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「あ、龍麻――」

待合わせ場所の新宿駅東口に着いたと同時に、声を掛けられた。

明けましておめでとうございます――そう笑む彼女は、和服姿だった。
ビバ日本の風習。

「どう? おかしくないかしら?」

おかしいことがあるわけなかろう――よく分からない言葉で答えたくなるくらい似合っている。
葵は昔ながらの黒髪だから、余計に似合う。
自分の髪が天然に茶色だから憧れるのかもしれんが、やっぱ和服は黒髪だろ。

「うふふ、ありがとう。そういってもらえると、私も嬉しい……。今年も……よろしくね」

最終決戦直前のイベントとは思えないほどの、ほんわかした空気が流れる。
これが続けばいいのにな。

「ひーちゃん、葵ッ!! へへッ、明けましておめでとッ!!」

暗くなりかけた気分を吹き飛ばすかのように、明るい声が聞こえてきた。
前言撤回……茶髪の和服もアリだな。

「えへへ〜。高校最後のお正月だよッ。着物くらい着なくちゃねッ!! ただ、着物の欠点はこの締め付けだよねェ〜」

ポーズを取る小蒔は愛らしいんだが、締め付け云々言いながら、ダッシュでやってきたことが凄いと思った。
弓道で着慣れてるとか……だが、あれは袴に近い。着物との動きにくさは、段違いのはずだが。

「うふふ、小蒔ったら。そんなこといわないの。とっても似合ってるわよ」
「うん、可愛い。それなら、醍醐も鼻血を吹くね」

帯によってできた腹の堅い部分一帯を、ポコポコと叩いていた小蒔の顔が、かーっと紅潮する。
照れた様子で、頭をかく。

「えへへ、そうかな? なんか、今更だけど緊張しちゃうな」

おお、こなれた反応だ。
醍醐とのことは結構進んだのか、からかわれる事に慣れたのか、平気になってきたんだな。

「それじゃあ、あらためて―――、今年も、よろしくね、ひーちゃん!!」



「あれ? あの3人って……もしかして!?」

真神に向かう途中の道で、小蒔が驚きの声をあげた。
確かに驚くのも理解できる。その指先には、珍しい組み合わせの三人組がいた。

「あッ!! ダーリンッ!!」
「あッ、ホントに龍麻!!」

気付いた彼女らが駆け寄ってくる。
このふたりの仲が良いのは知っている。嵯峨野関連をきっかけとして、正反対に見える彼女らは、不思議と気が合ったようだから。
ただ、もうひとりは意外だった。

「や、明けましておめでとう。舞子、亜里沙――芙蓉」

駆け寄ってきた彼女らとは対照的に、困惑顔でゆっくりと歩いてきたスーツ姿の美女は、確かに天后 芙蓉。

「えへッ、ダーリン、明けましておめでと〜ッ。今年も、わたしのこと、よろしくね〜ッ!!」

なんだか新鮮な挨拶だ。
今年もよろしくってのは、確かに『わたしのこと』をよろしくなんだろうけれど、口に出されると不思議だ。

「あ〜、いいなァ。ふたりとも、着物なんだァ。もしかして、これから花園神社へ行くの〜?」

小蒔たちの服装を見て、舞子が少し羨ましそうに首を傾げる。

彼女はいつも通りのナース服に、白に近い淡いピンクのコート。
亜里沙は、なんかハードな黒のコートに、いつもの制服。

芙蓉は寒さを感じないのか、黒スーツだけだった。
皆美人なんだが……独特の迫力があって、ナンパとかはされなさそうだな。

「えェ、そうなのよ。高見沢さんたちは、もしかしてもう帰りなのかしら?」
「そうだよ。丁度今、お参りしてきたとこ。もうちょっと早く会ってたら一緒に行けたのにね」

「だね、惜しかった」

気さくに肩を竦める亜里沙の言葉に、本気で頷く。
女の子をぞろぞろ連れて初詣ってのも、なんだか幸先良さげなのにな。

「ところでさァ、ふたりとも、いつの間に芙蓉サンと仲良くなったの   ?」

先ほどから気になってたらしく、小蒔が率直に訊ねる。
確かに……接点あるか? せいぜい、俺の入院中くらいしかなさそうだ。

「いェ、わたくしはただ晴明様の御命令で、少々調べものを……」

困った様子で、口を開く彼女は、随分と人間味があった。

「元旦早々、女の子を働かせるなんて酷い奴だよ、御門って!! だから、そんなのシカトしちゃって遊びに行こうッて誘ってんの」
「そうそうッ、一緒に行こうよォ〜ッ」

しかも、途中で遮られた事が、更に可愛く思える。
いつから存在しているのか知らないが――、初めてなんだろうな。こんな人達は。

「でも、その。龍麻様……、わたくしはどうすれば」
「行ってくればいいんじゃないか」

ですが……一層困った顔になる彼女は、本気で可愛い。
人間と変わらないな。

「悩むという事は、行きたいと思ってるということだし。大体、今ごろ調べものを頼んでいるということは、御門の性格上、裏付けだろ」
「そうよ、御門さんには後で私たちがうまくいうから」

葵、ちょっと待て。
その御門への言い訳は、俺が言うんじゃないのか?

「わかりました。お供……させて頂きます」

抗議する前に、決死の表情での芙蓉の宣言がなされた。
そこまでマジにならんでも……。

「うふッ、それじゃあ決まり〜ッ!! さァ、どこへ行く〜?」
「そうね、やっぱりカラオケだねッ!!」

芙蓉がカラオケ……ははは、同行したい。
尤も、そういう訳にもいかない。

バイバ〜イ――明るく手をブンブン振るふたりの奥で、芙蓉が本当に小さく手を左右に振っているのが可愛かった。

「うんッ、じゃあねーッ!! あははッ、ヘンな3人!! ほかのみんなも来てるのかな?」

楽しそうに笑ってから、小蒔が首を傾げる。
そうかもしれないわね――葵が頷き、思い出したように付け加える。

「そういえば、今日も神社でヒーローショーをやるらしいわよ。マリィったら、お父さんに連れてって、って、ねだってたもの」
「ウチの弟も、また行くんだってはりきってたよ」

無邪気なお子様らだ。
それにしても、この寒いのに……。

「あいつらも大変だな。あれって結構な重労働なんだろう」
「う〜ん。コスモレンジャー、侮り難し」

おーッほほほほほ!!

どこで聞いていたんだか、小蒔の感心するような言葉と同時に、辺りに高笑いが響く。
ポーズを決めたその少女は、当然の如く桃香だった。

「もちろん―――!! コスモレンジャーは、子供たちの憧れの的よッ!!」

どーでもいいが、ピンと三人揃った時とではポーズが違うらしい。
普段と微妙に違っている。

「と、いけないッ!! もうこんな時間じゃない!! 急がないと、猛と隼人に怒られちゃうわッ」

ちゃんとヒーローショーに来てくれるか――その確認の為に、真神の近くまで来たらしい。
頷いておくと、疾風の如く走り去っていた。

「もう、地元でやってればいいものを。高見沢サンや藤咲サンもわざわざ花園神社に来てたし、なんだか、まだまだみんな新宿に出てきてそうだね」
「うふふ、本当ね。でも、私は少しその気持ちもわかる気がするわ」

呆れた様子の小蒔に、葵が笑いかける。
きっと自分がみんなの立場でも、きっとここへ来てる――と。

「真神学園のある新宿―――、龍麻、あなたのいる、この街にね」
「それは少し照れるな」

そうかもしれないねッ――頷いてから、小蒔は表情を少し曇らせる。
もう一つの理由に、思い当たってしまったんだろう。

「それにみんな、新宿で何かが起こるのを感じているのかもね」

そう……そっちの比重も大きいんだろうな。
なんとなく三人して黙り込んだが、ゆっくり沈んでる暇はなかった。


「雨だよッ! ――うわッ、空が真っ暗!!」

結構な勢いで水滴が降り注いでくる。
こんな急にってことは、通り雨の可能性も高いが、寒いし、なにより彼女らは晴れ着だ。

急いで校舎に駆け込んだ。



「さすがに静かね」

校舎内の薄暗い中で、葵が不安そうに呟く。

アン子のヤツ、よくひとりで平気だなァ――独り言のような小蒔の呟きに、反応が返ってきた。
誰もいなかったはずの空間から、わりと響く声で。

「ひとりじゃないよォ〜」

確かに、彼女は居てもおかしくなさそうだけどな。
わざわざ学校に残って調べ物をしていてくれたらしい。
凶星の正確な位置と星の動きを。

明日―――1999年1月2日、
この日の零時をもって魔星蚩尤旗は黄龍の穴の鬼門に入る。
陰が陽を凌駕し、聖なる方陣が最もその力を弱める時、この時こそが、時代が変わる時。


それが、彼女が詠んだ星の流れ。
明日の午前零時に龍脈の力が放出される――ってことか。

気を付けて……少し遅れていかなくてはな。

「うふふ〜、何が起こるかは、誰にもわからない〜」

うふふふふふふふふふふ〜と、もの凄〜く嬉しそうに、笑いながら去っていった。
本気で足取りが弾んでるな。

「あッ、ミサちゃん!! ―――行っちゃったよ。もう、不安を煽るようなことばっかりいうんだからッ!!」

まあ、楽しくて仕方ないんだろうな。
ダムスちゃんの予言に限らず、一九九九年つーのは、そういう話が多いから。




新聞部部室の扉をガラガラと開け、小蒔たちが先に入っていく。

「おーい、アン子ーッ!! 迎えに来てやったよ〜ッ!!」
「アン子ちゃん……いないの? あッ―――」

続けて入っていくと、葵の絶句した理由が分かった。
アン子ちゃんは、机に突っ伏した状態で眠っていた。しかも、編集作業らしき夢に、うなされながら。


「コラッ!! 起きろ、アン子!! ア・ン・子!! ヨダレが垂れてるぞッ」
「はッ―――!! あれ……? ふあァ〜……、Happy New Year.」

小蒔に叩き起こされて、彼女はまだ虚ろな眼差しのまま、ぼーっと挨拶をする。
会話しているうちに、やっと意識がはっきりしてきたらしい。

「あたしとしたことが、みっともないところ見せちゃって……」
「ホントだよッ。ボクは一瞬死んでんのかとおもったよ」

死んでるとは思わんかったが。
というか、机で寝ると身体痛いだろうに。

「寝るなら、いっそのこと床に寝た方が良いと思うよ。机じゃ背中にくるだろう?」
「龍麻……床に寝る女の子は、どうかと思うの」

え、本気だったんだが。
床は冷たささえどうにかできれば、いい寝床なのに。

進行状況やら初詣の事を話していたら、アン子ちゃんが、思い出したように言った。
そういえば今日はマリア先生が来てるわよ――と。

何故こんな時期に?
小蒔たちが言うように、『3年生の担任だから、なにかと仕事が溜まってる』とは、思えなかった……。

新年のご挨拶と初詣のお誘い――、張り切る三人の後ろを、重い足取りでついていった。
明るい想像が、なにひとつできない。



彼女は薄暗い中で、ぼんやりと雨の景色を見つめていた。
電気も点けず――とことん虚ろな眼差しで。

新年の挨拶を交わしても、どうにも集中していない。
心ここにあらずって様子だった。

「センセー……。ねッ、ボクたちこれから花園神社に初詣に行くんだけど、センセーも一緒に行こうよッ!!」
「そうですよ、先生。その……気分転換くらいにはなるとおもうし」

小蒔とアン子ちゃんも、マリア先生の様子がおかしい事に気付いたようで、遠慮がちに誘いかける。

「そうね……、一年の初めだものね。神様に……お願いすることもたくさんあるわね」

貴女の場合、『神様』相手ではないんだろうに。
そんな哀しそうな顔をするのなら――本当に止めてくれ。

することがあるので、後から行く――そう言った先生の表情から蔭りが消えることはなかった。


「センセーどうしたんだろ。なんか、元気なかったね」
「う〜ん、でも、大人には大人の事情があるし、あたしたちには、どうしようもできないことかもよ」

廊下にて、彼女らは心配そうに後ろを振り返っていた。
結局のところ、アン子ちゃんが一番正しいのかもしれない。
彼女には彼女の事情があって、自分には……どうしようもないのかもしれない。


「あッ、雨やんだみたいだよ!!」

やっぱり通り雨だったらしく、外に出ると既に雨は止んでいた。
とりあえず気分を切り替える。あまり暗い顔をしていたら、皆に気付かれてしまう。

さて、京一たちも待っているだろうから、急ぐか。花園神社へ――――。





「あッ、いたいたッ!!」

入り口の辺りで突っ立ってるふたりを認め、アン子ちゃんが駆け寄っていく。

「明けましておめでとうッ。なんだ、あんたたちも元気そうね」
「そういうお前こそ、元気そうだな。でも、無理して体、壊すなよッ」

そんなやりとりを聞いていると、京一とアン子ちゃんというのも、お似合いなんじゃないかと思ったよ。
ま、何はともあれ新年の挨拶をば。

「おめでとう。悪い、待たせたみたいだな」

なァに、いいっていいって――明るく答えた後、京一は『着物かァ。そうこなくっちゃな』とヤニ下がる。
お前はオヤジか。


「その制服は、遠野が一生懸命頑張っている証拠だろう」
「ま、まァ、そういってもらえると嬉しいけど……、ホント、そろそろ追い込みだからね」

着物じゃないことを一瞬いじけかけたアン子ちゃんに対し、醍醐の的確なフォローが入る。
さっきの小蒔への、自然な誉め方といい、大人になったねェという感じだ。


さて中に入るかというところで、中から小走りでやってくる見慣れた人物がいた。

「やっぱここで正解やッ。ほんま、陰陽師の兄ちゃんの占い通りになりよったなァ」
「わたしにも少々易の心得があるのでね」

こちらは、シェンとは対照的に、悠然とした足取りでやってくる。
シェンは顔でも見られれば良い――くらいの気分で来てくれたらしいが、御門の方は用件ありとのこと。


「明日―――1999年1月2日、この日の零時をもって魔星蚩尤旗は黄龍の穴の鬼門に入ります」

ミサちゃんと同様の内容を、御門は語り出す。
詳しい説明が終わった辺りで、ふと、芙蓉のことを思い出し、恐る恐る訊ねてみる。

「わざわざありがとう。……ところで、芙蓉に、その裏付け頼んでたりする?」
「ええ、ご存知なのですか?」

さて――ここで伝えないで、後で芙蓉が怒られたら可哀相だよな。
……仕方ない。

「その芙蓉なんだが……」
「芙蓉が……どうかしましたか?」

拉致された――そう答えたら、凄い怖い顔になった。
今にも符を取り出しそうな彼を押し留める。

「落ち着け。亜里沙と舞子にだよ。カラオケに行くってさ」
「ほほぅ……カラオケですか?」

目が絶対零度です。
なんか怖くて言い訳じみてるが付け足す。

「迷ってたみたいだから、後押ししてしまった。まあ、裏付けなら……ミサちゃんも同内容のことを教えてくれたから、それが裏付けになるだろう?」

なんかまだ目が怒ってる。
が、なんとか切り替えてくれたようだ。相当冷たい声音ながら、龍命の塔の説明をしてくれる。

「塔が完全に地上に姿を現し、この地を混乱に陥れる。それを止めることは不可能……。あなたがた、いえ、龍麻さん、あなたにできるのは、黄龍の力を陰の者から護ること。――それだけですよ」

と、棘を少々感じるんだが。

「諦めて善処する予定だよ」
「賢明ですね。
今更、嫌だといってみたところで逃れることの適わぬ運命ですから」

頑張ってくださいとか、もうちょっと前向きな言葉が欲しいと思うのは、わがままだろうか。

「まァ、あなたがどうなろうと、わたしには関係のないことですがね。運良く時間と手が空いている時ならば、わたしもお手伝いさせていただきましょう」

ま、この辺の素直じゃないところが、こいつの可愛いところだよな。
勿論、そんなこと口に出したら、鬼神けしかけられそうなんで、黙ってるが。

「では、わたしはこれで」
「それやったら、わいもそろそろ行くわ。この、陰陽師の兄ちゃんにも少しききたいことがあるよってな。気ィつけてなッ」

既に歩き出している御門の背を、シェンが急いで追っていく。
ほんと色んなところで、交友関係が生まれているよな。

「ボクたちがミサちゃんから聞いた話も、御門くんと同じ。今夜零時に、東京を護る結界の力が一番弱くなるんだって。そして、その前に何かが起こるって」
「明日の、午前零時か。今から、約10時間後ってとこだな。こういうのって……、なんともいえねェな」

京一が珍しく溜息を吐く。
分かる。中途半端に猶予があるから、どうにも落ち着かないんだよな。



鳥居前までくると、見知った人物がやってきた。
なんかボスまでの番人がいるRPGみたいだな。最上階にラスボスがいて、各階に番人が――ってパターンの。

「あッ、京一先輩!!」

駆け寄ってくる元気なのは、霧島くんだった。
勿論さやかちゃんも一緒にいる。

「みなさん、おはようございますッ……、じゃなくて、今日は明けましておめでとうございます、ですよね」

さすが芸能人、常におはようございますが染み付いている。
これから事務所の新年会があるんで、ふたりはそこに向かうそうだ。

霧島くん、完璧に事務所公認なんだな。
ま、最近は、恋人の有無で、そんなに人気が変わらなくなったから寛容になってきたらしいが。

結婚したり恋人ができると人気が下がるっつうのも、よく考えんでも不思議な現象だよな。
知り合ってどうにかなる可能性があるとでも思ってるんだろうか。

「あッ、京一先輩。そのうちまた、稽古つけてくださいねッ!!」
「おう、気が向いたらな」

去り際に、霧島くんが頭を下げる。
男らしく応じた京一だったが、さりげにさやかちゃんのコメカミが引き攣ったぞ。
前の『稽古』のときって、デートの邪魔したんでは?

「へえェ、一応センパイらしいことしてんだ」
「この前、ばったり会ってな。ちょうどヒマだったからよッ」

からかいっぽい小蒔の言葉に、ムキになったように言い返していた。

そんな言い訳しなくても。
弟子と認めたからには、ちゃんと面倒見てるのは、凄い京一らしいと思うんだが。

それにしても哀れだな。
京一はさやかちゃんの熱烈なファンなのに、彼女の方は、このお邪魔虫野郎くらいには思ってんぞ。
さっきの『ピシッ』は。


数歩進んだところで、京一が立ち止まり、驚きの声を上げる。

「向こう見ろよ。なんか、人集りができてるぜ」

小蒔が、コスモレンジャーのショーだと説明する。
弟さんは、余程のファンなんだろうか。

「コスモレンジャーは随分と人気があるんだな。これなら、ヒーローショーでも食っていけるんじゃないか?」

醍醐……それは如何なものかと思う。
タダだからこそ、来てるって人も多そうだぞ。

そんな声に出さない独り言は、元気な声にかき消された。

「あははッ、それはいえるかもなッ」

虚ろな目で宙を眺めていた彼女は、もう居ないらしい。
祖父の回復と同時に元気になったのか、彼女はいつも通りの制服姿で笑っていた。

「皆様……、明けましておめでとうございます」

雪乃の後ろから、着物姿の雛乃が、ペコリと礼をする。
似合い過ぎだ。一枚の絵みたい。
同じように思ったのか、小蒔が素直に口に出す。

「わァッ、すごく似合ってるよ!! やっぱ、雛乃は日本美人だもんねえ〜ッ」
「そんな……。美里様と小蒔様こそ、とてもお似合いですわ。せっかくの機会ですものね」

雛乃は柔らかく微笑んだ。
直後に、じとーっと、どこか責めるような視線を、雪乃に向けた。
それから聞こえよがしに呟く。やっぱり姉様もお召しになればよかったのに――と。

「なァにいってんだッ、このオレが着物なんて似合うわけねェだろッ。なァ、龍麻くん?」

それこそ何を言ってるんだか。

「似合わないわけないだろうに。そんなに、美人なのに」
「な……なんだよ、そんな顔してよ。いいんだよ、オレはこのままでッ。着物なんか着てたら、いざって時に暴れらんないからなッ」

彼女の、こう素直に狼狽するところとか、凄く好きなんだが。
それにしても、着物は確かに動きにくいが、彼女らなら和服に慣れてる分、そこまでマイナスにならんと思うが。

しばらく慌てていた彼女だが、深呼吸して、コホンと咳をして、ようやく落ち着いたらしい。
顔は赤いままだが、なんとか通常に戻る。

「それじゃあそろそろ行くか、雛。病院のじいちゃんも、お前の着物姿を楽しみにしてるぜ」
「はい、姉様。それでは皆様、失礼いたします」

おじいちゃんによろしくねッ――小蒔が元気付けるように、手をブンブン振る。
参道に向かい歩き出すと、醍醐がなんだか昔を懐かしむじいさんのような目つきで、しみじみと呟いた。

「こうして歩いていると、みんなで来た秋祭をおもいだすな」
「えェ、そうね。なんだかもう、すごく昔のことみたい……」

秋祭か。……鬼になった天童を、殺したときですな。
葵の言う通り、ものすごく遠く感じるな。
京一の生死が不明だったり、やなのに再会したり、死に掛けたり――と、忙しかったからだろうか。

「そうねェ。写真の整理したり、アルバムの編集したりしてると、本当にもう、卒業なんだなァって実感するわ」

アン子ちゃんは、しみじみ言ってから、京一の方を見ながら付け加える。
あ、あんたはもう一年あるか――と。

言い争い勃発。しばらくは、小蒔も加えて、三人でやりあっていた。
聞いていて少し感心した。京一は、卒業後の予定が決まっているらしい。偉いな。

俺は特にやりたいことも無いので、大学に行く。万が一、何かやりたくなった時に、選択肢が広いように、いわゆる一流校を目指す。――その程度なのにな。
そんな身も蓋もないことを思い浮かべながら、歩いていく。


「葵オネェチャン!!」

やっと参道まで着いたと思ったら、今度はマリィが走り寄ってきた。
赤の着物をきた彼女は、しっかり肩にメフィストを乗っけていた。惜しい、どうせなら、首輪を注連縄バージョンにして欲しいところだ。

「ネッ、ドウ? 龍麻オニイチャン。マリィ……カワイイ?」

可愛らしく首を傾げると、彼女はクルリと一回まわってみせる。
……犯罪的に可愛いな、ロリじゃなくて良かった。

これからコスモレンジャーのショーを見に行くらしい。
……マリィって、中学一年として設定したんだよな。
中学生がヒーローショー? ……まあ、そんなのは個人の自由か。口に出すべきもんではないな。

「それじゃ、マリィ、もう行くねッ。Bye!!」
「おい、そんな格好で走るなよ!!」

元気に走っていく。
京一の忠告は聞いていなかったようだが、こけずに済んだようだ。
本当に元気になったな。


「さて、それじゃあそろそろ、俺たちも参拝に行くか」
「あッ、ダメだよ!! さっき学校でマリアセンセーに会って、センセーが来るまで、待ってるって約束したんだ」

おお、あんまりたくさんの人間に会ったから、忘れかけていた。
適当に話しながら待っていたら、たいして待つこともなく先生が現れた。

「待たせてしまって、ごめんなさいね」
「いェ、俺たちもさっき集まったばかりですから」

わいわいとお参りに向かう。
皆、それまで騒がしかった割には、いざ参拝となると、真面目な顔で手を合わせていた。

神など信じていない。もし居るとしても、見守る以外何をしてくれるんだか知らん。
それでも、一応は祈っておく。

誰一人欠けることなく、この闘いが終わることを。



「これで今年の初詣も無事にお終いね。龍麻は……、何をお願いしたの?」
「ヒミツ」

別にそれほどのことでもないが、気恥ずかしいのと、何となくで、葵の問いに対して言葉を濁す。

「へェ……そういわれると、なんだか気になるわね。龍麻のお願い事……、一体何なのかしら」
「よせよせ、そんなもん、追求するようなことじゃねェよ」

予想通りにアン子ちゃんに興味を持たれてしまったが、意外にも京一が諭してくれる。
どうしたんだろう。必死の形相で、卒業を祈願してた人間とは思えないぞ。

ワタシはそろそろ行くわ――と、去ろうとしたマリア先生に京一がぶーぶー言う。
先生は余裕顔でいなし、視線をこちらに向けてきた。

「龍麻……。アナタに、大切な話があるの。後で」

そこで、一旦言葉を切る。自身でも、まだ悩んでいるかのように、しばらくの間、黙りこくる。
だが、結局先生は、その続きを口にした。

――――ひとりで学校まで来てくれないかしら?

「嫌です」

即答する。理由をでっち上げることも、表情を作る余裕もなかった。
無表情のまま、ぶっきらぼうに答えてしまう。

「ちょ……ひーちゃん!?」
「お、おい、龍麻!?」

皆の慌てる様子からも、視線を逸らす。
予測可能なことを――どう考えても悲惨な想像しか浮かばないことを、敢えてやりたい訳がない。

「それでも……、ワタシは待っているわ」

さよなら、みんな。気をつけて―――先生は、寂しそうにひっそりと、笑ったようだった。

皆、様子がおかしい彼女のことに気を取られていて、先程の態度を責められることもなかった。
何の用だろうと話し合っている中で、不意に京一が呟いた。
妙に真面目な顔で、アヤシイ――と。

「だって、せんせといえども男と女だぜ? ひょっとしたら……」
「アンタねェ、なんでそういう発想しかできないの?」

その幸せそうな言い争いに、心が痛んだ。
夜の学校で愛の告白? ならばどんなに良いことか。

「まァ、行ってみればわかるだろ。それにどうやら、俺たちの出番はなさそうだしな」

まとめた醍醐の言葉に頷いて歩き出す。
……それはある意味正しく、同時に間違っている。おそらく闘いになるのだから、本当ならば、出番はある。だが、そんな事は認めない。彼らをマリア先生と対峙なんて、させない。


どうにも暗くなっていたからか、異変に気付くのが遅れた。
日が蔭り、空気が淀む。そして、人の気配が消失する。

この前と同じく、現実から切り離された――柳生の結界内。やれやれ。面倒な事だ。
目の前には、既に見慣れた赤みつあみが立っていた。刀は手にしていないので、やる気はないのかもしれない。

「緋勇龍麻―――。この前、俺がつけてやった傷は、もう癒えたようだな」
「お蔭様で。そちらも健やかそうで何よりですな」

そっちになくても、こちらが遠慮する義理はない。そう考えて観察してみたが、止めることにした。
自分も手甲を持っていない。

近距離で喰らった鳳凰――軽い傷ではなかったろうに、既に治っているようだった。
尤も、あの時以降に会った時は、こいつは別の人間に入っていた。
六道さんしかり、死蝋しかり。

その間、本体は必死に治療していたのかもしれない。
そう考えて、溜飲を下げておく。

「貴様は、この俺の野望を人の身ながら、唯一阻止できる男……。貴様こそが、俺の望む世界に生きるに相応しい修羅となるべき男」

なんか愛の告白されている気分なんだが。

「俺は貴様の全てを奪い取り、踏みにじり―――、貴様を修羅の鬼と化してやろう。それが嫌なら―――、この俺を討ち取ってみせるが良い」

しかも、なんだか歪んだ愛系。無関心よりは憎まれたい――とかだな。
熱烈すぎて怖いぞ。

引いている俺の心を察したのか、声が段々遠くなる。
結界から、解放される。


大いなる器の片割れよ……、
この俺を心底、震撼させてみろ!!

この俺を脅かしてみせろ。
早く……来い。
この俺の高みまで―――。

待っているぞ―――。


こいつもポエム男だったようだ。
遠くからの声の内容に、げんなりしてしまう。

高みいわれてもなぁ。
なに言うとんねん――とか、八雲あたりでツッコんでやりたい。


――龍麻さん?

横手から名を呼ばれた。
世界は既に現実のものへと戻っている。

「龍麻さん……大丈夫ですか? まるで、見えるはずのないものを、見ていたみたい」

そこにいたのは、晴れ着を着た比良坂。
そっか、傍から見たら、ボーッとどっかを見て突っ立ってるのか。

嫌な結界だ。せめて……独り言は言ってないだろうな。

「やっぱり、来てみてよかった。さっきまで、院長先生と一緒だったんだけど、なんとなく、あなたのことが気になって―――」
「ありがとう。君が妙な結界を破ってくれてたようだ」

確かに、オッサンに決着つける気は、まだなかったんだろう。だが、実際に結界を壊したのは彼女のようだ。
黄泉帰りの能力増大は、エラいことになっているらしい。
元から彼女の霊的能力は高かったんだろうが、死に触れたことで、より強くなった。――まるで、某戦闘民族のようだな。


「不安だったので近付いただけで、特に何にもしてませんから、気にしないで下さい。あッ、明けましておめでとう」

その笑みは無邪気で愛らしいんだが、つまりは、近寄っただけで柳生の結界が弾けたってことか。
多分、攻撃力は仲間内でも最強になってるな。その分、防御力は並以下のようだが。


「明けましておめでとう。似合うね、それ」
「えへへ、この格好、おかしく……ないですよね? この着物……岩山先生が用意してくださったんです」

『オシャレ』をした女の子共通の動作なのか、彼女はくるりと回る。
実際に、可愛いと思う。
不意に我に返ったのか、比良坂は顔を真っ赤に染めて俯く。
それから小さな声で、さも突然思い付いたように言う。

「そういえば―――、他の皆さんが鳥居の方へ歩いていくのを見たんですけれど、そこまで、ご一緒してもいいですか?」

マリア先生で心が痛んだことがあるので、二度と浮気をするつもりは無い。
それに、彼女は、どうにも守ってあげたい妹的なものを抱いてしまう。
それでも、こういうとこは可愛いと思った。

「もちろん。お姫様、お手をどうぞ」
「あッ」

葵は何度か着たことがあるんだろう、小蒔と雛乃はある意味で慣れている。
が、普通の女の子なら当然のことだ。
比良坂は、着物姿に慣れてないらしく、神社の石畳を歩く姿は危うかった。だから、手を貸す。

「ありがとうございます。わたし……すごく嬉しいです。ふふッ、なんか、照れちゃいます」



鳥居前で皆が並んで待っていた。
葵が気付くと同時に、京一がやや怒りの混じった声を上げかける。

「龍麻!!」
「おッ、ようやく来たか。まったく、何やってたんだよ。みんな心配してて、今、捜しに行こうと―――。あれッ? 紗夜ちゃん!?」

が、比良坂に気付き、止まった。助かった。
京一って、割と彼女のこと気に入ってるよな。妖閉空間でも――って、あれは俺の認識か。

「あッ、ホントだ!! 明けましておめでと!! 着物、似合ってるねッ!!」
「はい、ありがとうございますッ」

屈託のない小蒔の言葉に、彼女も笑顔を見せる。
ここまではいい。

「それじゃあ、龍麻さん。私はこれで」
「え……? もう、行ってしまうの?」
「はい……、岩山先生と約束がありますから」

即座に退去の言葉を口にした彼女と葵の間で、微妙な緊迫感を感じるのは、なぜかにゃー。
くれぐれも足元への注意をなくさないようにとだけは言って、見送る。


皆と同じく手を振っていたアン子ちゃんが、急に笑いを消して振り向く。

「それじゃ、あたしん家、みんなと反対方向だから、行くわね……」
「あァ。今日は家で大人しくしてろよ。無暗に……出歩くんじゃねェぞ」

何か言いたげなその言葉に、京一がいつになく真面目な顔で応じる。
同時に、醍醐と小蒔が、重々しく頷いてしまう。
それは――話してるようなもんじゃないのか?

わかったわよッ――強い調子で、怒鳴り返す。鋭い彼女が、察しない訳がないもんな。

「話してくれないから、全然わからないけど、でも―――」

そこで彼女は口篭もる。
おそらくは、悩んでいるのだろう。気付かない振りをするか、激励するか――。


無事に戻ってこなかったら、承知しないからねッ

結局、彼女が選んだのは、どちらともつかない言葉。
消え入るような小さな呟きに、思わず笑みが洩れる。

「なんのことだかわからないけど、当たり前だろ? 戻ってくると約束しておくよ。――ありがとう」
「もう……、龍麻らしいわねッ。アンタたちを……信じてるから。がんばりなさいよッ!!」

照れたのか、そのまま振りかえらず、走っていってしまう。
可愛い。……俺って節操ないよな。
昔の性格のままだったら、仲間の女の子全員食ってたかもしれない。

「あッ、アン子ちゃん―――!! これで……、よかったのよね」
「あァ。何もかもが綺麗に片付いたら、その時、ちゃんと笑って話してやれるさ」

それが良いと思う。これから最終決戦だなんて知っていたら、気をもむだろう。
終わった後に、実はあの時が直前だったんだと、笑い話にして教えればいい。


新宿駅東口にて、一旦解散ということになった。
家族に伝えたい言葉もあるだろう――って、醍醐。……それはあまりに不吉だろう。

「それじゃ、ささやかながら家族と最後の食事でもするか」
「バーカ。最後なんていうんじゃねェよ」

更に致命的に不吉なことを口にした小蒔に対し、京一が突っ込む。
一瞬驚いてから、彼女は気を取り直すように明るく頷く。

「そっか……そうだよねッ!!」
「はははッ、その、すぐに前向きになれるところが桜井らしいな。それじゃあ、龍麻……集合は何時にするか?」

午前零時に結界が弱まり、その前に何かが起きる。
その何かを未然に防ぎたければ、八時には集合しておいた方が安全だろう。

「んじゃ、九時に新宿駅に集合しよう」

だからこそ――九時に集合。狂いたくはないもんで。

「わかったわ。これが、最後の闘いになるのね」
「あァ、間違いねェな。さァて、ちっとは家で親孝行でもしてくっかッ。と……、ひーちゃんはどうする? さっきマリア先生が、来いっていってただろ?」

途中で、我が家の親が一緒に住んでいないことに気付いたようだ。
ついでに先生のことまで、思い出しやがる。

「幸いというか、家には親がいないから、その間に行ってくるよ」
「あァ、約束は約束だ。行った方がいいだろうな」

醍醐はどこまでもマジメだな。行きたかないんだよ、本当は。

何か心当たりはないの? ――首を傾げる小蒔に、苦笑しか出てこない。
心当たりなんか、泣きたくなるほどにあるさ。

それじゃあ尚更、行ってみたほうがいいねッ
私も行った方がいいとおもうわ。先生どこか、思い詰めた風だったもの
ビビることねェッて、愛の告白なら告白で、男らしく、ビシッと受けてこい!!

次々に頷く面々を見ていたら、なんだか涙が出そうになってきた。
じゃあ変わってくれ――と、全てを投げる言葉が、喉元まで出掛かる。

「ともかく、9時までまだ間がある。行ってこい、龍麻。ひょっとすると、後で後悔するかもしれんしな」

醍醐は正しい。
おそらくは、行っても行かなくても、どちらにしろ後悔する。
ならば――自分の手で、やった方が良い。


元旦の夜だ。真神の校門は、当然閉ざされていた。照明さえも消えている。
尤も、そんなものは、何の障害にもならない。

門に手をかけ、一気に飛び越える。

幸いにも今夜は満月。その明かりだけで、この目には十分だ。
そして、魔の気配を勝手に感じとり、瞳の機能が切替る。
力の有無が視えるようになる。
軽く全体を一瞥しただけで、情報が飛び込んでくる。屋上の一角が、濃い闇に包まれているということも。

あそこで彼女は待っているんだろう。


普通に考えればおかしいが、屋上に続く扉は、全て鍵が開いていた。
この一本に続く道が、心底嫌だ。引き返したい衝動に駆られる。

恐怖ではなく……いや、ある意味では恐怖といえるか。
何しろ、優先順位によって、下位の大切な存在を切り捨てるんだ。やりたいはずはない。
切り捨てても冷静なままの自分も、逆に取り乱す自分も、想像したくはない。


屋上に続く最後の扉を、しばらく凝視する。
ここで引き返せば、まだ間に合う。
彼女の心は傷付けるだろうが、彼女の身体と――己の心を傷付けないで済む。



「――龍麻。来て……くれたのね」

来たくはなかった。
だが、やはりそれはできなかった。

「本当のワタシは、どちらを望んでいたのかしら。アナタが来てくれること? それとも……」

来ない事は――放っておく事は、見捨てる事と等しい。
が、それでも――闘わないですむのならば、その方が良かったのかもしれない。

「ご覧なさい、今夜は満月……。紅の満月が心を奪い、心地よい狂気へと誘う……。そんな夜だわ」
「こんな紅の月は、好きではないです。友人を殺したのは、こんな月の夜だった。ですが、月の下の貴女は――本当に綺麗ですね」

新宿に来てから知り合った女性は、美人と言える人達ばかりだった。
それでも――やはり、彼女と葵の『美貌』は群を抜いている。それは、ともに『人』ではないからか。

ましてや、今は月夜の下。
彼女の金の髪は、闇夜を背景にしてこそ映え、朱の瞳は月の光の下でこそ輝く。

それが――貴き闇の血族。

それにしても、こんなにも綺麗な人だったろうか。
もうどうしようもないほどに、離れた距離のせいかもしれない。同じ側に立てない立場が、余計にそう思わせるのかもしれない。


「龍麻、今夜アナタをここへ呼んだのは、教師としてじゃない。ワタシは―――、ワタシは、アナタを……」

これだけならば、愛の告白だな。
京一の言っていた通り――ならば、どんなに良い事だろう。
けれど続く言葉は、愛ではない。わかりきっている。

「龍麻、今夜、寛永寺へは行かせないわ。今、アナタを、失うわけにはいかないのよ」

『先生』が知るはずの無いことを、彼女は口にする。
失うわけにはいかない――その理由は……。


「フフフ。なぜワタシがそんなことを知っているのか、なぜワタシが、アナタを必要としているのか……。聞きたい事がたくさんあるんじゃない?」

聞きたい事?
正体? 目的? 全てを知っていたか?

そんな事、聞きたくない。

「何も――聞きたくなんてないです」
「龍麻……」

笑顔が消え、瞳に僅かだが戸惑いが現れる。
己惚れではないはずだ。
迷うなら――躊躇うのならば、止めてくれ。

貴女に挑まれたならば、倒すしかないのだから。

「こんな寒い中、風邪をひきますよ。さ、早く中に入りましょう」
「龍麻……アナタはいつもそうやって、ワタシを戸惑わせるのね」

そう言って、彼女は目を瞑る。
……駄目だ。きっと、次にその瞳を開けたときには、決意が為されている。

痛いほどの沈黙の後、彼女はそっと瞳を開く。それは、真紅に輝いていた。
自分以外であれば、即座に囚われるであろう魅了の魔眼。

「ワタシが生まれたのは、欧州はトランシルバニアの古城……。紅き血潮の香りを求め、月と共に永劫を生きる者……。本当はもう、気が付いてるんじゃなくて? ワタシが、人間ではないことに―――」
「とっくに。だから何ですか? あなたは大切な――」

タイミング悪く、地震が発生する。
いや……、良かったのかもしれない。何て言おうとしたのだろう。大切な先生? それとも女性?

先生は、哀しそうな顔で首を振る。
敵だと言い聞かせるように、残酷な台詞を口にする。それが切ないほどに――優しい。

「ワタシは、アナタを待っていたのよ。アナタに出会い、そして――、アナタを、殺すために―――」

柳生が既に、天龍院高校で、《陰の器》を手に入れていた。
だから、待っていた。天龍院高校と対である真神学園に現れるであろう《陽の器》を。

なんといわれようと、今更憎めるはずもない。
大体、そんなこと、とうに知っていた。

「ねェ、龍麻。少しだけ―――、少しだけ、ワタシの話をきいてはもらえないかしら?」

出来の悪い生徒に教えるように、先生は目を細める。
頷くことしかできない。

彼女が語るのは、人と魔の歴史。
人に――光に、蹂躪されてきた、闇に生きるモノ達の哀しい史実。
遥かに勝る力を持ちながら、魔は駆逐されていった。
人間の圧倒的な数、そして、稀に生まれる奇跡の力を有する者によって。


だから――憎み合いましょう、殺し合いましょう

彼女の瞳は、そう語っている。

……嘘ばかりだ。そんな拙い嘘に、人が騙されてくれると思っているんだろうか。

辛そうな表情を消すこともできないのに。今にも泣きそうなくせに。
永劫の刻を生きてきたひとが、赤子のように震える姿を見て―――憎めるはずがないだろう。


何を言えば良いかなんてわからない。
それでも何かを言いたくて、口を開こうとした瞬間に、轟音が響いた。視界が揺れるほどの規模。

近い……ここにいても、大地の鳴動が、氣のうねりが感じ取れる。
既にその場にいる陰の器ならば、力を受け取り始めているかもしれない。


先生が口を開く。
そのことにほっとする。
自分から何かを言うことはできない。何を言うべきかわからない。
だが、相手の言葉に反応することならば、可能だから。

「大地が、歓喜に震えている。もうすぐ、塔がその姿を地上に現し―――、大地は選ばれし者に《力》を与える。ワタシには、その《力》が必要なの」
「選ばれし者に手を加えても、龍脈の力は受け取れませんよ」

己に言い聞かせるように繰り返すマリア先生に、冷水をかけるようだが、はっきりと告げる。
それは紛れもなく真実。
他者に魅了された人形に、そんな力は制御できない。
だからこそ、あの男も苦心した。既に存在するものを操るのではなく、最初から空の器を作る為に。

「彼の望みこそは、破壊と殺戮。力が全てを支配する世の構築。だからあの男は、龍脈の全てを欲する。
でも、ワタシはそうじゃない。
ワタシはただ、この世界を、ありし日の姿に戻したいだけ……。奪われた全てを、この手に取り戻したいだけ」

だから壊れた人形に扱えるだけの力でも、十分だというのか。
彼女にも分かっているはずなのに。
喪ってしまったものは、もう二度と戻らないことくらい。

「少し……、おしゃべりが過ぎたみたいね。ワタシのために死んで欲しいなんて、都合のいいことはいわないわ。ただ――――――、アナタの、気持ちがききたかったの」

気持ち――? 彼女と闘いたくなんてない。それは真実。

「たとえ、ワタシの屍を乗り越えても、アナタには、護りたいものがある……?」

だが、遥か昔、自分でないころに決めた誓約がある。
全てを護ろうなんて思わない。迷えない。
彼女ひとりと皆ならば――皆を取る。

「ええ……だからこそ、闘いたくない。止めて下さい」
「そうね……。アナタには大切な仲間と、愛する者がいる……」

ならば、アナタも命を懸けなさい。

アナタの大切なもののために―――。
アナタの望みのために―――。
アナタ自身のために―――!!


自身に言い聞かせるように、彼女はつぶやいた。
見慣れた紅の陰氣をその身にまといながら。
……力としては、本当に柳生クラスだ。雑魚のみなさんとは、桁が違う。


「お行き、こうもりたちよ」

彼女の影から、黒い小さな影が、大量に分離する。
それらが、一斉に襲い掛かってくる。

だから?
無駄なのに。こんなもの、何の役にも立たないのに。

「巫炎」

一匹ずつ避けるまでもない。己を中心として、周囲に炎の陣を敷く。
耳を劈く妙な音。おそらくは、無数の蝙蝠の悲鳴なのだろう。ボトボトと炭が落下する。


吸血鬼の能力。
魅了――それは通じない。
従者による攻撃――知っている、彼女が人の血を吸っていないことを。
使い魔の使役――俺を相手に? 消し炭になったこれらをいくら増やそうと、意味などない。

だから、もうやめて欲しい。

「この力……これが黄龍の器なのね。でもッ」

彼女の爪が、牙が、硬度を増すのが見て取れた。
そういえば吸血鬼の運動能力は、人間の限界を軽く凌駕する場合が多いな――と呑気な感想を抱く。

実際、向かってくる先生の動きは迅い――だが、それだけだ。
何の苦労もなく躱せる。

彼女は肉体での闘いを知らない。
気配を読むことも、呼吸を計ることも、急所を狙うことも、死角に回ることも知らない。
圧倒的な力で、恐怖に脅える人間を裂くことはできても、高い実力を有する者と渡り合うことはできない。

――武道の有段者よりも、やりやすい。
全てを躱し、一撃で終えることも可能だ。

躱され続けて焦れたのか、より一層単調に突っ込んでくる。
動きが哀しくなるほど把握できる。右に一歩躱し、氣を叩き込む。それで、終わる。

だが、動かなかった。

右肩に爪が食い込む。血が溢れ出す。
本来は痛いはずなんだが、なんとも思わないのはなぜだろう。
さっきからずっと、何処かが痛いせいだろうか。

「……たつ……ま?」

呆気に取られて、彼女は動きを止める。
そこも駄目だ。折角動かないのに、心臓も首筋も、こんなに近くにあるのに。

全てを捨てて、貴女に殺されても良いと、一瞬だけ思ったのに。
俺を殺す機会を、確かに与えたのに。


その一瞬で、心を切り替える。
間近にいる彼女を、堅く抱きしめる。
抱擁でなく――拘束する為に。時間にしては数秒。それだけあれば十分。

先程のうちに遠目に投げ、戻ってくるように設定しておいた数個の氣の塊――円空波が、自分の身体へ戻ってくる。
軌道上にある闇属性のものを、破壊しながら。




偽善だと分かっていながらも、消滅する素振りのない先生の姿に安堵する。

今行ったことは、肉体を殺すことと何ら変わらないのだけれど。
彼女を拒絶した時点で、彼女を案じる資格など、失ったのだけれど。

それでも――生きて欲しいと思うのは、我が侭なのだろうけど。


彼女をこのままにして平気なのだろうか。何処か安全そうな場所に、移すべきかもしれない。
避難先を目で探していたら、弱々しい声が聞こえた。

永き刻を越えて―――、《龍命の塔》が、今産声をあげるわ―――

呟くような微かな声に、もう一度視線を戻す。
懸命に身体を起こそうと、先生が腕をついてもがいていた。

「ミンナが、アナタを待っているわ。お行きなさい、寛永寺へ」

苦しい息で、先生が諭す。消え入りそうな儚い笑顔で。
今は既に八時過ぎ、これ以上時間を無駄にすることは危険だ。
だから……置いていくのか? この状態の彼女を。

それにあと一度強い揺れが発生すれば、ここは――――。


懸念が現実となる。龍命の塔が、その姿を現す。
揺れが発生し、ふたりの間を分かつように、ひびが走っていく。
そして、先生側の校舎が崩れていく。彼女は、ただ笑って動こうともしなかった。

「先生ッ」

ギリギリで、その手を掴む。
一撃だけ食らった傷から流れる血が、そこを伝っていく。
手が……滑る。

く……同情で、敢えて食らったりしていなければ、容易に引き上げる事ができたのに。

「どうしてワタシのコトを。ワタシを、憐れんでいるの?」

離しなさいッ――必死な様子で叫ぶ彼女に、首を振る。
憐れんでるわけではない。ただ死んで欲しくない。それは、こっちの都合だ。

「嫌です。先生が死にたいと思うのは勝手です。貴女に生きて欲しいと思うのも、私の勝手でしょう」

それを聞いて、先生が泣きそうな顔になる。
こんな事態だというのに……今までで一番綺麗な表情だと思った。

「最後くらい……、先生のいうことは、ちゃんときいてちょうだい」
「さっき襲い掛かってきた時点で、教師は解任です。だから、聞けませんね」

先生は、聞き分けのない子をあやすように、柔らかく微笑む。
ぞっとするほどに透明な、死を覚悟した笑み。

「本当の教師になったような気がして、楽しかったわ。
この学園で、アナタたちに会えて、本当によかった。ありがとう」

別れの挨拶にしか思えないことを、彼女は呟く。
凍てついた心は癒せた――だから何だ。死んで欲しくない。
いくら彼女が納得済みでも。

「最後に……ひとつだけ聞かせて―――。ワタシ……、良い先生だったかしら?」
「当たり前です、どこぞの煙草吸いまくりのやる気のない先生とかとは、比べものになりません。だから……力を入れて下さい!」

既に力が入らない。彼女が上がろうと思ってくれなければ、どうしようもない。
なんで……せめて左で受けなかったんだろうか。己の愚かさ加減に、歯噛みするしかない。

「フフ、ありがとう、龍麻。ワタシもアナタたちがとても愛おしかったわ……。ワタシの可愛い教え子たち……。なんだか、本当に教師になったような気がしたわ」


限界に近い事を察したのか、マリア先生が急に壁を蹴る。
反応できる訳がない。血に塗れた状態で、掴み続けられる訳がない。
その手は、た易く抜け出した。

飛ぶ力なんてないのに――その身体は宙へ。

「さよなら――――――、龍麻――――――」

今頃、気付いた。
襟元のいつもの大振りのペンダントの下に、……見えないように、イヴに贈った紅いペンダントを着けていることに。

落ちていく先生の――小さくなっていく声が、確かに届いた。

「龍麻――――――。アナタを―――、愛していたわ」




確かに、これを選択したのは自分だ。
彼女に力を与え、己が死ぬ訳にはいかない。彼女ひとりよりも、皆の存在を取る。だから、倒した――それだけのはずだ。
そこに迷いはなかったはずだ。

この結果も予想の範疇だった。
器を得られないならば、彼女が死を選ぶことだとて、分かっていた。

それなのに、どうして前が見えないのだろう。
滲んだ視界が、全く戻らない。だから、まだ歩けない。


理性が語る。

肩の出血を即座に癒し、この不安定な足場から早急に避難しろと。
この冷え切った空気の中、確実に体力を削りながら流血して突っ立っている意味など、どこにもないと。

だが、身体が全く動かない。
ただ立ち尽くす。血液が更に腕を凍えさせる。

いくら考えようと詮無きことだけが、脳裏を占める。
終わってしまったことを、どうしようもないことをひたすらに悔やむ。

どうして、この手で殺さなければならなかったんだろう。
どうして諦めてくれなかったんだろう。力の差くらい、理解していたはずだ。

そんなにも、人間への憎しみは強かったんだろうか。生徒を見る彼女の目は、あんなに優しかったのに。
この一年でできた絆など、彼女が何百年抱えていた怨嗟の前には、なんの意味もなかったのか。


不意に暖かい感触に、我に返った。
どれくらい呆けていたのかは、わからない。

冷えきった手に、ぽたぽたと生暖かい滴がかかっていた。
まずは驚き、それから渇いた笑いがでてきた。

「ははは……いつ以来だろう」

緋勇龍麻になってから、泣いた記憶がない。
誰の死を見ても、誰を殺しても。
欺瞞だと思っていたから。
己の手で殺した人の死を嘆くなど。己が原因で死した人を哀しむなど。

狂ったかのように笑いが止まらない。
何も起きなければ、このままいつまででも笑い続けていたかもしれない。


だが、今までの比でない揺れが生じる。
これ以上おかしくなっている時間はない。ここで死んだら、それこそ無駄だ。それくらいなら……マリアに命を与えていた。

完全に龍命の塔が、その機能さえもが起動したのか……急ぎ校舎に戻ろうにも、既に半分は崩れている。
仕方無しに、何かに飛び移りながら勢いを殺そうと、周囲を見渡して血の気が引いた。

何もない。樹木も電柱も、全て崩れた校舎側の近くにあった。
流石に、ここから飛び移ることはできない。

もう一度、揺れがきた。
校舎も限界に来ていたのか、残っていた足場が一挙に崩れる。


やば……くそッ、黄龍になれば……落ちても、いや、そうしたら……旧校舎地下の封印が

まとまらない思考に焦っていたら、襟首を掴まれる。というか……噛まれてる!?
それを行った人物は、落下していくコンクリートの固まりを次々と蹴って、落下速度を和らげる。

すげ……樹木とかの止まっているものが対象ならば、自分でも可能だ。
だが、同時に落下しているコンクリートの中で、比較的大きい塊を瞬時に選択し、それを正確に蹴る――無理に決まっている、神業だ。

二階程度の高さになったところで、解放された――というよりも、放り投げられた。

仕方なく自力で、足の屈伸を十分に行い着地する。
少し遅れて降りてきた白衣を着た白銀の塊が、次第に形を取りながら着地する。

こちらを振り返った時は、既に人の形となっていた。
着衣は良いだろう……眼鏡もしたまま、変化していたのか?

「間一髪、だったな。校舎は見事に半壊だが……、こっち側は被害も薄い」
「ありがとうございます。途中二回くらい死ぬかと思いましたよ」

ちなみに二度目は首を噛まれた時――そういって、見事に穴の空いた襟の辺りに触れてみる。
犬神先生の目付きが怖くなったが、あまり気にしないことにする。

「怪我は良いのか」

言われてやっと気付いた。
肩が、いまだ血を流していることに。

「あ……治したくないような気もしますけどね」

言葉とは逆に、氣を集中し癒す。
こんな傷が残っていたら、柳生の相手ができるわけがない。

……治したくはないのは、本当だけどな。
あの人が遺した痕なのだから。

黙って見ていた先生だったが、不意に視線を倒壊した校舎の方に向ける。
誰に言うでもなく、先生は静かに口を開く。

「彼女は、あまりにも高貴で、そして、あまりにも己の運命に忠実すぎた……。人間と同化して生きていくことは誇りを捨てることとは違う。ただ、月明かりの下ではなく―――、太陽の照らす道を選ぶ。ただ……それだけのことだ」

でしょうな。
貴方のことを、誇りを捨てたなんて思わない。

「お前たちと過ごしたこの数ヶ月が彼女を変えてしまった。良くも……悪くも、な。だが、人の想いはそれほどまでに強い力なのだという事を、忘れるなよ、緋勇」

この人も、昔はそうだったはずだ。
一族を滅ぼした人間を憎んで恨んで――永劫の刻を、詰らなさそうに消費していた。

どうしてマリア先生は、それを選んでくれなかったのか。

「良くも悪くも……ですか。変わらなければ、彼女は煩悶することなく、私を獲物と見做し、襲うことができたでしょうに」
「そうだな。だが、彼女の長い長い生の中でこれほどに充実した時代は、恐らく、そうはなかっただろう。何かを強く想うこと、何かを切に願うことは、それを叶えるための重要な力となる。特別な力などなくとも、人は――――――、限りなく強くなれる」


しばし沈黙した後、犬神先生は月を見上げて、独白のように呟いた。

「そして、そんな人という奇妙な生き物を、俺は―――」

犬神先生を、変えた人間が居た。
その人は、狼に憎しみを忘れさせた。人を護ることを決心させた。

要は……己の力不足か。

「緋勇。寛永寺へ行け――。運命は変えられるんだ。人の想いの強さがあれば―――――」

彼女を救うことはできなかった。
だから、せめて世界程度は護ってみせる。
肯き、踵をかえしたところで、ぎりぎり聞き取れるくらいの呟きがきこえた。

「お前たちの帰る場所は俺が護ってやる。だから、必ず真神学園へ戻ってこい」

……感謝します。
真神学園の護人。


待合わせ場所の新宿駅へと向かう。

足取りが、異様に重い。
それに……なんだか凄く寒い。

肩の出血が、まだ続いているのかと思って触ってみたが、確かに癒えている。
そもそも、そんなに傷は深くはなかった。

だが……大量の出血の時のように、寒くて――視界が暗く狭いのは、いまだ続いている。


龍麻―――!!

聞き慣れた声に、視界が僅かに明るくなった。
一直線に、葵が走って来る。

「よかった、無事だったのね。……あの塔が現れた場所、ちょうど、学校の辺りでしょう? 龍麻の事が心配だったから迎えにきたのだけれど」

弾む息で話す彼女が眩しくて、返事もできずに目を伏せてしまう。
今更、殺しを恥じるわけではない。ただ、なんだか辛かった。

―――――こんな態度に、彼女が気付かないはずがなかった。

「……どうしたの? 何か……あったの?」
「あの人を助けられなかった。……君が機会をくれたのに、結局何も出来なかった」

抱くだけ抱いておいて――ただ惑わせるだけで。
止めることもできなかった。


「龍麻―――」

そっと頭を包まれる。
葵の胸に、優しく――天童を殺した時と同じように。
寒さが、少し和らいだ。

「ここまで、本当に、いろんなことがあったわね。あの日から、いろんなことが……」

真神に転入し、葵に――皆に会ってから、いろんなことが。
眠っていた力の発動、仲間との出会い、幾人かとの時を――魂を越えた再会。
傷付き傷付ける闘いの日々。

「でも、あなたはもう知っているはず。あなたは―――、あなたは、ひとりじゃない……」

封じられた平凡な空間で、主人格であったものが叫んでいた。

『ここに居れば、もう誰にも狙われない。もう誰も傷付けない』

幾度あの空間に行く事があっても、――何度でも破壊するだろう。
あそこには、確かに龍脈を巡る闘いはない。
あそこで膝を抱えて震えていれば、酷く傷付くことはない。

けれど――あそこには、作り物しかいない。

明るくおどけた――真摯な木刀使い、実直な番長、素直な弓使い、親切な魔女がいない真神。

派手な雷使い、天真爛漫な看護婦、妖艶なのに純真な少女、剛毅な武道家、複雑な水使い、陽気な風詠み、猛き巫女、淑やかな巫女、健気な火走り、本気で正義感に燃える三人組、姫君の騎士殿、唄姫、泣き虫な弟分、根性悪な暗殺者、皮肉屋な陰陽師、可愛い式神、ひねくれた符術士、黄泉帰りの少女らが暮らさぬ東京。

そして――愛する聖女が存在しない世界。

彼らは言ってくれた。俺の宿星が知れ渡ったとき、半ば人間といえない存在だと分かったときに。

『それがどうした。お前はお前だろう』と。
『今までお前が助けてくれた。だから、今度は俺たちが助ける番だ』とも。

そう平然と、断言した。

そんな彼らが存在しない。
彼らを代償とした平穏ならば、必要ない。


ふわっと髪が優しく撫でられる。
今は涙が出ていないことを確認し、そっと顔を上げる。

それは聖母の笑み。
知らないはずの母と同じ――我が子を護りぬく決意を秘めた、優しく強い微笑み。


約束したじゃない――優しく、静かに綻ぶその口元。
薫風を纏った春の花のような笑顔に、凍えていた心が溶け出す。

「私たちは、最後まで一緒よ」




「ひーちゃん―――!! 美里も、こんなトコで何やってんだよッ」

京一の声が聞こえた瞬間、反射的らしいが、葵に突き放された。
哀しい……。
別に今更見られたって、俺は構わないのにな。

「こんな時に、内緒話なんてナシだぞッ」
「うふふ、小蒔ったら。そんなんじゃないわよ」

そんな彼女らの普段通りの遣り取りが、泣きそうなくらい嬉しくて、そういう顔になっていたらしい。

「どうした……そんな顔をして。龍麻、お前ひとりが何もかもを背負い込む必要はないんだぞ。お前には俺たちが―――、俺がついているからな」

醍醐が、そう宣言する。
やっぱり……、皆、薄々は勘付いていて、心配して来てくれたんだな。
ありがとう……、だが、今は茶化す。

「ははは、醍醐に『ひとりで背負い込むな』って言われた」
「へッ、そりゃそうだ。醍醐は言えないはずだな」

お前もだ。
京一の台詞に、つい逆水平チョップで突っ込んでしまった。しかも鎖骨の辺りに。

ぐはッとか言って、しゃがみこんでいた。
スマン、加減していなかった。

「ありがとう。全部終わったら――皆に話すよ」

マリア先生の事も、犬神先生の事も、校舎のことも。

葵と醍醐と小蒔が、優しい目で頷いてくれた。
京一は、まだ呻いていたが。……ファイト。

「うむ。それじゃあ、全員揃ったことだし、そろそろ行くとしよう」

取りまとめる醍醐の言葉に、頷く。

行ってきます。――先生たち。
必ず帰ってきます。真神学園に――。


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