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― 東京魔人学園外法帖 第参章 ――


「ぎゃ」
「おや、龍斗師。私の足の下で何をなさっているんですか」

すずやかな、穏やかな声。言葉の内容からは考えられないほどに、優しい声。
対して続いた抗議は、死にかけていた。

「お前が、書庫で……本を読んでいた……俺の背を、踏んで……いるんだッ!!」
「失礼。限度を越えたらしい怒り心頭の壬生さんに、掃除の手伝いをさせられ――いえ、頼まれたので、私は大量の荷物を抱えていて前が見えないのですよ。そして、まさか屋敷挙げての掃除の最中に、寝ている人間がいやがる――いえ、休んでいる方がいらっしゃるとは予想外だったので」
「……わかった。俺が悪かったから、踏みにじるな。そして……どいてくれ」


背中の痛みで目が覚めた。
夢の続きでもあるまいに、まだ背が痛いために、手をやると足があった。それが続く先は蓬莱寺の身体。
緋勇は、そのままの態勢で固まり、しばし後にそれを蹴り飛ばした。身体ごと障子に激突した相手のことは全く気遣わず、起き上がって夢の内容を思い出す。

「そうか。最初に龍閃組と、鬼道衆として相対したのは、御神槌か」

踏まれた背の痛さと共に、しばし考え込む。
確かあの時の彼は、やたら塞ぎこんでいたかと思ったら、らしくもない作戦を勝手に実行したのだったか。

「痛ェッ!!誰だ、ちくしょうッ!!」

障子から何とか剥がれた蓬莱寺が、騒ぎ、跳ね起きる。少しだけ視線を向けた緋勇は、爽やかな笑顔を見せた

「おお、起きたか蓬莱寺。お前も奴に蹴られたのか?」

それは詭弁。お前『も』と口にしても、他に誰が蹴られたなどとは言わない。『奴』にとは言っても、名前は口にしない。ゆえに、緋勇は嘘は言っていない。だが、当然のように蓬莱寺の怒りの矛先は、まだ眠っている大男へと向かう。

「なあ、緋勇。……今、何刻だ?」
「あと半刻ほどで、明六ツだ。空が白いぞ」

朝日の眩しさに目を細めた緋勇の答えを聞き、蓬莱寺はゆら〜りと立ち上がる。
殺気すら漂わせ、気持ちよく眠り続ける大男の元へゆっくりと近付いていく。

「てめェ、雄慶ッ!!」
「なッ、なんのつもりだ、蓬莱寺!!」
「てめェの胸に聞きやがれッ!!」

本格的になりだした取っ組み合いを、緋勇は横目でちらりと眺め、あいつは元気なのかなと思いを馳せた。今現在の彼らの争いは放置するらしい。

『てッ、てめェェェッ―――!!いきなり何しやがるッ!!表へ出やがれッ!!』

あの村に逗留するようになった初日の朝に、枕元で騒いでいた小僧を、蹴飛ばした。加減はなしで。

『闘ろうってのかよ!?上等だァッ!!望みどおり庭の土を食わせてやらァッ!!』

ある意味で楽しそうに跳ね起きた小僧との間に、比較的まともな緊張感が漂った。問題は、直後になった腹の虫。高らかにぐう〜と鳴られては、やる気は著しく削がれる。

『……お前の方こそ、庭の土でも食ってきたらどうだ』
『……う、うるせーッ!!今朝のところは見逃しておいてやるッ。今度、俺を馬鹿にしたら、ただじゃおかねェからなッ!!』

なんのかんのと、結局本気で闘り合ったことはなかった。蹴った数は数え切れない……というか、泳げぬ相手を海に蹴り落としたことさえあったが、それでも色々と邪魔が入り、真剣な闘いになったことはなかった。

それにしても、どうしてああも始終喧嘩になっていたのだろうか。
ふと首を捻った緋勇であったが、記憶を辿り、ああ簡単な話だと、納得した。


『どう見たって、大した腕を持ってそうにも見えないじゃん』

初対面の際に、木から下りてきてそんな言葉を発したから、蹴り飛ばしたのだった。おまけにその後に続いた遣り取りも喧嘩寸前であった。

『俺の名前は、風祭 澳継。御屋形様の右腕だッ!!お前なんかに、この村ででかい顔はさせねェぜッ』

叫んだ少年に対し、緋勇が口にした言葉は、『……これが本当に右腕ならば、存外あの男は無能なのだな』であった。
そんな出会いから、友好的な関係は築けるわけはない。
それに、彼は緋勇の姓から、素性に薄々気付いていたようだった。いつだったか、下忍が何気なく発しただけの技が似ているとの言葉に、本気で怒り狂っていた。


「この鈍ら剣士がッ!!その腐った性根叩き直してくれるッ!!」
「上等だ、クソ坊主ッ!!怪我しても文句いうんじゃねェぞッ!!」

そんな回想をしつつ、今日の朝日は眩しいな――と、緋勇は遠くを見つめる。近くの争いと、それにまつわる障子等の被害からは、目を背けたままであった。

結局、喧嘩が止んだのは随分後の事。

「やかましいねッ!!あんたたち、この寺を壊す気かいッ!!」

時諏佐の威勢の良い声と、高らかに響いた打撲音によって、終演となる。
中々の角度に入ったらしく、声もなく後頭部を抑え悶絶する男二名を、彼女は冷たく見下ろして言う。

「まったく……、大の男が、下らない事で喧嘩すんじゃないよ」
「「それは、こいつが―――、」」

互いを指差し、再び胸倉を掴み合おうとするその姿に、彼女は溜息を深々と吐いた。
勿論、元凶である緋勇は、仲裁する気も説明する気もないため、彼らだけが子供じみて映ることになる。

「倒れた襖は、ちゃんと直しておくんだよ。そしたら、話があるから、本堂へおいで」

素直に頭を下げた雄慶とは異なり、蓬莱寺は拗ねた顔で、どうしてあんたに命令されなきゃならないのかと、抗弁する。

「その破いた襖―――、将軍様が、この寺に寄贈してくれたもんなんだけどねェ」

蓬莱寺をいたぶることに喜びでも覚えたのか、時諏佐はこの上ない笑顔であった。そんなことを軽々しく口にしていいのか考えてしまう緋勇であったが、彼女の中では構わないらしい。

「あたしは、いわなかったかい?あたしたちが、公儀隠密だ―――って。公儀って言葉が、どんな意味か知らない訳じゃないだろ?つまり、そういう事さ。きっと、高いだろうねェ。その襖」

苛める為だけに、わざわざ公儀であることを強調するのだから、中々面白い精神構造かもしれないと、緋勇は考えていた。ぱくぱくと、呼吸困難のように口を開閉する蓬莱寺を横目に。

手伝えという蓬莱寺に、緋勇は素っ気無く自業自得だと言い捨て、それでも彼らの片付けが終わるまでは待ってやっていた。

だが、ぞろぞろと揃って到着した本堂に時諏佐の姿はなかった。
途端に目を輝かせた蓬莱寺は、呼んでおいて居ない方が悪いだの、こんな天気が良い日に閉じ篭ってるなんざ、罰が当たるだの、理由をつけて逃げないかと、緋勇を誘った。

「悪いが遠慮させてもらおう」
「ちッ……。俺は、フケさせてもらうぜ。お前ら二人は、せいぜい、あの女にコキ使われんだな」

緋勇としては、逃げて団子を食いに行く方がよほど面倒な為の拒否なのだが、蓬莱寺は『この堅物どもが!!』と顔面に貼り付けながら、逃げの態勢に入る。

「先生の話を聞かぬつもりか?」
「よくよく考えりゃ、俺は組織ってもんが性に合わなくてな。ひとりで行動した方が、面倒臭くねェしよ」

既に遠くを歩く蓬莱寺が、雄慶に手を上げて応じる。
緋勇は、蓬莱寺が行った先とは逆――仏像の影の方を向き、口を開いた。

「行かせて構わんのか?」
「まァ、いずれ、あれにも分かるだろうさ。自分が何を為さなきゃならないかが……ね」

返ってきた笑いを含んだ声に、雄慶は愕然と振り向く。確かにこの部屋は誰も居なかった。少なくとも自分には、そう感じたし、蓬莱寺も同じくであったはず。

「せッ、先生ッ!!いつから、そこに?」
「最初からさ。ちょっと、考え事をしていたもんでね。声をかけそびれちまったのさ」

雄慶は、畏怖の念を抱いた。時諏佐の隠行と、それすらも掴めていた緋勇に。
彼は無表情のままで、時諏佐と言葉を交わし、座るように言われ大人しく従っていた。

「こっから、東へ二十間ほど行った処に長屋がある。そこにいる犬神という男にこれを届けとくれ」
「犬神?不精髭を生やした呑んだくれのことか?」

小さく笑いながら問い返したのは緋勇。犬神という名から連想した人物が居た。蕎麦屋で会ったあの男のことを、主人は『この近くの長屋に住んでる』と言っていた。

「何だい、あの男に遭ったのかい?なら、話は早いやね。こいつを、その男に渡してくれりゃ、それでいい」

差し出されたのは文。龍泉寺の時諏佐からだといえばわかるだろうという時諏佐に、緋勇は承知と一言頷いた。尤も、素直に受け取るとは思い難いがなと、内心にて呟きながら。

「犬神って男は、ちょいと変わり者だけどね。噛み付かれない様に気をつけるんだよ」

連れ立って歩き出した彼らに掛けられた時諏佐の言葉が、それを裏付けているだろう。緋勇は気取られぬ程度に、小さく溜息を吐いた。あの男の瞳を思い出すと、気が進まなかった。



「先生の話だと、この辺りに長屋が。むッ、あったあった。あそこだな。さて……犬神という男は、何処に住んでいるのだろうな。誰かに、尋ねてみるとするか?」

雄慶が見つけたのは、一際古い長屋。その提案に頷きながらも、緋勇の顔は不安に曇った。

「ああ。だが……他に人は居るのか?寂れきっていないか?ここは」
「う……うむ。だが、誰かひとりくらいは」

同じ危惧を抱いていたのか、周囲を見回した雄慶であったが、彼らの心配は杞憂であったようだ。

「ちょっとォ、そんなトコに突っ立ってられると、通行の邪魔なんだけど。どいてくれる?」

きびきびとした声。目線をやった緋勇は、遠野 杏花という名の彼女のことを思い出した。
戻ってきてからは、まだ会っていなかっただろうか――と考え込む。顔見知り程度の知り合いである彼女については、記憶が定かではないため、断言はできないが、確か初対面のはずだとの結論に達した。

「お主は、確か瓦版屋の―――」
「誰?あんたたち?あたし、会った事あったっけ?」

彼らの遣り取りから察するに、正解のようであった。
あとは流して聞いていた緋勇であったが、話題が『謎の奇病』に至ったところで顔を上げる。

突然の高熱、身体に浮き出る蛇の鱗に酷似した斑紋。心当たりがあった。苦しみ、悩み、それでも呪いを解放し、更に苦しんだ男のこと。

「蛇の祟りっていう可能性もあるわね」
「祟りか―――穏やかではないな」

顔を顰めた雄慶に、遠野が語ったのは怪談めいた話。遥か二百年も昔のこと。

小石川の宗慶寺の近くの旗本が住んでいた屋敷に、夏場になると身の丈は六間余り、胴回りは醤油の一升樽ほど。齢数百年といわれる蛇がその巨体を揺らしながら、ずるずると夜毎、屋敷の中を這い回り、人を脅かした。
ある日、当主が、これを斃そうと、弓を引き絞り、射、矢は見事、その右目の上を貫いたのだが、以来、屋敷は、不可思議な災いに見舞われる様になった。至る処に、右目を腫らした蛇が、怨めしそうに現れ、その蛇を見た人は、原因不明の病に倒れ死んでしまった。

確かに、現在の奇病を連想させる話ではあった。

「むッ、そうだ。ちょっと、待ってくれッ」

次の瓦版の記事をまとめなければならないからと、去りかけた遠野を呼びとめ、雄慶はあの男のことを尋ねた。効果は覿面。返ってきたのは見事な渋面。よほど彼と周囲との付き合いは、上手くいっているようだ。

遠野の語る犬神の像は、緋勇の想像していた通り。
人間嫌い。昼間は碌に姿を見ない。酒ばかり飲んでいる。そして極めつけは時折聞こえるという獣のような唸り声。

「そういえば、何回か、キレイな女の人が訪ねて来てた事があったわね。白い着物を着たすごい美人よ」

それでも時諏佐は、なにかと構っているのだろう。あれほどに人間を恨む者と触れ合うことなど、困難なことであろうに。お優しい事だと、やや皮肉がこもっているとはいえ、緋勇は本気で感心していた。

「奇病に鬼か……。寺に戻ったら、先生に報告した方が良さそうだな。まァ、とりあえず、その前に犬神とやらに手紙を届けるとするか」
「いってらっしゃいマセ」

ひらひらと手を振った緋勇は、雄慶に睨み付けられ溜息を吐いた。遠野の話を聞いたが為に、気が進まないことこの上ないというのに。

「ここだな。ん―――?はて……。留守か?」

戸を叩き、開き、首を傾げる雄慶の百面相を、緋勇は疲れた顔で眺めていた。
彼の感覚には、微かではあるが、存在が掴めていた為に。

「いや……いるぞ」
「なに!?いったい何処に」

愕然と振り向いた雄慶に、緋勇は顰め面で部屋の片隅を指差す。
そこには、音もなく身体を起こした男が居た。

「人間というのは、どうしてこうも煩い生き物なのか……。ふァ〜あ……」

陰鬱な声で、嫌味を呟きながら、彼は立ち上がった。未だに無音のままにて。
犬神殿ですね――と尋ねる雄慶を射殺しそうな目で見ながら、不機嫌に応じる。

「いかにも、俺が犬神だが―――、人の家に勝手に上がり込んで、名前を名乗らぬとは、礼儀を知らぬ奴らだ」

この男に礼儀云々ほざかれたくはないなと口の中で小さく呟く緋勇とは異なり、雄慶は慌てた様子で頭を下げる。

「これは、重ね重ね、失礼致した。拙僧の名は、雄慶と申します。こっちは―――」

自分で名乗れと、目で告げる雄慶に、緋勇は肩を竦めた。本当ならば名乗りたくもないのだが、それはあまりに子供じみた行為。この大人気ない男と同程度というのには耐えられず、渋々と口を開く。

「緋勇 龍斗だ……、興味もなかろう?」
「……ああ。別に、お前らの名前を知ったところで、俺にとっては、関係ない。で、その緋勇に雄慶とやらが、俺に何の用だ?」

雄慶が困惑した様子で、険悪な空気の中で睨み合うふたりの男を見比べる。彼には理解が出来ない。

なぜ、初対面の筈の犬神が、こんなにも敵意を溢れさせて自分らを見るのか。
そして、緋勇はなぜ、こうも反発するのか。まだ数日の付き合いといえど、彼はどちらかといえば落ち着いた人間であると思えたのに。

だが、今はそれどころではなく、自分と緋勇は用件があって犬神の元を訪れたのだと、雄慶は己に言い聞かせた。
この殺伐とした遣り取りから、緋勇が切り出すとは思えず、仕方無しに雄慶が口を開く。

「我ら共、龍泉寺という寺より使いとして参りました」

龍泉寺から?

馬鹿にしたように呟いた犬神の言葉に、雄慶は緋勇の額に走った青筋を幻視した。実際の彼は無表情極まりないのだが、非常に気が立っていることを、なぜか理解してしまった。

「そういや、緋勇といったか。お前とは、蕎麦屋で遭っているな。まだ、この江戸をうろついていたとは。この江戸は祟られている……。餓鬼は、さっさと故郷にでも帰って、静かに暮らすんだな」

また火に油を注ぐような犬神の言葉に、雄慶は眩暈を感じた。緋勇の顔を覗き見ることすら躊躇っているうちに、思いのほか静かな声が応じた。

お前といい、時諏佐といい――――無理な忠告をしないで頂きたいものだな。

感情をどこかに置き忘れたかのように抑揚がない。犬神を睨みつけるでなく、ただ見つめるが如き静かな眼差し。だが、緋勇の瞳に微かに宿るは、怒りでも哀しみでもなく、絶望と虚無。

その瞳に、雄慶は恐怖を覚えた。
彼を落ちついた人間だと考えたのは誤りだったのではないかと。彼は、もしかしたら感情が磨耗し、失せてしまっているのかもしれないと。

そして気付いた。緋勇の瞳は、もうひとりの男の――――犬神の瞳と、そっくりであることに。彼らは見つめ合いながらも、瞳に何も映していなかった。

「ふんッ。で……?俺への用件は?」
「あッ、はい。犬神殿に、文を届けて欲しいと」

先に逸らしたのは犬神であった。彼は雄慶の方を向き直り、用件を尋ねた。耐えられなかったのかもしれない。鏡に映したような瞳を直視することに。

「持って帰れ」

文を取り出そうとしていた雄慶に、冷たく言い捨てた。
内容はだいたい想像がつくと。そしてお断りだと吐き捨て笑った。

「帰ったら伝えておけ。俺は、人間のために手を貸す事はない―――と。まァ、酒が出るなら、話だけは聞きに行ってやらんでもないがな」

それで済ませれば良いものを、収まりがつかなかったのか、もう一度視線を緋勇へ戻し、嘲笑とともに首を傾げる。子供に言い聞かすように、馬鹿にした口調にて。

「わかったか?ちゃんと、そう伝えるんだぞ?」

今の緋勇に、揶揄を受け流す精神の余裕は存在しないらしい。
その口元がゆっくりと弧を描くさまを、雄慶は頭を抱えながら遠く眺めていた。

「畏まりました。犬神殿の御言伝、確かに我らが主、時諏佐様に伝えましょう。『聞く耳持たぬが、酒だけはたかりに行ってやろう』と」

意外なほどに正しい礼儀作法。但し――前半部分のみ。
先程の静かな緊張感とは、根本的に異なる緊迫感が、周囲に広がる。空気など、既に冷え切っている。そのまま殺し合いが始まったとしてもなんら不思議ではない状態のまま、たっぷりと時間が経過する。

「ふんッ。いっておこう。俺は、お前みたいな瞳を見ると虫唾が走る。長生きしたかったら、金輪際俺には干渉しない事だ。わかったら、さっさと出て行け」

最後の自制心が働いたのか、苛立った声にて吐き捨てた犬神は、緋勇と雄慶を部屋から追い立てた。
ばくばくと脈打つ心の臓を抑え、死地から生還したことを確認し、雄慶は犬神の部屋を振り返り、独り言る。

「ふむ……話以上に偏屈な男だな」
「ああ、困った餓鬼だな」

もはや他人事なのか、元の様子に戻った緋勇が、あっさりと頷いた。
ここでお前もだろうと、素直に口にするほど雄慶は命知らずではないので、口を噤んだ。

「ん?緋勇に雄慶じゃねェか。何してんだこんなトコで」

聞き覚えのある声。それが救い主にすら思えて、雄慶は急ぎ声の方を見た。
案の定、髪を無造作に束ねた剣士が、向かってくる所であった。

「何だ?やっぱり、お前らも寺から逃げ出して来たのか?」
「お主と一緒にするな。俺たちは、時諏佐先生の使いで長屋に来ただけだ」

使いっ走りかと笑う蓬莱寺のふざけた態度ですら、凍えた精神には、ぬくもりと化す。本来ならば怒っていたであろう雄慶は、ただ不思議そうに首を傾げた。

「お主こそ、何故、こんな場所に」

すわ、朝の再戦かと、身構えかけていた蓬莱寺は、拍子抜けしたのか、一瞬動きが止まる。だが、すぐに持ち直して、笑みを浮かべる。

「瓦版屋の杏花とかいう女が俺のいう事、信じねェからよ。ちょいと、誤解を解きにな」
「お主、まさか、鬼の事とか、龍閃組の事はいってないだろうな?」

話を信じない。それは彼女に信じ難い事を語ったということ。

まさか……と。幾ら蓬莱寺が軽薄であろうとも、そんなことを軽々しく話すはずがないと、祈るような気持ちで問うた雄慶は、不貞腐れたように視線を逸らす蓬莱寺を見て確信した。

この馬鹿は――話したのだと。

「お主、時諏佐先生が、他言無用だといった事を忘れたのかッ!?」

もごもごと言い訳する蓬莱寺を怒鳴りながらも、雄慶は日常に回帰できた事が嬉しかった。この取るに足らない遣り取りを眺める緋勇の眼差しに、先程の底なし沼のような恐ろしい虚無は存在しない。

安堵し、そして緋勇のことが気に掛かった。
それとなく様子を窺おうとすると同時に、爆音が劈いた。

「何だ、今の音はッ。まさか……鬼かッ!?」
「ちッ、こんな真ッ昼間からいい度胸だぜッ!!あっちだッ!!」

駆け出した蓬莱寺に頷いた雄慶は、気付いた。緋勇が全く緊張していないことに。鬼ではないというのだろうか。

「雄慶?どうかしたのか?行くぞ」

首を傾げて、緋勇は蓬莱寺の後を追った。別に彼は、全知全能の如く、争いではないと察したわけではない。
この時期、この長屋での事件の報告など知らない。鬼道衆絡みではない。

だから――興味が薄かっただけであった。

「ゲホッ、ゲホゲホッ。……やはり、あれでは割合が多すぎたんでしょうかねえ。ケホッ。雷汞の着火は確実なのですが、安全性に問題が生じますか……。ここはやはり、舶来のふりんとろっくとやらが有効ですかね。う〜ん」

煤けた若い男が、時折咳き込みながらぶつぶつと呟いていた。周囲の男三人からの呆れた視線にも気付かぬようであった。

「おや?どうしたんです?こんなに人が集まって―――。何かあったんですかい?」

顔を上げ、彼はさも今初めて気付いたとばかりに目を丸くする。

「何かあったも何も、でけェ音が聴こえたから駆け付けたんじゃねェか」

憮然とした蓬莱寺の答えに、彼はぽんと手を打った。合点がいった様子で、ただ実験が失敗しただけなのだと笑い出す。いつまで経っても周囲に人が現れないことから察するに、よくある事なのかもしれない。

「あちきは、この長屋で、からくりなんてもんを研究している、支奴 洒門といいます。この辺りじゃ《千手の支奴》なんて呼んでくれる方もいますがね」
「実験とは、どんなものなのだ?」

緋勇には、先程の騒動は記憶に在った。もう少し先の話であったはずだが、嵐王が開発した式神を創成する際の音を数倍にしたものに思えた。

「いやいや、それをお尋ねくださるとは、あんた、いい人ですねえ。そうだ。これをあげましょう。そいつはね――」
「《式神羅写》?やはり式神創成の実験だったのか?」

途中で遮った緋勇の言葉に、支奴と名乗った男は、僅かではあるが目を細めた。もっとも、元より細目の男のこと、誰も気付かなかったようではあるが。

「おや、ご存知でしたか?」
「式神といえば、陰陽道の秘儀だが、それとは違うようだな」

全く内容が理解できていない蓬莱寺を置き去りに、雄慶が尋ねた。
彼の知る式神とは、紙や木片に命を吹き込み、陰陽師が使役する鬼神であった。男が差し出したは、それとは異なる印象を受けた。

陰陽道なんて得体のしれないもではなく《科学》によるものだと、男は頷いた。紙に記憶させた映像を、大気中の塵や埃に投影させ、いろいろな効果を発生させる事ができると、嬉しそうに語る。

今は科学によって、全てが説明できると続けた彼に、蓬莱寺が挑戦的な笑みを見せた。雄慶が止める間もなく、彼は言葉にしてしまった。

だけど、人が鬼に変わるなんてのは、説明しようがねェだろ――と。

余計なことをとばかりに蓬莱寺の脛を蹴り、悶絶する彼は放置して、雄慶はどうにか誤魔化した。元より怪異に興味が薄いらしき青年は、特に拘らず、実験を続けるからとあっさりと去っていた。
その際、自分には要らぬものだからと、蓬莱寺に吉原細見を手渡していたようだが、一々自分が注意することではあるまいと、雄慶は口出ししなかった。

そんな瑣末ごとよりも、緋勇の方が気になった。流れの拳士だと説明した彼が、何故に陰陽道、そして科学とやらによる式神にまで、精通しているのだろうか。

「雄慶?さっきからどうかしたのか?」
「う、うむ。用件も済んだし、寺へ戻るとするか。時諏佐先生に報告する事もあるしな」

自然な様子で首を傾げる彼だけではない。蓬莱寺の素性も、美里の事情も、何も知らないのだということを、今更に思い知り不安を感じた。


「おかえりなさい。ご苦労様」
「藍殿ッ。どうしたんです?こんな処で―――」

『仲間』への釈然としない想いを抱いていたせいか、迎えた美里に対し、上擦った声が出た。
だが、美里は気にした風もなく、屈託なく笑んで答える。

「うふふ。私も龍閃組の一員よ。龍泉寺に来るのは当然でしょ?」

みんなに聞いて欲しい話もあってと口にしかけた彼女は、慌てて首を振った。

「あッ、ごめんなさい。帰って来たばかりなのに。お茶を淹れてあげるわね。疲れたでしょ?」
「別に気を使わんでも」

視線で問われた緋勇が、素っ気無い程に首を振ると、美里は少し哀しそうに俯いた。

「お茶は嫌い?でも、持って来たお茶、おいしいのよ。ちょっと、待ってて」

ぱたぱたと音を立てて急ぐ美里の背を見送りながら、緋勇は小さく息を吐いた。
話とやらを、早く聞きたかったのだがな――と。

「確かに気になるな。あッ、先生」

時諏佐の姿に気付き、雄慶はばつが悪そうに呟いた。簡単な使いの用件を果たすどころか、相手と険悪にすらなってしまったのだから、言い訳のしようもない。

「御苦労だったね。文は渡してきたかい?」
「いえ……それが。……ん?文が……」

慌てて荷物をひっくり返す雄慶に、さっさと先に中に入っていた緋勇の声が掛けられた。

「文なら奴の部屋に、隙を見て置いてきたぞ」
「い……いつそんな時間があったんだ」

あの殺気と緊迫感の中で、どうやって成し得たのかが信じられなかった。

呆気に取られていた時諏佐であったが、やがてけらけらと笑い出した。素直にゃ受け取らないと覚悟していた文が、そんなにあっさりと届いたとは、傑作だと。

「ありがとよ。座って、茶でも御飲み。丁度いい。あんたたちに紹介したい人間がいるんだ」

手招き、入ってきたのは俯いた少女。
活動的に、裾を短くした着物を纏っていた。

「あの、百合ちゃ―――いや、先生よ。この暗〜い餓鬼は誰だよ?」
「あら?小鈴ちゃんじゃないッ。どうしたの?こんな処で」

時諏佐が答える前に、美里が話し掛けた。
知り合いかとの蓬莱寺の問いに、手伝い先と彼女の父とが旧知の仲なので知り合ったのだと答えた。

「へェ。こんな山猿みてェな餓鬼と知り合いとはねェ。しかも、辛気臭ェし、こんな餓鬼を一体、どうしようって―――、」
「蓬莱寺、その辺で止めておかぬと大変だぞ」

少女の額に走った青筋に、ぎゅっと握られた拳に、相当の怒りを見た緋勇が、一応の忠告を与える。だが、少々遅かったようだ。

「へ?――ぐはッ!!」

首を傾げた蓬莱寺に、見事に拳が命中する。

「ふんッ!!さっきからうるさいんだよ、このへっぽこ浪人ッ!!初対面だから、せっかく大人しくしてようと思ったのに」

憤然と腕を組む少女の言葉からは、先程のしおらしげな風情は消し飛んでいた。どうやら演技であったようだ。
「たッ、立てるか?蓬莱寺」

笑っては悪いが笑えるという感情を体現しながら、雄慶が手を差し伸べる。

「う、う〜ん……」
「……難しいんじゃないのか?今の正拳は、中々の角度かつ威力であったし」

相当効いたらしく、フラついている蓬莱寺をちらりと眺めて緋勇が呟く。
我慢できなくなったのか、時諏佐の高笑いが響いた。

「あはははッ。女だからといって侮るんじゃないよ。何せ、小鈴の弓の腕は、天下一品だ」

目で小鈴と呼ばれた少女に、促した。は〜いと元気に頷いた少女が、口を開く。

「ボクの名前は、桜井 小鈴ッ。今日からお世話になるけど、みんな、よろしくねッ」

挨拶を返しながら、正直なところ、緋勇は時諏佐の正気を疑っていた。要は腕が立つとだけの理由で――――近所の道場の娘を引っ張ってきたわけだ。江戸の怪異に立ち向かう、公儀隠密に。何かが間違っていると思った。

「拙僧は、京の醍醐から来た雄慶と申す。見ての通りの僧侶だ。そして、ここで伸びている男が―――」
「はッ、離せよッ、ひとりで立てるぜッ。女の拳ぐれェで、この俺が―――くッ」

いまだ回復しきらないらしく、よろよろと、それでもどうにか自力で蓬莱寺は立ち上がった。

ああまで見事に顎に喰らえば、脚に来ようなと、緋勇はなんとなしに見ていた。それにしても、蓬莱寺は女蔑視のきらいが強いなとも思う。確かに江戸っ子とやらは、女を素っ気無く扱うことを粋、女の機嫌を伺うことを野暮と見なすところがあるのだから、仕方のないことかもしれぬが。
確か、龍閃組に加入させられたあと『何で、俺が女のいいなりになんなきゃならねェんだよ』ともぼやいていた。それについても、蓬莱寺にとっては、無理矢理に加入させられたのだからと理由は付けられるが、納得はし難かった。

「不意を突かれたんだッ。俺は蓬莱寺 京梧だ。いきなり殴りやがって……、なんつう女だ」

騒々しくもやっと紹介を終えたところで、蓬莱寺が顎を摩りながら口火を切った。

「そういや、雄慶。何か話す事があったんじゃねェのか?」
「あッ、うむ。藍殿も、聞いて欲しい話があるといっていたが」

視線を遣った先では、先にどうぞと美里は目で語っていた。頷き、雄慶が口を開く。

「俺の方は、また江戸で妖異が起こっているという話です。何でも、謎の奇病が猛威を振るっているとか……」
「奇病ッ!?まさか、それって、蛇の様な」

立ち上がった美里の叫びを、雄慶は肯定した。それはまさに彼らが耳にした噂そのもの。

「皆、御座り。立って話す内容でもないだろう。おそらく、話ってのはこうだろう?奇病が発生し、その患者が、小石川療養所へ運び込まれている。奇病の症状といえば、発熱や幻覚……そして、蛇の鱗の様な斑紋」

時諏佐が静かに引き取る。
なんのことはない。彼らが聞いた噂は、皆同一のもの。美里に至っては、病を目の当たりにした。

「俺たちも、そういう話を瓦版屋から聞きました。そこで、《大蛇の呪い》とやらの話も」

二百年もの昔の小石川での話。その内容を聞いた時諏佐は、鋭い眼差しで呟いた。

「どうやら、ただの流行り病って訳でもないようだね。二百年前の大蛇の呪いと小石川の奇病を結び付けている糸―――、それを操っている者の存在が何処かにきっとある筈だ」

真剣に頷く一同を見渡し、時諏佐は厳かに告げた。

「行ってもらうとしようか。龍閃組、出動ッ!」

立ち上がり、仕度を整える皆の中でひとり、緋勇は恥ずかしさで顔が赤らむのを感じていた。上の立場の人間は、大袈裟な物言いを好むのであろうか。あちらの頭目の決め台詞『鬼道衆に命ず』も少々恥ずかしかったのだが、これは断然、時諏佐の勝利。

『龍閃組、出動』はあんまりだろう。

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