなく、ワタシたち教師にとっても、大切なコトだと、ワタシはおもうわ」

「それじゃあ、さっきのただの教師同士の話ってだけか」
「な〜んだ。そうだったんだ」

京一と小蒔が素直に安心した顔で頷く。
……信じるなよ。さっきの会話のどこに、教師としての要素があったよ。

「でも、突然龍麻が来た時は、さすがに驚いたわ。もしかして、ワタシを心配してくれたの?」
「そういう事です」

いろんな意味で心配で。

「ありがとう、龍麻。
フフフ、心配しないで。ワタシは決して……、いい加減な気持ちなんかじゃないわ」

いえね、逆です。
むしろ翻すくらいに、いい加減な気持ちであってくれれば嬉しい。

「ところで、ミンナは何か用事があって来たんでしょう?」
「あッ、でもボクたちはただ、マリアセンセーに挨拶しとこうとおもっただけだったんだ」
「先生には今年一年、色々とご心配とご迷惑をおかけしてしまったから、その……お礼をいおうとおもっていたんです」

その後無難な挨拶のやりとりが続く。
最後にマリア先生が、微笑んで言った。

「えェ、ありがとう。さよなら、みんな。良いお年を」



「真神に来るのも、今年は今日でおしまいね」
「へへッ、なんかあらためて見るとボロい校舎だよなァ」

校門から校舎を振り返り、感慨深く呟いた葵に、京一が冗談めかして答える。
小蒔もボロい事には同意しながらも、『そこが味があっていい』んじゃないかと返す。

「うふふ、私はこの学校がとても好きよ。たくさんの想い出が詰まったこの学校が」
「えへへッ、ボクだって大好きだよ。おんぼろ校舎も、ここで出会えたみんなも」

ちょっと待て。
なんでそんな巻きの入った発言を……。
やだなあ。皆ある程度の『力』持ちなのだから、虫の知らせレベルだとて侮れないのに。

「ひーちゃんは……どう?」
「そうだね、大切に思うよ」

この空気で、否定系を返せる人間が居るんだろうか。
もっとも、この学校を好きなのは、本当なんだが。人間として多大な問題があった自分が、比較的まともになったのは、この学校で出会った人達の影響も大きいのだから。

「えへへ、良かった。真神でひーちゃんやみんなと会えたコト――、ボク絶対に忘れないとおもうよ」

満面の笑顔で頷く小蒔は可愛い。
が……言葉の内容が、いろんな意味で不吉だ。

「おいおい、まるで、これが最後みたいないい方だな。なに、冬休みはたかだか2週間だ。年が明ければ、あっという間に、また、ここへ来ることになるさ」

あまりに最終回チックな小蒔の言葉に、醍醐も突っ込む。

だが、確かにそんな感傷に襲われた。
これは、年が明けないのか――、ここに来れないのか――、校舎が見納めなのか――。

「嫌でも……なッ。さッ、こんな所で湿っぽくなってねェで、さっさとラーメン食いに行こうぜッ」

湿っぽくなった雰囲気を断ち切るように、京一が明るく宣言する。
……ラーメン食いに行くという予定は、特になかったはずだが。

「いつの間にラーメン屋へ行くことになったんだ?」
「あははッ、ボクは賛成だよッ。それに―――」

醍醐の呆れた声に、小蒔が無邪気に答えた。
それを引き継ぐように、葵が笑みを零す。

「それがいつものルート、…だものね」
「へへッ、美里もいうようになったな。まッ、そういうわけだ。―――行こうぜッ!!」


新宿駅の西口は、一段と混んでいた。

「相変わらず、人で溢れてるな、新宿は。高い所から見下ろしたら、蟻の大群と変わんねェよな」
「何いってんだよッ。これから年末だもん。もっと人出は多くなるよッ」

京一が吉田栄作のようなことを言って、小蒔に突っ込まれる。
……吉田栄作って懐かしいな。今何してるんだろう。


「それより、早くラーメン―――ッ!!」
「どうしたの? 小蒔」
「ヘンじゃない? さっきまで晴れてたのに、どんどん暗くなってく!!」

追憶は、小蒔の叫びに中断された。
不覚だったな。余計なことに気を取られていた隙に、結界に包まれたようだ。
おのれ……吉田栄作め。

「みんな、離れるなよ。こんな所じゃあ、それこそ――、何が出ても、おかしくはない」

醍醐の警告を嘲笑うように、あっさりと『何か』は出てきた。


「そんな所にぼんやり立ってたら妖共に喰われちまうよォ。ククク、アーッハッハッハッ!!」

女の子にしては珍しいダイナミックな笑い方で、六道と名乗っていた少女が現れる。

「まさか、こんなに簡単に引っ掛かってくれるとはねェ。何もかも、あの人のいった通りだったよ」

声の調子も話し方も、昨日のオドオドした様子からは信じられないものだったが。


「もしかして、あなたが、この空間を?」
「決まってんだろう? あんたたちを招待してやろうと、ここに網を張って待ってたのさ。ねェ、緋勇くん。あたしを覚えてるだろう?」

まあ、顔はな。他全ては『別人』のようだったが。

「君は知らない。もっと大人しげな別の空気を纏った人なら会ったが。……もっとも、身体的には同じ人なのかな」

「ククッ、その通りさ。あんたが知っているのは……、今ここにいるあたしじゃない」

やはり多重人格か。面倒くさそうな相手だ。

「ここは陽と陰の狭間に息を潜めるものたちの至高の楽園。妖のものたちが闊歩する閉ざされた世界」

本気の様子で続ける彼女に、やや引いた。
ポエマーすぎ。水岐もビックリだ。

「お前たちの瞳に宿る生命の輝きは彼らにとって格好の御馳走さ。聞こえないかい? 歓喜に咽ぶ妖共の声が。その手も足も、髪も脳髄も、骨の一片に至るまで喰われるよ。彼らはとても貪欲で、いつも飢えているからねェ」

ポエマーつうか、電波も入ってるな。
彼女の言葉の物騒さに、京一が真剣味を帯びた顔で、剣を構えた。

「ひょっとして、あんたも、紅い学ランヤローに唆されたクチかよ」
「お前たちには関係ない!! あの人……あの人だけが、あたしに気付いてくれた。もうひとつの人格に押さえつけられていた、このあたしにねッ!!」

京一の『唆された』が気に食わなかったのか、彼女は怒りの形相で言い返した。
笑ってしまいそうなことを。

「基本だな」

つい呟いてしまった。苦笑も洩れてしまう。
だってあまりにも基本だ。同情すべき敵――そのうち仲間になる美形とかに多そうなパターンだ。

「なんだってッ!?」

睨みつける彼女に、もう一度繰り返す。
基本だと言ったんだ――と。

「『彼が必要なのは力だけだということくらい知っている。それがどうした。誰も必要としなかった自分を、彼だけが認めてくれた』ってやつだろう?」

ありがちすぎて陳腐な話だ。
それに、境遇に同情するほど、君の事を知らない。

「最後にもう一度だけ忠告する。苦しみたくなければ――この空間を解け」

本来は六道さんから消えろというのも入れるべきかもしれないが、その辺は勝手にしてくれ。
そこまでは知った事ではない。一応コレも人格のひとりなのだろうし。

「う、煩いッ!! お喋りはもう十分だろう? そろそろディナーを始めよう。もちろん――、メインディッシュはあんたたちさ」

狼狽している時点で駄目だろう。
長く主人格を抑える事もできなさそう……というか、放っておいても消えそうだ。柳生が無理矢理目覚めさせた反動もあるんだろう。利用されてるだけだというのに、哀れだな。


「どうやら、俺たちに選択権はないようだな。仕方がない。行くぞ、龍麻!!」

醍醐に対し頷いて、足を踏み出す。
最近赤いオッサン対策に鍛えていたから、彼女なんざ相手にもならないから面倒なだけだ。だが、そう口に出す訳にもいかないな。
結界内だから援軍を呼べず、久しぶりに五人しかいないこともあるし、いいハンデかもな。





やはり呆気ない。
こんな簡単にやられるくらいなら、出てくるなと言いたいほどの戦闘力だ。
何か……他に企みがあるのか?

「あッ、あたし、あたしは―――、一体、なにを……?」

本来の六道さんが出てきたのか、呆然とした様子で呟いていた。
弱々しくも、頭を振る。

「うぅ…、出てって―――。あたしの中から、出てって……」

それもまた自分なのだから、否定してはいけない。受け入れるんだ――ってロー○ス島戦記で言っていたが、その辺はどうなのだろう。
多重人格に詳しい訳でもないしな。

「どッ、どうしたの? この娘、なんか様子がヘンだよッ」
「あッ、あァ……」

小蒔、醍醐……そこまであからさまに引いたら失礼だろ。
呆然とした様子で呟く彼女の姿は、確かに怖いが。


「あたしの中に、もうひとり……、違うあたしがいる。
そいつがいうの。あたしに……、あなたを、あなたを――――――」

言葉が途切れ、彼女は頭を抱えてしゃがみ込んだ。
しばらく苦しそうにしていたが、ふいに平然とした様子で立ち上がる。


「くっくっく……。今こそ開く、時逆の迷宮――。すべては、緋勇 龍麻、貴様の存在を無に帰す為に――」

声も口調も、見事に変わる。さっきの悪人格ではなく、別人が乗っ取っているようだ。
その氣からもわかるが、時代がかった物言いこそが、奴だと示している。
やれやれ。

「ボス自らウロウロするなよ」
「くっくっく……。こやつは、刻を視る者にして、万物の六道輪廻を司る《力》をもつ者」

人の話を聞かずに語り出す。
誰かこいつ止めろよ。

「ひとつの時代に、ふたりの《器たる者》はいらぬ。我が手の内にある《器》こそがこの時代を制する者也。
こやつを使った真の意味は、緋勇 龍麻―――貴様を刻の彼方へ封印する事よ。
その空間を自在に操る《力》によって、緋勇 龍麻―――、貴様を相応しい世界へと帰してやろう」

フルネームを連呼するなよ――と、呑気に構えていたら、やばい、目眩がしてきた。
強すぎる力を一挙に受けて、洒落にならん。
俺が《器》だからこそ、何とかなるものの、普通の人間だったら存在が壊れるか、気が狂う。


しまった……。大した事のない戦闘力――それも道理なはずだ。
『万物の六道輪廻を司る』『相応しい世界』……こっちが真の狙いか。


「刻は戻る。過ちの原点へ――。汝は帰る。相応しき世界へ――」

自分の存在の基盤が揺らぐのを感じる。空間震か?
まずい……世界レベルで、どこかに跳ばされる。


『あーはははははッ――』

柳生の馬鹿笑いが、遥か遠くで聞こえる。
くそッ

ほんと、このオッサンだけは殺す――
絶対に――

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