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「信じられない……あんな『人間』が存在するの?」

僅かに離れた場所から、視ていた女が戦慄の呟きを漏らす。

肩と胸の開いた風変わりな和装束に、妖艶かつ狂った瞳。まともな感情など映さぬはずのその瞳は、今は恐怖に満ちていた。

計画の通り――のはずであった。
仇の仲間が揃う状況では、勝ち目などない。腐る程に腕利きばかりなのだから。術だけで考えても、己を凌ぐ術者が、幾人も存在する。

ゆえに拳武の腕利きの男の夢に介入し、『教育係』について思い起こさせ、ターゲットとの接触を誘導した。
狙い通りに、人気の無い中に、たったふたりで現れた。不要な拳武の男には、同じく拳武を相手にあてがい、自分が仇を殺すはずだった。確かに恐るべき《力》を持つ男ではあったが、彼は術的能力は持たない。
なのに、こうも無残な結果に終わるとは。

いや、そもそも計画の齟齬は、初めから存在したのかもしれない。

本来ならば、もっと関係図は単純であった。
死した男の姿を使い、その口から『俺を殺したのは』と、直接に語らせるはずであった。黄龍の器に、殺害の罪を擦り付け、闇より密やかに暗殺組織最高位の腕を揮ってもらうつもりであった。そして、自分は漁夫の利を得るはずであったのに。

なのに、あくまで常人であるはずの青年は術に抗し、最も印象に残っている場面を視るだけに留まった。
それこそが異常。術など知らぬはずの人間が、抗したことがおかしい。

実際、代わりの手勢として用意していた者――同じく常人であり、拳武の腕利きであるナイフ使いの青年の夢への介入は、容易に成功した。館長の直弟子であり、拳武最強の暗殺者の弟弟子が、自分を殺したのだと、死者より告げさせ、手引きをさせることができた。

だから、失敗を失敗と判断せず、既に歯車の狂った計画を、躊躇うことなく実行した。そもそものイレギュラーを分析することなく。

理由があったはずなのだ。術が効かないということは、彼には失敗要因となるだけの何かがある。
その上、あの信じがたい戦闘力。前もって準備を整えない限り、彼女であっても、一言の呪言を紡ぐ間もなく、即座に殺されるであろう。


女は知らなかった。
青年が、戦国の世より綿々と続く、忍びの一族の末裔であることを。
存在意義などとうになくし、それでも一族は知識を継いでいることを。
そして、その一族は忍『術』などという生まれ持った才能に左右される分野を早々に切り捨て、対抗だけに特化したということを。

ゆえに青年は術の使えぬ常人ではあるが、術が殆ど効かない。
――術しか戦闘手段を持たぬ者の天敵ともいえる存在。


「それにあの男はあの男で……なんて力なの。あれが黄龍の器」

手に持つ符――使役していた己を写した式神は千々に裂かれ、反動対策にと幾重にも張ってあった結界は全て砕けた。いまだばくばくと激しく刻む心臓に恐怖を覚える。

あの男は欠片も本気にならなかった。つまらなさそうに符を砕き、不意に飽きた様子で立ち上がった。
それだけで、式神を写した符は、力を失った。何が起きたのか把握できず、感覚を同調させようとした瞬間に、気が狂うほどの激痛に襲われた。

何が起きたかなんて判らない。ただ、その一瞬だけで、砕かれたのだ。

死ななかったことさえもが僥倖だと。
一流に値する能力が事実を認識させ、認めたくない心が、強く唇を噛み締める。

一流の暗殺者を、所詮は常人と侮ったことも。
黄龍の器の途轍もない力への認識不足も。

何もかもが失敗だったのか。

「その通り。力不足に気付けたかな?」

ひんやりと。
空間が凍りついた。

力を使われたわけではなく。ただ――彼が現れた。それだけのこと。
『それだけのこと』に、女の全身が硬直する。呼吸すら乱れる。わなわなと震え、何もできない。

「おやおや、つれないな。そちらがアプローチをしてきたのに、振り向いてすらくれないとは」

嫌われたものだ――と。

くすくすと背後で笑う死の具現に、何ができようか。
完璧な状態であろうとも、彼の足元にも及ばないであろう。ましてや、今は呪を返された直後。

「安心なさい。女性をいたぶる趣味は持っていません。すぐに――死ねますよ」


心の底から顔を顰めた、本来ならば無表情であるはずの式神が現われる。
示された塊をちらりと眺めた後に、嘗て人型を保てない程の痛撃を喰らわしてくれた青年に対して、むすっとしたままで話し掛けた。

「……影使いは、トマトのようになっていたそうですが、こちらは随分まともですね」
「掌打やって微かに浮いたところを肘を落として叩きつけて、地べたでもがいているのを髪の毛掴んで引きずり起こして延髄斬り。もう一度倒れたのを、そのままの状態で、幾度も蹴りを入れた後、もう一度起こして、八雲で連撃なんて非道いことを、女性にするはずがないだろう?」

影使いはそんな目に遭ったのかと、抱く筈もない同情という感情が、己の内に生まれる不思議を、式神は味わっていた。
視線を再び地面に下げ、小さく溜息を吐く。

「女性に酷いこと云々仰る割には、四肢の間接が外れていますね」
「男女同権」

先程と話が違う。
だがその辺を彼に突っ込んではいけないと、主より厳命されていた。

色々と諦めて、女を転送する術式を組んでいた式神は、かくんと口を開いた。
悠久の刻を渡る中で初めての経験であったが、本当に心底呆気に取られていた。

申し訳ないんだけどさ――との前置きの後に、大地の王より告げられた言葉に。

「拳武に正式に謝罪して欲しい。陰陽師の棟梁として」